如拙 周文 水墨山水画の発展

鎌倉時代に日本の禅僧が水墨で描いたのは、仏教や道教の教えを説く道釈画が中心だったが、室町時代になると、風景画が数多く描かれるようになる。

その中間点にあるといえる如拙(じょせつ)の「瓢鮎図(ひょう・ねん・ず)」と、水墨山水画の一つの頂点ともいえる周文(しゅうぶん)作と伝えられる「竹斎読書図(ちくさい・どくしょ・ず)」を見てみよう。
どちらも、画面の下に絵が描かれ、上には漢文が書かれた、”詩画軸”と呼ばれる形式の作品。

如拙の「瓢鮎図」は、「鱗がなくネバネバした鮎(ナマズ)を、丸い瓢箪(ひょうたん)によって、深い泥水の中で抑えつけることができるだろうか?」という、禅の公案(問い)を絵にしたもの。
室町幕府・第四代将軍、足利義持(よしもち)と考えられる人物が問いを提示し、京都・相国寺の僧、如拙が絵を描き、数多くの高僧たちが答えを詩の形(=1386-1428)で書き付けたことがわかっている。
1415年頃の作品。

前景には瓢箪を持つ男と、川の中を泳ぐナマズが描かれ、考案がそのまま表現されている。その中でとりわけ興味深いのは、周りの景色が大きな位置を占めていること。前の時代に描かれた可翁の「蜆子和尚図(けんすおしょう・ず)」と比べると、そのことがよくわかる。

「瓢鮎図」の前景には竹が伸び、川には細い墨で描かれた草が生えている。後景には斜めに連なる山々が見えるが、その中間は何も描かれず、あたかも靄(もや)でかすんでいるかのような印象を生み出している。また、円形の山の連なりの上空も、空白のまま残されている。

足利義持とおぼしき人物が公案を出した時、絵を担当する如拙に、テーマだけではなく、描き方も指定し、「新様」をもって描くようにと命じたことがわかっている。
つまり、如拙には、従来の様式ではなく、新しい様式を用いることが求められたのだった。

その際の「新様」がどのようなものかは、余白を多く残した風景であることから推定される。
それは、南宋の画家、馬遠(ばえん)や夏珪(かけい)の画法だった。
馬遠や夏珪は、画面の一角に細かな情景を描き、それ以外の部分には何も描かずに余白として残す手法を用い、対角線の構図を形作る山水の情景から、余情を生み出す画法を開発したのだった。

夏珪「渓山清遠図(一部)」(左上)や馬遠「風雨山水図」(右)でも、余白が多く残され、彼等の様式が「辺角の景」と呼ばれたことがよくわかる。

こうした余白の多い様式で描かれた水墨山水画の精神性に関して言えば、空白として残された「無」が、単に何も描かれていないというのではなく、むしろ人間の感情や精神に多く働きかけるという意味で、禅の精神性と重なるとも考えられる。

鈴木大拙は、寒い冬の川(寒江)に浮かぶ小さな船の上で一人吊りをする男の姿を描いた馬遠の「寒江独釣図(かんこう・どくちょう・ず) 」(左下)から、禅の精神を読み取る。

日本人の芸術的才能の著しい特色の一つとして、南宋大画家の一人、馬遠に源を発した「一角」様式を上げることができる。この「一角」様式は、心理的にみれば、日本の画家が「減筆体」といって、絹本や紙本にできるだけ少ない描線や筆触で物の形を表すという伝統と結びついている。両者ともに禅の精神とはなはだ一致している。波立つ水の上の一介の漁舟は、これを観る人の心に、海の茫漠たる広さの感じと同時に平和と満足の感じ ー 「孤絶」の禅的感じ ー を目覚ますに十分である。一見するところ、この小舟は頼りなげに浮いている。(中略)しかし、この頼りなさこそ、この漁舟の美徳であって、これと対照して、我々は小舟と一切とを取り囲む「絶対的なるもの」の無限を感じるのである。(鈴木大拙『禅と日本文化』)

「無」が「無限」を感じさせる禅の精神と、「余白」が「余情」を感じさせる南宋の水墨山水画の精神は、道教や仏教の教えを説く道釈画とも通じ合い、そこに対応を読み取ることは、決して鈴木大拙の独善的な考えではないといえる。

こうした絵画観は、描かれた情景が現実の風景をそのまま描いたものではなく、画家が理想として思い描いた風景であり、室町時代には、「心絵(こころえ)」と呼ばれた。
「心絵」とは、「心に思い描いた理想の境地であり、現実の様子を描いたものではない。」(太白真玄「渓陰小築詩画序」)

そして、京都の相国寺で如拙から絵を学んだとされる周文は、「心絵かく人」の中でも並びなき存在として賞賛された。(心敬『ひとり言』)
もう一度、「竹斎読書図」の周文による絵の部分だけを見てみよう。

竹斎とは、竹林の中にある書斎のこと。
人里離れた山中にある書斎で静かに読書や瞑想や祈りにふけることは、禅僧たちの脱俗の心境を現す理想像であり、詩画軸や水墨山水画の画題としてしばしば取り上げられた。

伝周文の「竹斎読書図」では、断崖の端には二本の松の木が伸び、その横の竹藪の中に茅葺きの小さな家が置かれている。その室内には人の姿が描かれ、静かに書籍を読む姿が想像される。

その書斎の上を見ると、おぼろげに霞む高い山がそびえ、下を見ると、広い水面が広がっている。さらによく見ると、水辺には二人の人物が橋を渡っている姿が描かれ、彼等が書斎の主を訪れようとしているのだと推測される。

全体が対角線の構図を作り、岩壁に立つ一本の松の折れ曲がった枝振りが、画面の中央に向かっている。その先端が指し示すのは「空」。彼方の山々はおぼろげに霞んでいる。
そこから生み出される雰囲気は、『方丈記』などに代表される中世の「隠者文学」以来日本人に愛されてきた「幽玄」の趣(おもむき)とも響き合う。
鴨長明によれば、「幽玄」とは、「言葉に表れぬ余情、姿に見えぬ景色なるべし。」(『無名抄』)

そのように考えると、15世紀中頃に描かれたと推定される「竹斎読書図」が、南宋からもたらされた「新様」の画法に則りながら、中世の日本的な「幽玄」と共鳴する抒情性を感じさせ、大陸の水墨画そのままではない、日本的水墨画になっていることが理解できる。
この書斎図は、「姿に見えぬ景色」を姿にした「心絵」なのだ。

「水色巒光図(すいしょく・らんこう・ず)」も、周文作と推定される詩画軸の代表的なもの。
「巒(らん)」は山の連なりを意味し、「水色巒光」は、俗世間から隔絶した水の色と山並みの光を讃える言葉で、上に書かれた漢文の先頭に記されている。

これも書斎図であると考えられるが、前景にある藁葺きの小さな家の中に人間の姿がない。中景の右手にも水辺に小さな家が見えるが、そこにも人の姿はない。
誰もいない家は、主が去っていった後なのか、それともこれからやって来るのを待っているのか、見る者の想像を掻き立てる。

構図的には、対角線よりも、前景の松から後景の切り立った山への垂直のラインが際立っている。
三本の松の内の一本は、真っ直ぐに上に伸び、中景にまで届く。中景の右手には小さな家が、左手にはもやっとした木々が配置されているが、山の中腹には何も描かれていない。
「竹斎読書図」と同様に、松の先端は「空」を指し示している。

一見すると、前景、中景、後景が、松、家、崖、舟、山で埋め尽くされているかのようで、余白が残されているとは思えないかもしれない。
しかし、私たちの目は、中央の松の先端から高い山の中腹の「空」へと吸い込まれる。それが庵に誰もいない「空」と連動して、何とも言えない寂しさが漂ってくる。
また、水辺から発散する水蒸気で景色がおぼろげに霞む様子からも、「幽玄」な雰囲気が醸し出される。

周文は、相国寺の禅僧であり、画僧として足利将軍家から俸禄を受け、室町幕府の御用絵師として働き、1423年には朝鮮派遣使節に参加したことも知られている。
その一方で、彼の真作と判明している絵は1枚もなく、多くの水墨画が「伝周文」とされ、彼が描いたのではないかと推測されるに留まっている。
しかし、そのことは、逆説的ではあるが、周文的な水墨画の重要性を証明している。
つまり、如拙によって導入された「新様」が広まり、「幽玄」を感じさせるところまで受容され、「周文様」と言われる様式が成立したといえるところまで来たことになる。

詩画軸ではなく、伝周文の屏風絵を見ると、描かれている景物は大陸の山水画のモチーフだが、それにもかかわらず、日本的な季節の情感が感じられる。
例えば、東京国立博物館に収蔵されている「四季山水図屏風」の右隻。

如拙から周文へと水墨画の伝統が受け継がれる中で、日本の水墨山水画が一つの完成形を迎えたことを、こうした伝周文の作品から見て取ることができる。

そして、その伝統は、次の時代の雪舟へと受け継がれ、さらに発展していくことになる。

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