ベルクソン 直感と持続 Bergson intuition durée

1859年に生まれ、1941年に亡くなったアンリ・ベルクソン(Henri Bergson)は、19世紀後半に起こった世界観の大転換に基づきながら、「現実」や「私」をそれ以前とは違った風に認識する独自の哲学を展開した。

ここでは、『形而上学入門(Introduction à la métaphysique)』(1903)の中から3つの断片を選び、「直感(intuition)」、「私(moi)」、「持続(durée)」に関する思索を検討し、ベルクソンが私たちに何を教えてくれるのか考えていく。

私たちが物事を理解する時、多くの場合、対象を「分析(analyse)」することで様々な要素を探り出し、それらを総合して理解に達しようとする。

それに対して、ベルクソンは、どんなに多数の要素を総合しても対象自体には決して達することがないと考える。例えば、一秒を60足せば一分になると思ってしまうが、一秒と次の一秒の間には必ず断絶があり、決して流れにはならない。一分を流れとして捉えるためには、「直感(intuition)」によって全体を一気に感じ取るしかない。

(1) Nous appelons ici intuition la sympathie par laquelle on se transporte à l’intérieur d’un objet pour coïncider avec ce qu’il a d’unique et par conséquent d’inexprimable.
(2) Au contraire, l’analyse est l’opération qui amène l’objet à des éléments déjà connu, c’est-à-dire communs à cet objet et à d’autres.

(1)ここで私たちが「直感」と呼ぶのは「共感」である。共感によって、人はある一つの事物の内部に運び込まれ、その事物が持つ唯一のもの、従って、言葉では表現しえないものと、同時に生起する。
(2)反対に、分析は、対象となる事物を、すでに知られている要素、つまりその事物と別の事物に共通する要素へと導く操作である。

一般的に「直感(intuition)」というと、理性に基づいた推論や分析をせず、感覚的に物事を捉える、瞬時の判断を指すことが多い。直感が正しいかどうかを論理的に判断することはできず、物事を科学的に考える方法としては相応しくないと見なされる。

それに対して、ベルクソンは、「直感」こそが、一つの事物をそのものとして把握する唯一の方法であると主張する。
ここで重要な点は、「一つの事物」ということ。例えば、何本かの木があるとして、種類としては全てが一括して「木」と分類されるが、しかし、一本一本の木は異なっている。一本の木を別の木と区別するものは何か?

その木を「分析」すれば、答えが出てくるように一般的には考えられている。しかし、ベルクソンが言うように、「分析」することで木の様々な要素を取りだす場合、その要素は、他の木と共通する一般的な要素になってしまう。一般論としての木には迫れても、ある一本の木の独自性を把握することはできない。
「分析」は「一般性」に迫るが、「単独性」あるいは「唯一性」を捉えるための手段には向かない。

では、「その木」の理解は、どのようにして可能なのか?
ベルクソンはその問いに、「直感」と答える。
彼にとっての「直感」とは、「ある一つの事物の内部(l’intérieur d’un objet)」に入り込む「共感(sympathie)」だという。
「共感」は、事物を要素に分割することなく、「全体」として一気に捉え、そこに入り込むことを可能にする。
そして、その「全体」こそが、他の事物とは違う「唯一の(unique)」ものである。

また、言葉は、どのような性質にしろ、他のものにも当てはまる表現なので、どれだけ言葉を連ねても、一つの物の独自性を言い表すことはできない。
そこで、「直感」によって事物の内部に「運び込まれ(on se transporte)」、それを他のものとは違う唯一の存在として捉える時には、「言葉にできない(inexprimable)」ものを捉えたことにもなる。

ここまで見てきた「直感」と「分析」の対比は抽象的で、すぐにピンとこないかもしれないが、ある一人の人について考えてみるとわかりやすくなるかもしれない。
例えば、ある人に、「私はどんな人間だと思う?」と質問された場合、どのように答えるだろうか。
「明るい人」とか「少しズレたところがある」とか、いくつかの要素を数え上げても、それらの要素は、他の人間にも当てはまる一般論でしかない。その要素をどんなに足していっても、質問した人間そのものには到達しない。
同じことは、就職活動などで、自己分析をする時にも当てはまる。どんなに自分を分析しても、出てくる要素は一般論だけ。他にもそんな人はいくらでもいるという結果になり、結局は一つの類型に自分を当てはめるにすぎない。

その一方で、一人の人間、例えば「私」は、この世にたった一人しかいない。「私」を知る人であれば、他の人と「私」を混同することはない。「私」を定義しようとしても定義できないが、しかし「直感」的に「私」は「私」だとすぐにわかる。

そうした「私」のあり方を、ベルクソンは次のように説明する。

Il y a une réalité au moins que nous saisissons tous du dedans, par intuition et non par simple analyse. C’est notre propre personne dans son écoulement à travers le temps. C’est notre moi qui dure.

少なくとも、私たちみんなが、内部から把握している一つの現実がある。それは直感によるのであり、単なる分析によるのではない。その現実とは、時間の中で展開する私たち自身。持続する私たちの自己である。

私たちは誰でも、「自分」が「自分」であることはわかっている。その認識は分析的になされるのではなく、何も考えず、直感的にごく当たり前のこととしてなされる。

分析するということは、全体を部分に分けることにつながるが、それは「私」の「生」の流れを分割することにつながる。流れを点にしてしまう。しかし、それでは、「私」は断片化され、しかも、その断片をつなぎ合わせても、決して流れにはならず、生きている「私」にはならない。

私たちは誰しもが途切れることのない「生」を生きているのであり、その「流れ(écoulement)」の中に私たちの「私自身(notre propre personne)」がある。
その生の流れをベルクソンは「持続する(dure)」という言葉で表現する。「私たちの自己(notre moi)」は持続するのだ、と。

では、ベルクソンがあえて「時間(temps)」の流れを「持続(durée)」という用語で強調するとしたら、その理由はどこにあるのだろう?
その答えは、次の一節で明らかになる。

(1) Pourtant, il n’y a pas d’état d’âme, si simple soit-il, qui ne change à tout instant, puisqu’il n’y a pas de conscience sans mémoire, pas de continuation d’un état sans l’addition, au sentiment présent, du souvenir des mémoires passés.
(2) En cela consiste la durée. La durée intérieure est la vie continue d’une mémoire qui prolonge le passé dans le présent, soit que le présent renferme distinctement l’image sans cesse grandissante du passé, soit plutôt qu’il témoigne, par son continuel changement de qualité, de la charge toujours plus lourde qu’on traine derrière soi à mesure qu’on vieillit davantage.
(3) Sans cette survivant du passé dans le présent, il n’y aurait pas de durée, mais seulement de l’instantanéité.

(1)しかし、魂の状態は、どんなに単純なものだろうと、一瞬毎に変化しないことはない。というのも、記憶のない意識は存在しないし、ある状態が継続していれば、必ず過ぎ去った記憶の思い出を現在の感情に付加するからだ。
(2)そのことで成り立つのが持続である。内的持続とは、過去を現在へと引き伸ばす記憶がずっと生き続けることである。現在は、過去の絶え間なく増大するイメージをはっきりと閉じ込めているとも考えられるし、あるいは、現在は、人間が歳を取るにつれて自分の後ろに引きずることになる常に重量を増す負荷を、質の継続的な変化によって証明しているともいえる。
(3)現在の中に過去が生き延びていないのであれば、持続は存在せず、たんに一瞬一瞬があるだけになってしまう。

(1)ここでは「魂の状態(état d’âme)」という言葉で表現されているのは、私たちが生きている状態と考えていい。私たちは生きている。そして、生きている限り、一瞬毎に変化している。

ベルクソンが強調するのは、今の瞬間とその直前の瞬間を考えた時、生きている限り、それらは繋がり生の流れとなっているのだから、今の瞬間にはその前の瞬間が含まれる、ということ。

一般的には、過去は過ぎ去り、二度と戻って来ないと言われる。その考えに従えば、現在と過去は切り離されていることになる。
しかし、私たちには過去に関する記憶があり、忘れていることも多いが、忘れたくても忘れられないことも多くある。
生きている限り生命は継続している。だからこそ、ベルクソンは、「記憶のない意識はない(pas de conscience sans mémoire)」と断言し、「今の感情(sentiment présent)」の中には、「必ず過ぎ去った記憶の思い出(souvenir des mémoires passés)」が継続していると考える。
生は途切れなく続いているのだから、それは当たり前のことだと言えるのだが、私たちは、「今」を考える時、習慣的に「過去」や「未来」と切り離す癖がついているために、それらの時点を分断してしまう傾向にある。
ベルクソンはその習慣にメスを入れたのだった。

(2)ベルクソンは、「持続(durée)」という用語を使うことで、生命の流れを彼の思索の中心に置いたのだった。

ここでは「時間(temps)」という用語は使われていないが、「持続」と対比させ、時計で計ることのできる「時間」は、秒・分・時間と分割可能なものと見なした。

「時間」が外的なものだとすれば、「持続」は「内的なもの(intérieur)」であり、人間が心の中で感じる生命そのものと見なされる。

「持続」が分割することのできない生の流れだとすると、「今、現在」の中にそれまでの流れが流れ込んでいることになる。
「現在(le présent)」の中には、「過去(le passé)」そのものではなく、過去の「記憶( mémoire)」が常に含まれている。
従って、流れが進めば進むほど、記憶も増大してく。「過去の絶え間なく増大するイメージ(’image sans cesse grandissante du passé)」とは、そのことを意味している。

同様に、人間が「年齢を重ねれば重ねるほど(à mesure qu’on vieillit davantage)」、過ぎ去った流れの量は多くなるので、記憶の「負荷(charge)」は、より「重い(lourde)」ものになる。

その上で、それは量の問題だけではなく、現在の状態の「質(qualité)」にも関係してくると、ベルクソンは言う。
言われてみればわかるように、私たちは様々な経験を経ることで、人間としても変化している。経験は「量」かもしれない。しかし量の増大は、確実に、「質」の変化を生み出す。

こうした「記憶」に関する考察は、マドレーヌの挿話で有名なマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と通底する思索であり、ベルクソン哲学が20世紀前半のフランスにおける時代精神を反映していることの証だと考えることができる。

(3)「現在の中に過去が生き延びていない(Sans cette survivant du passé dans le présent)」とは、「過去(le passé)」と「現在(le présent)」を分断して認識することを意味する。

分断すれば継続、つまり持続は途切れ、残るのは、孤立した瞬間の連続になってしまう。それは、流れを「時間」として捉えることにつながる。

「時間」は誰に対しても、どこでも普遍的に適用される基準であり、科学的な実験のためにも、社会生活を円滑に送るためにも、必要不可欠なものである。

しかし、人間が生きるのは非人称的な時間ではなく、個人個人が内的に生きる生の流れであり、断続することのない「持続」に他ならない。
その「持続」は、「私」と他の人では異なっている。そして、「私の持続」を捉えることができるのは、「直感」しかない。


「直感」と「持続」を中心にベルクソン哲学を検討すると、次のことが見えてくる。

点をいくら連続的に並べても、線にはならない。
一つの点を「現在」として捉える場合、それ以前の点は「過去」の時点に置かれ、それらは現在とは断絶した点となる。(分析)

線を捉えるためには、分割するのではなく、線として一気に捉える必要がある。(直感)
そうした場合には、ある一つの時点に意識を止めたとして、その時点にはそれ以前の時点の「記憶」が含まれている。

生の流れを、点の連続として捉えると「時間」になり、線として捉えると「持続」と見なされる。

「時間」は普遍的な基準であり、「持続」は個人の内的な感覚。「個」を捉えるためには、「持続」を直感的に把握することが必要となる。


ピカソやシュルレアリスムの絵画を見てもわかるように、20世紀前半の芸術は、他者からは見えない個人的な映像を描き出している。
それらは、「持続」が世界観の中心となった映像表現だと考えることもできるだろう。

実際、ベルクソンが絵画についても語る場面でも、同じ思考法を確認することができる。

画家の技術とは、レオナルド・ダ・ヴィンチにとっては、モデルの特徴を一つずつ細かく取り上げて、それをカンバスの上に運び込み、そしてモデルの物質性を一部ずつ再現するところにあるのではない。またそれは人が目で見、そして手で触れる生身のモデルが、漠然とした観念性の中に解消されてしまうような、何か得体の知れない非個性的抽象的な類型を描き出すところにあるのでもない。真の芸術とは、モデルの個性を表現することを目指し、そしてそのために目で見られる線の背後に肉眼では見えない運動を、運動自体の背後にさらにもっと秘められた何物かを、つまり根源的志向を、自我の根本的憧憬を、色と形の無際限な豊かさにも匹敵する単純な思想を求めに行くのである。(「ラヴェッソンの生涯と業績」矢内原伊作訳)


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