村上春樹「壁と卵」 情報戦から距離を置くことの難しさ

村上春樹は時に時事問題にコミットした発言をすることがあるが、2009年に「エルサレム賞」を受賞した際の「壁と卵」と題された小文は、とりわけよく知られている。
その中で村上は、イスラエルとパレスチナの問題にあえて触れ、集団的な暴力(戦争、軍事力による攻撃)に反対する立場を明確にしたのだった。

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

戦いが目の前にない時には、誰しもが「卵」である個人の価値を説き、「壁」という巨大な暴力システムを非難し、戦争反対を口にする。
しかし、ある状況になると、いつの間にか自分が「壁」の側に立ち、「壁」と同一の思想を抱いているのに、そのことに気づかないことがある。
ここでは、その理由について考えてみたい。

最初に、村上春樹自身による、「壁と卵」の解説を読んでみよう。

さて、このメタファーはいったい何を意味するのか?ある場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です。

紛争や戦争の中で、一般の住民は傷つけられたり、殺害されたりする。「壁」に押しつぶされる、弱い「卵」だ。
平常な時であれば、誰もが「卵の側に立つ。」と言うだろう。

次に、村上はメタファーのもう一つの意味に進む。

 こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむもろい殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。

「システム」というのは、たとえば、「国家組織」であり、国が戦争という選択をした場合には、政府は国民を兵士として戦場に送り出す。そうした場では、「卵」であったはずの一人一人の人間が、軍隊という組織に組み込まれ、敵を殺害したり、命を落としたりする。
その意味で、「システム」という「壁」が「もろい殻を持った卵」を押しつぶしてしまう。

だからこそ、村上は小説家として「卵」であることを誓う。

そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?

2009年の時点で、このスピーチがどれほどの共感を得たのかどうかわからないが、2022年の時点においては、村上が考えていたのとは違う次元の事態が起こってきている。

SNSの普及に伴い、「システム」に反対する「反システム」の動きは、以前よりもはるかに容易に、広範囲に顕在化する仕組みが出来上がっている。
「システム」の側にあるマスコミの流す情報に対し、ネット上ではそれに反する情報が散乱し、一定数の賛同を集める。あえて反対することで、クラッシュ(炎上)を起こし、話題性を高める手法も取られる。

コロナウィルスに関する反マスクや反ワクチンの言動、環境保護団体による絵画への攻撃(例えばゴッホの「ひまわり」にトマトスープを投げた事件)、こうした動きは、「反システム」の具体的な動きだといえる。

ここで注意したいのは、「反システム」が決して「卵」ではなく、実際には、巨大な「壁」の中にある小さな「壁」に他ならないということ。

「反システム」の中でも一定の情報が共有され、それに反する情報は「システム」側に都合のいい情報と見なされ、排除される。

そうした対立をもっとも巧みに利用したのが、アメリカのトランプ前大統領だろう。その結果、アメリカでは、「反システム」派が「システム」側と同数になるほど数を増した状況が続いている。
日本でも、youtubeを使い、情報を発信し、10万人、100万人の登録者数とクリック数を稼ぐことで、高額の収入を得る人々がいる。彼らもまた、閉ざされたコミュニティーの中で同質の情報を共有する閲覧者を増やすことで、自分たちの「システム」を作ることに成功しているのだといえるだろう。

こうした「システム」(「反システム」を含む)の持つ力は、「システム」の思考と自分の思考が一体化し、自分の考えが「壁」の思考と同一化していることに気づかなくなるさせるところから来ている。
一人一人が自分で考えていると思いながら、その考えが「壁」と同じだと意識させないのだ。


今度は、「壁」とは異なる思考を持つことがいかに難しいか、具体的な例で考えてみたい。

昭和17(1942)年に出版された「日本文化私観」の中で、坂口安吾はヒトラーについてこんな風に書いている。

 「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。(中略)
 この悔いや悲しさから逃れるためには、要するに、帰らなければいいのである。そうして、いつも、前進すればいい。ナポレオンは常に前進し、ロシヤまで、退却したことがなかった。ヒットラーは、一度も退却したことがないけれども、彼等程の大天才でも、家を逃げることが出来ない筈だ。
(坂口安吾「日本文化私観
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42625_21289.html

現在の私たちの視点から見れば、ヒトラーを大天才などと呼ぶことはあり得ないし、坂口安吾の人間観が間違っていると考えて当然だろう。

しかし、この文章が書かれた昭和17年、ドイツはイタリアとともに日本の同盟国であり、ナチ・ドイツ占領下で約600万人のユダヤ人が殺害されたといわれるホロコーストもまだ発覚していなかった。
その時代に、戦争に勝つという目的を共有する味方の国の指導者として、安吾がヒトラーをナポレオンと並ぶ大天才と呼んだとしても問題はなかったし、当時はその言葉がすんなりと受け入れられたはずである。

だが、第二次世界大戦後の世界では、ヒトラーは人類に対する罪を犯した犯罪者と見なされ、安吾のようなことを書いたら、一部の極右以外からは、大顰蹙を買うことになる。

もしかしたら、安吾のこの記述だけを見て、「日本文化私観」など読むに値しないと思う人がいるかもしれない。
そうした時、その人は、自分の判断が実は戦後の価値観に基づく「システム」に属していることを意識していないことが多いだろう。
自分の頭で考え、自分の感性に従って物事を判断しているように思っている場合でも、それが「壁」と同じであることに気づくことは少ない。

その結果、自分の考えが状況に応じて変化することにも無自覚でいたりする。


平時であれば、戦争に反対するのが当然だ。戦争とは人を殺すことで、非人間的な行為の極みだと思う。だからこそ、平和の尊さを口にし、子ども達にも伝えていかなければならない。

しかし、自衛のためであればどうだろう? 

1870年の普仏戦争で、フランス北部がプロシア軍に占領された状況を背景にして展開するモーパッサンの『脂肪の塊』の中には、戦争の現実が生々しく描かれている。

占領された地区にあるホテルの女将は、素朴な言葉でプロシア兵たちを悪く言う。

 貧乏人があの人たちを養っているのに、覚えるのは人殺しだけ!—— 私は教育も受けていない年寄りです。本当にそうです。でも、あいつらが朝から晩まで足踏みして、疲れ果てているのを見ると、こう思うんです。役に立つことをたくさん見つける人がいるけれど、人の害になるためにひどく自分を痛めつける人もいるって! 本当に、人を殺すって、ゾッとしません? 殺されるのが、プロイセン人だって、イギリス人だって、ポーランド人だって、フランス人だって同じです。もしひどいことをした人に復讐したら、罰せられますから、悪いことになります。でも、私たちの子どもたちを動物みたいに鉄砲で皆殺しにしたら、いいことっていうんでしょうか? だって、一番たくさん殺した奴に勲章をあげるんですよ。

これが、戦争に関する、本当に素朴な考えだろう。

その後、民主主義の信奉者である男が、もう一つの素朴な考えを口にする。

戦争っていうのは野蛮さ、隣の平和な人を攻撃する時には。でも、祖国を守る時には、神聖な義務さ。

攻撃は野蛮だが、防衛は神聖な義務。
平和を望み、戦争を大量の人殺しだと思う人々も、防衛のためであれば、戦争を厭わない。進んで闘うべきだし、闘うことが立派な行いだと思う。
その時には、どちらの側の兵士にも家族がいて、一人の人間、つまり一つの「卵」であることは、意識に上らない。

「防衛」という情報が流れる「システム」の中にいると、自然に「祖国を守る時には、神聖な義務さ。」という意識になる。
そして、平和を訴えていた時と違う考えになっていることに、あまり意識を向けない。


では、状況に応じた変化を意識化しないのはどうしてだろう?

高橋秀実の『からくり民主主義』に付された村上春樹の解説「僕らが生きている困った世界」の一節から、その問題を考えてみよう。

村上によると、高橋秀実のノンフィクションは、しっかりとした調査に基づいているが、あまりはっきりとした結論がない。
なぜなら現実の出来事は複雑に入り組んでいて、スパッとわかるものではないからだ。

僕がサリンガス事件をあつかった『アンダーグラウンド』(講談社)を書いたときにも思い知らされたことだが、世の中のもめごとには多くの場合、結論なんてないのだ。足を使ってナマの一次情報をたくさん集めれば集めるほど、取材に時間をかければかけるほど、ものごとの真相は混濁(こんだく)、迷走していく。結論はますます遠のいていくし、視点は枝分かれしていく。そうならざるを得ないのだ。

他方、編集者や一般の読者は、明快で簡潔な結論を求る傾向にある。

多くの場合、商業雑誌がノンフィクションの書き手に対して求めているのは、そういう「いや、弱りました、どうしたものか」という内容の文章ではない。「それはこうだ!」みたいな、めりはりのある結論のついた読み物が編集部からは要求されている。読み手のほうだって十分でさっと読めて、クリアにインテイクしやすい情報を期待している。(中略)

実際、さっと読めて、どうすればいいのかすぐに結論を教えてくれる本が、多くの読者に求められるという現実がある。

そうした傾向に対して、高橋秀実は、取材に時間をかけて情報を数多く集め、事実を積み上げていく。

そしてほとんどの場合 — 相変わらずというか — 結末に結論はない。読み手は一章毎に、淡い光に照らされた困惑のソフトな荒地に置き去りにされる。「はい、これはこういうことですね。AをすることがBに強く求められています。はい、次のニュースです。」と言ってくれるような、にこやかで親切なテレビのニュースキャスターはそこにはいない。

「はい、これはこういうことですね。はい、次のニュースです。」
こんな風に、私たちの思考は、「はい、次。」というリズムで、状況が簡潔に示され、結論に素早く達することを好む。
具体的な事実を様々な角度から検討してから自分なりの判断を下すよりも、慣れ親しんだ「システム」あるいは「反システム」が流通させる情報をキャッチし、そこに予め含まれる結論を知るのが手っ取り早い。
しかも、その内部では情報も結論もすでに共有されているため、それらが正解であることは保証されている。安心していられる。他の意見は間違いであり、正義は自分の側にあるという安心感が得られる。

こうした中では、「壁」の側から聞こえてくる「それはこうだ!」という声が知らない間に自分の意見となっていることが多く、「それはこうだ!」と次の「それはこうだ!」の間に矛盾があったとしても、気づかないでいることになる。
例えば、人の命ほど尊いものはないと言いながら、自衛のためであれば武力を行使することが正義であると言う。そして、人命の尊重と大量殺戮の間のチグハグさがそれほど意識されることはない。


村上春樹は世界的に名前の知られた作家であり、日本でもノーベル賞の時期になると彼の名前がマスコミを賑わすことが恒例行事のようになっている。「壁と卵」も比較的よく引き合いに出される。
しかし、彼の主張がどの程度まで理解され、受け入れられているのかということになると、首をかしげざるをえない。

私たちは「卵」の側にいると思いながらも、知らない間に「壁」の側に立っているかもしれない。
「システム」の情報をそのまま反復することもあれば、「反システム」を訴えながら、小さなシステムの中で自足することもある。
そのことに対して、往々にして無自覚でいる。
そして、無自覚であればあるほど、自分の考え(と思うもの)を疑うことがなく、異なった考えを排除し、攻撃することにもなりかねない。
「壁」として「卵」を打ち砕く自分の姿が見えないか、逆に、その姿に快感を覚えるかもしれない。西部劇のヒーローが極悪なインディアンたちを殲滅するように。(実はインディアンたちは先住民であり、ヒーローは開拓という名前の下で侵略を行っていることに無自覚でいる。)

こうした社会の大勢を背景とする時、「どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。」という村上春樹の言葉を理解することは、ますます難しくなってきている。「卵」だと思うものが、実は「壁」の中に作られた「小さな壁」であったりする。

だからこそ、「壁と卵」について粘り強く考えてみることは、明確な答えが出ないとしても、決して無駄な時間の過ごし方にはならないだろう。

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