
モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)の現象学は、身体と精神、外界と内面、客観と主観といった二元論的な思考に基づく対立を回避し、二項間の相互関係を解明しようとした点で、19世紀後半から始まった世界観の大転換の流れの中に位置づけられる。
そうした彼の思想は大変に興味深いのだが、難解な言葉で語られているため、理解するのが難しいことが多い。
ここでは、セザンヌの絵画について究明することを目的に書かれた『目と精神(L’œuil et l’exprit)』から二つの断片を選び、メルロ=ポンティの思想を探ってみよう。
(1) L’animation du corps n’est pas l’assemblage l’une contre l’autre des parties — ni d’ailleurs la descente dans l’automate d’un esprit venu d’ailleurs, ce qui supposerait encore que le corps lui-même est sans dedans et sans « soi ».
(2) Un corps humain est là quand, entre voyant et visible, entre touchant et touché, entre un œil et l’autre, entre la main et la main se fait une source de recroisement, quand s’allume l’étincelle du sentant-sensible, quand prend ce feu qui ne cessera pas de brûler, jusqu’à ce que tel accident du corps défasse ce que nul accident n’aurait suffi à faire… (chapitre II)
(1)身体の生命活動はその各部位を対立させて組み立てたものではないし、もっと言えば、よそから来た精神がロボットの中に下ってきたのでもない。もし精神がロボットの中に下ってきたと考えると、身体それ自身には内面も「自己」もないと想定することになってしまう。
(2)人間の身体がそこにあるのは、以下のような時である。見る者と見えるものの間、触れる者と触れられるものの間、一つの目ともう一方の目の間、手と手の間で、それらが交差する源泉が成立する時。感じる者ー感じられるものの閃光がきらめく時。その火が点火する時。その炎は、どのような身体の変調も十分にはそれを作り出すことができなかったようなことを、ある身体の変調が壊してしまうまで燃え続ける。。。(第2章)
(1)日本語では、動詞を多く使い、できる限り具体的に物事を解説しようとする傾向がある。その反対に、フランス語の書き言葉は、名詞表現が多く、抽象的に語られることが多い。
ここでも、「身体の生命活動(animation du corps)」と名詞表現が使われているが、動詞を使い表現すれば、身体が命を持ち、活動している、といった意味だとわかる。
「(身体の)各部分の組み立て( l’assemblage (…) des parties)」は、手や足や胴体や頭が組み合わされているという意味。
要するに、人間は、単に肉体的な部位(手・足など)が組み合わされただけの「ロボット、自動人形(automate)」ではないし、次の文で示されるように、そのロボットの中に「精神(esprit)」が入り込んでいるわけでもない。
もし肉体が単なるロボットだと考えるとしたら、そこには「内面(dedans)」も「自己(soi)」もないことになってしまう。
そのように読み解くと、ここで問題になっていることは、精神と肉体の関係であることがわかってくる。
ヨーロッパの思想では、17世紀のデカルト以来、精神と肉体は完全に引き離され、二元論的な思考がなされてきた。人間の本質は精神であり、肉体は物質的なものと見なされた。
その考え方をもう一歩進めると、人間と世界との関係においても、例えば、「私が一本の木を見る」という状況の中で、「私」という主体がこちら側にあり、あちらにある「一本の木」を眺めるという図式が出来上がる。
その場合、「一本の木」は客観的に存在し、それを「私」が主観的に見る、ということになる。「私」が見ていなくても、その「木」は存在する。
主観と客観を区別するこうした考え方を、私たちは誰もが当たり前と思っている。
メルロ=ポンティが問題にするのは、この当たり前に思われる考え方に他ならない。
彼は、「見る者(voyant)」と「見えるもの(visible)」つまり見られる対象との間に、「交わり(recroisement)」の「源泉(une source)」があると考える。
言い換えれば、見ている「私」と見られる対象である「木」が、見るという行為の中でなんらかの関係を持つと見なす。
そのことは、視覚ではなく、触覚について考えるとわかりやすい。
私の手が一本の万年筆を握る時、手が主体として対象である万年筆に触れることは確かだが、その際に、指は万年筆の形にそって多少形を変える。指と万年筆の間に「交わり」が存在し、視点を変えれば、万年筆が指に作用を及ぼすとも考えられる。
そこにあるのは、主体と客体の相互作用であり、二つは「触れる」という関係の中で、交わりを持っている。
(2)メルロ=ポンティは、視覚にも触覚と同様の相互作用を認める。
「見る」の後、「触れる者(touchant)」と「触れられるもの(touché)」に言及し、「目(œuil)」の後で「手(main)」に言及するのは、そのためである。
別の箇所で、彼はセザンヌと同じ南フランスのエクス・アン・プロヴァンス生まれの画家アンドレ・マルシャンの言葉を引用している。
「森の中で、私は何度も、私が森を見ているのではないと感じました。幾日かの間、私が感じたことは、木々が私を見、私に話しかけている、ということでした。」
メルロ=ポンティは、その関係が五感全てに当てはまると見なし、「感じるもの(sentant)」と「感じられるもの(sensible)」という言葉で、味覚、臭覚、聴覚も視野に入れる。
そして、「人間の身体(un corps humain)」とは、「私」が独立して存在し、「世界」と対峙しているのではなく、「私」と「世界」の「交わりの源泉(source de recroisement)」において存在するものだとする。
さらに、主体と客体の交わりから「閃光(l’étincelle)」が発するという比喩的な表現を付け加え、その状況が「いつまで( jusqu’à ce que)」続くのかを予告する。逆に言えば、いつ終わるのか告げることでもある。
「身体のなんらかのアクシデント(tel accident du corps)」は例によって名詞表現であり、日本語的な発想では、アクシデントを動詞的に理解し、「体になにかしらの変調をきたす」という意味に解釈すればいいだろう。
「身体」が存在するといえるのが、「私」と「世界」との間に交わりがある時であり、その時に炎が燃え上がるとしたら、身体のアクシデントとは、その交わりが途切れることだと考えられる。
普通であれば、どんなことが起こってもそれを途切れさせるには「十分ではない(n’aurait suffi)」が、しかし偶発的になんらかの変調が起こると、「私」と「世界」は互いに独立した存在とみなされることになる。
その際には、「私」は主体として「木」を眺め、「木」は単なる客体として、「私」とは無関係の存在と見なされる。
「私」の体はロボットのような物質であり、精神とは何の繋がりもない存在と見なされる。
要するに、メルロ=ポンティにとって、心身二元論は、アクシデントの結果だということになる。
実は、デカルトも日常生活の次元、つまり人間が何かを感じる五感のレベルにおいては、肉体と精神の合一を認めていた。
精神は純粋知性によってしか理解されません。身体すなわち延長、形、運動は純粋知性のみによっても理解されますが、想像力に助けられた知性によってはるかによく理解されます。最後に精神と身体との合一に属することがらは、知性だけによっても、想像力に助けられた知性によっても漠然としか理解されませんが、感覚によってきわめて明瞭に理解されます。それゆえ、まったく哲学したことがなく、感覚しか使わない人は、精神が身体を動かし、身体が精神に作用することを、少しも疑わないのです。(『デカルト=エリザベト往復書簡』山田弘明訳)
この一節を読むと、デカルトにとっては、心身の相互関係を認めることは、哲学しないことの証だった。知性的に思考すれば、精神と身体は分離した二つの存在だと理解できるとする。
何度も繰り返すことになるが、メルロ=ポンティはこうしたデカルト的二元論を否定し、心身が一つの総合体であることを証明しようとする。
そこで、あえてデカルトの『屈折光学』から触覚を論じている一節を引用し、自説へと展開していく。
(1) « Et ceci nous arrive ordinairement sans que nous y fassions de réflexion (,) tout de même que lorsque nous serrons quelque chose de notre main, nous la conformerons à la grosseur et à la figure de ce corps et le sentons par son moyen, sans qu’il soit besoin pour cela que nous pensions à ses mouvements. »
(2) Le corps est pour l’âme son espace natal et la matrice de tout autre espace existant.
(3) Ainsi la vision se dédouble : il y a la vision sur laquelle je réfléchis, je ne puis la penser autrement que comme pensée, inspection de l’Esprit, jugement, lecture de signes.
(4) Et il y a la vision qui a lieu, pensée honoraire ou instituée, écrasée dans un corps sien, dont on ne peut avoir idée qu’en l’excerçant, et qui introduit, entre l’espace et la pensée, l’ordre autonome du composé d’âme et de corps. (chapitre III)
(1)「そうしたことは私たちに普通に起こることで、そのことを特によく考えるまでもない。全く同じように、私たちが手で何かをつかむとき、私たちは手をその物体の大きさや形に合わせるだろうし、そのような方法でその物体を感じるが、そのために、手の動きを考える必要はない。」(『屈折光学』)
(2)身体は、魂にとって、魂が誕生する空間であり、実在するまったく別の空間の母胎でもある。
(3)そのために、見える像は二重化している。私が反省的に考察する視覚像がある。その映像は、思考であり、「精神」の注意深い考察であり、判断であり、記号の読解としてしか考えることができない。
(4)そして、生起する視覚像がある。それは、名前だけで実効性のない思考であるか、あるいは、それ自身の肉体の中で形作られ、押しつぶされた思考ともいえる。その映像についての考えを持てるとすれば、それを実践することによってのみである。そして、その映像は、空間と思考との間に、魂と身体で構成されたものの自立的な次元を導入する。(第3章)
(1)デカルトは、私たちがある物を手に取るとき、何も考えなくても、手は物の形状に合わせて形を変えるという単純な事実を確認する。
そのことは、手という身体の一つの部位が、一方では精神(魂)とつながり、他方では外部の物体とつながることを示している。
(2)そこからメルロ=ポンティは、身体が魂と外部の空間の狭間にあり、二重性を帯びているという考察を引き出す。
一方で、身体は魂と密接に関係し、「魂が生まれる空間(son espace natal)」となる。それと同時に、身体という空間が意識されることは、身体に属さない空間を意識することにもつながる。
「実在するまったく別の空間(tout autre espace existant)」とは、私の手が万年筆に触れる時のことを考えると、私の手以外の空間のことを指すと考えていい。
手の形が変化すると、それに伴いまわりの空間の形も変化する。その意味で、手は別の空間の「母胎(matrice)」にほかならない。
そして、身体と魂、身体と他の空間という、身体の二重性に基づき、視覚が捉える「像(vision)」には二つの側面があることを明らかにする。
(3)「私が反省的に考察する視覚像(la vision sur laquelle je réfléchis)」
この映像は、二元論的な表現を使えば、主観的な像と呼ばれるものに近い。「私」が一本の木を見るとき、木の姿は私の視点からの見える姿であり、私の主観の中で捉えられるイメージと言ってもいいだろう。
メルロ=ポンティは、その像は「思考(pensée)」そのものであり、「精神(L’Esprit)」の見る映像であり、見る人はそれを判断し、映像の様々な部分を記号として読み説く作業を行うとする。
(4)「生起する視覚像( la vision qui a lieu)」

「視覚像(vision)」である限り、必ず誰かが見ているものであり、その意味では「思考(pensée)」になる。
しかし、それが「生起する(a lieu)」のは、私の側ではなく、別の空間の側になる。例えば、絵画に描かれた山のような形。
その場合には、映像は具体的に描き出されているために、思考そのものではなく、思考という「名前だけ(honoraire)」であるとも、物理的な「その物体(un corps sien)」の中で思考が押しつぶされているとも考えられる。
要するに、絵具で描き出されているために、物質性が伴っている。逆に言えば、「それを実践しなければ、(qu’en l’exerçant)」、つまり、その映像が描かれなければ、それがどのようなものかわからない(on ne peut avoir idée)」。
メルロ=ポンティによれば、その視覚像は、見る「私」と見られる「山」との交わりから生まれた像であり、そこには「身体」と「魂」の合一する「私」が含み込まれているということになる。
このブログを書いている私は哲学者ではないので、正直に言えば、なぜメルロ=ポンティがこんなにわかりづらい表現をするのかと思ってしまう。もっと普通の読者のわかる言葉で書いてほしい、と。
その一方で、彼の主張する内容が19世紀後半以降の世界観の転換に基づき、それをさらに発展させようとしたものだということで、非常に興味を惹かれることも確かである。
ここで検討した二つの断片では、デカルトを中心にした二元論を取り上げ、それが二つの次元で否定された。
一つは、主体と客体の次元。もう一つは、精神(魂)と肉体の次元。
メルロ=ポンティは、ここでは「身体(corps)」という言葉を使い、別の箇所では「肉(chair)」という言葉を使いながら、精神と肉体のつながりを示し、「私」と私の見る「物」の相関関係を浮かび上がらせようとした。
われわれの語っている肉は、物質ではない。それは見えるものの見る身体への、触れられるものの触れる身体へのまきつきなのであり、(中略)、その結果、身体が、触れられるものとしては物の間に降りていくが、それと同時に触れるものとしてはすべての物を支配し、(後略)。(『見えるものと見えないもの』滝浦静雄、木田元訳)
こうした世界観が20世紀前半から哲学的な思考においては中心となった。
そのことは、芸術や文学を理解するために必要な知識として頭に入れておきたい。