「扇 マラルメ夫人の」は、1891年1月1日にマラルメが妻のマリアに送った詩で、実際に扇の上に書かれている。つまり、扇が詩なのだ。
そして、それに対応して、詩の内容も、扇をあおぐことが詩の言葉を仰ぎ出す様子を歌っている。

Avec comme pour langage
Rien qu’un battement aux cieux
Le futur vers se dégage
Du logis très précieux
まるで言葉であるかのように
空中に向けてひと仰ぎするだけで
これからの詩句が解き放たれる
大変に繊細な住まいから
19世紀後半、マネ、モネ、ルノワールたちは、扇を手にした女性たちを好んで描いた。





詩人であるマラルメは、扇を詩の隠喩として用い、マリアが扇をゆらゆらと揺らす姿を前にして、彼の考える詩とは何かを伝えようとしたのだろう。
そのために、まず最初に、扇を「一度あおぐだけ(rien qu’un battement)」という動きを、「言葉(langage)」と連動させる。
そうすることで、扇の生み出す風を詩句の言葉と重ね合わせる。

扇の生み出す風が、「これからの詩句(le futur vers)」として、「大変に繊細な住まい(logis très précieux)」から発散する。
その扇は開かれているが、その元をたどれば扇の要(かなめ)があり、要を握るマラルメ夫人の手がある。
風が、そして、詩の言葉たちが飛び立つ起源はその手であり、マラルメはその手を「大変に貴重な、繊細な(très précieux)」と形容し、妻に対する愛をそっと告げている。
それと同時に、開かれた扇の先と要との関係は、現実における多様性とその起源にある統一性(=全)の関係を連想させる。
現実のレベルでの全ての多様性の起源には、一つの根源が想定される。扇はそうした世界観を体現しているともいえる。
第2詩節は、« aile » という単語の扱いが問題になる。
Aile tout bas la courrière
Cet éventail si c’est lui
Le même par qui derrière
Toi quelque miroir a lui
翼(を与えよ)、小さな声で、文を運ぶ女(に)
この扇が、もしそれがまさに
同じものなら、それによって
お前の後ろで なんらかの鏡が輝いた
« Aile »は「翼」を意味する名詞と一般的には見なされているが、その場合には、« tout bas(小さな声で)»という副詞と« la courrière (伝令、文を運ぶ女性)»という名詞とのつながりが、非文法的になる。
他方、アルチュール・ランボーが「酔いどれ船」の中で、« ailer »という動詞を作り、「翼を与える」という意味で使ったことがある。その新語をマラルメが用いたと考えると、扇に向かい、「文を運ぶ女性にひっそりと翼を与えろ」と命令することになる。
(ランボー マラルメ 詩句の仕組み)
いずれにしろ、「文を運ぶ女性」とは「詩」を指すと考えてもいいだろう。
扇が鳥の羽のように優しく密やかにあおがれ、そこから生まれる風が言葉となり、紡ぎ出されていく。
ただし、詩を生み出すには、一つの条件がある。
それは、その扇と同じ扇によって、あることが起こっていたことが必要だとされる。
たぶん今と同じように、鏡が「お前(マラルメ夫人)の後ろ(derrière toi)」に置かれていた。
そして、夫人のあおぐ扇によって、その鏡が「輝いた(a lui)」(複合過去)ことがあったのだろう。
ただしそのすでに完了した出来事は、明確な時間の中に位置づけられるのではなく、おぼろげな記憶の中にある。そのことは、鏡に不定形容詞が付き、「なんらかの鏡(quelque miroir)」とされていることで示される。つまりそれは、自分たちの部屋に置かれている「le miroir(その鏡)」といった慣れ親しんだ対象ではなく、おぼろげで不確かな存在なのだ。
そこで、ほぼ同一の二つの情景が浮かび上がってくる。
一つは、マラルメ夫人が扇を絶え間なく扇いでいる今の場面。
もう一つは、夫人の後ろに置かれた鏡が、扇の動きによって、輝いた場面。
そして、その二つの場面に存在する扇に関して、「もしそれがまさに同じものならば(si c’est lui le même)」という条件が提示される。
その同一性は、大きく開いた扇のそれぞれの先端が、唯一の要から発生していることと同様の事態を意味している。
第3詩節では、鏡が透明であると言われるだけで、後の詩句はカッコの中に入れられている。
Limpide (où va redescendre
Pourchassée en chaque grain
Un peu d’invisible cendre
Seule à me rendre chagrin)
透き通った(鏡)(そこに再び下りていくのは
粒々になって追われた
目には見えないわずかばかりの灰
それだけが私を悲しくさせる)
鏡は「透き通っている(limpide)」。
曇りのない鏡は現実の情景をくっきりと映しだし、その鏡像は現実の情景と区別がつかないほど。
続く詩句がカッコの中に入っているのはなぜだろう?
透明の鏡に、「目に見えない灰(invisible cendre)」が、「再び舞い降りるだろう(va redescendre)」。
その原因は夫人のあおぐ扇の風。その風に「追われて(pourchassée)」、目に見えない灰が「粒々になり(en chaque grain)」、落ちていく。
その灰「だけ(seule)」が、「私」を「悲しく(chagrin)」するものだ。
書かれていることはこのように読み取ることができるが、しかし、何を言いたいのかはわからない。
マラルメの詩句を読むときには、そのわからなさをきっかけにして、なんらかの答えを探していかなければならないし、それが彼の詩の魅力でもある。
まず、わからなさの原因を探してみよう。
目に見えない灰が何を意味するのか?
なぜ目に見えないものがなぜ粒になっているように見えるのか?
なぜその灰が私を悲しくするのか?
「扇 マラルメ夫人の」が詩とは何かを歌っているとすると、扇のゆらめきが、灰を舞い上がらせ、粒子にするのではないかと考えてみたい。
扇の動きによって、目に見えない存在が微少ではあるが目に見える存在へと変化する。としたら、「それぞれの粒(chaque grain)」とは、詩を形作る言葉と見なすことができるだろう。
扇にあおられて、言葉たちがひらひらと舞い降りてくる。
その根源にあるには、「目には見えないわずかばかりの灰」。
その不可視なものが何かはわからないが、それは私に「悲しみ(chagrin)」を感じさせる。
その感情は、人間が生存する限り感じる漠然とした欠如感から来るものだろう。
ヴェルレーヌであれば、理由のない「物憂さ(langueur)」という言葉で言い表すかもしれない。
その灰が扇の要になり、詩を形作る全ての言葉たちがひらひらと舞い降りていく。
下りる先は透明な鏡の上。そこにはマラルメ夫人がゆらゆらと扇をあおぐ姿が映っている。
そのようにして、詩の言葉は、詩を生み出す行為を指し示す。
とすると、カッコの中の詩句は、透明な鏡に映る扇の動きが詩作そのものであり、それぞれの詩作は多様だとしても、その根源には人間存在の在り方という共通する要素があることを示していると考えることができるだろう。
さらに言えば、マラルメ夫人の扇から送り出された風が、鏡の表面に吹き付けた言葉たちそのものともと考えることもできる。
最後の詩人は、妻の揺らす扇に向かい、次のように念じる。
Toujours tel il apparaisse
Entre tes mains sans paresse
常にこんな風に、扇が姿を現しますように
怠けることのない お前の手の中で
「こんな風に(tel)」というのは、上の3つの詩節で描いてきたように、という意味。
「姿を現すように(il apparaisse)」と、接続法現在形を使い、扇に対して命令あるいは依頼を行う。(que+接続法現在は命令を意味する。ここでは、queを省略した形での命令形。)
詩人は、鏡の前で優雅に扇を揺らす妻の姿を見ながら、彼女を詩のミューズに見立て、詩の在り方を一編の詩として歌った。
「扇 マラルメ夫人の」をそのように解読することも可能だろう。