可翁 黙庵 初期水墨画の始まり

日本の画家が水墨画を描くようになったのは14世紀前半、鎌倉時代後期から南北朝にかけてのことだった

鎌倉幕府は、京都に住む貴族たちの平安仏教(天台・真言)に対抗するため、宋から禅僧を積極的に招き、足利幕府も禅院を保護した。
また、各地の武将たちも、日本の禅僧を大陸に留学させ、禅を中心にした大陸の文芸と美術が数多く日本に移入された。
その結果、円覚寺を始めとする禅宗寺院が建てられ、水墨画も数多く輸入され、日本人の僧たちも水墨画を手がけるようになった。

その代表として、ここでは、可翁(かおう)と黙庵(もくあん)を見ていくことにする。

可翁は、「可翁」という印のある水墨画から、画家の存在が仮定されてきたが、生没年も伝歴も明かではない。
黙庵に関しては、禅僧で、1320年代後半に元に渡り、帰国を願いながらも、約20年後、大陸で客死したことが知られている。

可翁の描く蜆子(けんす)和尚も、黙庵の描く布袋(ほてい)も、道教や仏教に関する人物を画題とする「道釈画」でしばしば取り上げられた。

蜆子和尚は、常に同じ衣服をまとい、気が向いた時に川辺でエビやシジミを捕って食べ、夜は紙にくるまって寝たという、自由気ままな僧。
布袋は唐の僧で、いつもズタ袋を背負っていたことから布袋と呼ばれた。その後、救世主である弥勒(みろく)菩薩の化身として禅宗で信仰を集め、袋になぞらえた太鼓腹の姿で描かれた。

上で見た可翁と黙庵の水墨画は、どちらも、脱俗的な人物が、この世の俗事にこだわらず、飄々とし、少しユーモラスな姿で描かれ、穏やかな幸福感に満ちあふれている。

この穏やかさは、日本において、南宋の画僧、牧谿(もっけい、1264-94)の影響が強かったことを示している。
牧谿は中国ではそれほど評価が高くないのに反して、日本では非常な人気を博した。その理由は、彼の水墨画が、激しさや険しさではなく、豊かな湿気を含んだ大気を感じさせ、穏やかな雰囲気を醸し出しているからであろう。

牧谿の「観音猿鶴図(かんのん・えん・かく・ず)」では、竹林から出て来た鶴、岩の上に座る白衣の観音、長く伸びる枝の上の猿の親子、それら全てが、季節の変化を感じさせる大気に包まれている。

この三幅対の水墨画には、墨の濃淡の使い分けによって作り出される重量感や軽みが感じられる。
また、輪郭線がしっかりと描かれるところがある一方で、溌墨(はつぼく)という技法で墨を画面に降り注ぎ、物の形がぼんやりとさせたところがあり、ふっくらとした立体感も生まれている。
さらに、画面を全て塗りつぶさず、余白を多く残すことで、そこはかとない余情が感じられる。

細部に目を移すと、竹と鶴の足はどちらもすらっと伸びているが、竹の太さや節の様子と、前に進もうとする鶴の足とは、全く違う。鶴の嘴、頭、首をおおう一面の黒と、フンワリとした羽根の先の黒も、しっかりと描き分けられている。
中央に位置する観音の柔らかな衣と周りのがっしりとした岩の違い、猿の親子の毛並みのおぼろげさと木々の葉のおぼろげさの違いも、はっきりと感じられる。

このように、牧谿は、水で溶かした墨の多様な機能を十分に活用し、水墨画の面白さを十分に堪能させてくれる。

そうした視点で、もう一度、可翁の「蜆子和尚図」と黙庵の「布袋図」を見ると、墨の線の太いと細い、濃いと薄い、明確とおぼろげなどが、実に巧みに組み合わされていることに気づかされる。

そうした絶妙な墨の使い分けは、道釈画の画題としてたびたび取り上げられた唐の時代の僧、寒山(かんざん)、拾得(じっとく)、豊干(ぶかん)を描いた作でも共通している。
これら三人の僧は、世間離れした奇妙な行動で知られ、寒山は経典を、拾得はほうきを持ち、豊干はトラと共に、禅画に描かれることが多かった。

可翁の「寒山拾得(かんざん・じっとく)」では、頭髪、衣服の輪郭線、木の細い枝や葉、箒などは濃い墨が用いられ、腰蓑、太い幹や枝葉などは薄い墨で描かれているが、それら全てが微妙に描き分けられ、墨絵の多様な表現が十分に活かされている。

そのようにして浮かび上がる二人の人物は、少し前屈みになり経典を開く寒山と、箒を投げ出して両手を重ねて祈りを捧げるように見える拾得。
彼等は、粗末な衣と腰蓑やざんばらの頭髪だけではなく、とりわけ目の表情を通し、世俗を超越した奇行の主という印象を強く醸し出している。

それに対して、黙庵の「四睡図(しすいず)」は、穏やかさそのもの。
寒山と拾得を両側に置き、中央には豊干(ぶかん)禅師とトラが、春の光の中で日なたぼっこをし、気持ちよさそうに眠っている。彼等の前の川の流れも、頭上の木の枝や葉も眠っているように動かない。
全てが静寂に包まれたこの世界は、禅における悟りの境地を表現するとも言われている。

全体的には薄い墨の柔らかな筆触で描かれた中で、寒山と拾得の髪の毛、トラの毛皮や爪、川の中の石、頭上の枝には濃い墨が使われ、視覚的リズム感を生み出している。

可翁や黙庵が活動した14世紀前半、鎌倉幕府が弱体化し、後醍醐天皇を中心とした朝廷勢力と足利尊氏を中心とする武家政治という二大勢力による南北朝の時代が始まろうとしていた。
そうした混乱の中で暮らす人々の思いを最も的確に表現したのは、1331年頃に成立したと考えられる『徒然草』に違いない。

兼好法師にとって、現実の出来事は、心に現れては消えてゆく空しいものに感じられた。人の命ははかなく、人の心は信用できず、栄枯盛衰の変転は早く、何一つ信頼できるものはない。
しかし、それだからこそ、兼好は、もののはかなさに「あはれ」を見出す。「世は定めなきこそいみじけれ」(第7段)なのだ。
より具体的には、「花は盛りに、月はくまなきをのみ、見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬ、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。」(第137断)と、日本的な美を表現する。

こうした世界観の中で、「四睡図」の豊干たちの眠りに代表される世界の静寂は、たとえ一時の「心にうつりゆくよしなごと」に過ぎないとしても、「そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ ものぐるほしけれ」。
つまり、なんだかあやしげな気分になってきて、現実の物事の成り行きが狂ってくるように感じられ、不思議な世界に引き込まれていくような気がしてくる。
可翁や黙庵の同時代人たちは、彼等の水墨道釈画を前にして、そのような気分を味わったに違いない。

水墨画で描かれる題材は、脱俗の理想となる人物たちとはかぎらない。花鳥画のような自然の事物も対象となった。

牧谿の「叭々鳥図(ハハチョウ・ズ)」は、輪郭を厳密に線で区切るのではなく、最初から墨の濃淡によって形が描かれているため、全体的に穏やかで優しい雰囲気が立ちこめている。

その上で、松のかさかさの枝、尖った葉、松ぼっくりと、それぞれの質感がと感じられる。
画面を横切る太い枝の上にとまるムクドリの一種、叭々鳥(ハハチョウ)は、体を丸めじっと動かない。その中で、小さな目がこちらを見るようにはっきりと描かれ、不思議な印象を生み出す。

可翁の「竹雀図(ちく・じゃく・ず)」からも同様の穏やかな印象を受けるが、竹が揺れ、一本の足で立つ雀がもう一本の足を下ろし、今にも飛び立とうとする姿は、空間全体に生命感を与えている。
風に吹かれて裏返った竹の葉が薄い墨で描かれ、柔らかな春の光を感じさせる。

二枚の水墨画を比べて見ると、牧谿では、叭々鳥が構図の中心を占め、空間全体が安定し、時間が止まった永遠を捕らえているような印象がする。
それに対して、可翁では、空間の中心は空(くう)であり、雀は場面下の岩の上に置かれることで、これから飛び立とうとする動きを感じさせる。そこには時間の流れが含まれ、雀の動きは心の動きと重なり、抒情性を生み出すことにもつながる。

中国大陸から伝えられた水墨画が『徒然草』的な感性によって受容され、日本的な水墨画へと徐々に変化していく過程を、可翁の「竹雀図」を通して感じ取ることができるとような気がする。

可翁も黙庵も牧谿の再来と言われた。実際、牧谿から出発していることは疑いを入れない。しかし、それだけではなく、鎌倉後期から南北朝にかけての日本の時代精神や感受性に基づき、日本の水墨画の第一歩を記す優れた作品を描くことに成功したのだった。

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