過去の出来事を思い出す時、私たちは過去と現在を二重に生きている。
思い出すという行為は現在に位置し、思い出される内容を現在の意識が再体験する。その意味で、過去の思い出は現在の体験ともいえる。

ここでは、19世紀の宗教的哲学者セーレン・キルケゴール(Søren Kierkegaard)によるイエス・キリスト観を参考にして、過去と現在の同時性について考えてみよう。
キリスト教が他の宗教と異なる最も大きな特色は、人間イエスが神でもあるという二重性に基づく教義である。
仏教の仏陀にしても、儒教の孔子にしても、道教の老子や荘子にしても、イスラム教のマホメッドにしても、宗教の創始者が神と見なされることはない。
それに対して、キリスト教では、「父なる神、子なるイエス、聖霊」の三位一体が信仰の中心にある。

人間イエスの生涯は、『新約聖書』の中で辿ることができる。
イエスの生年ははっきりしないが、ヘロデ大王(紀元前4年に没)の晩年にガリラヤのナザレで生まれ、紀元28年頃、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた。
その後、ガリラヤ湖畔を中心に宣教活動を開始し、最後はエルサレムでユダヤ教の神殿に批判を加え、ローマのユダヤ総督ポンティウス・ピラトによって十字架刑に処せられた。
処刑に関しては、ローマの歴史家タキトゥスも、『年代記』の中で、短い記述を残している。
実在の人間が神でもあるという教義は、キリスト教の信者でない者にとって不可解に思われるのだが、キルケゴールは、過去に実際に存在したイエスが永遠で絶対的な存在である神であると信じることこそ、キリスト教の本質であると考えた。
絶対者に対する関係においては、ただひとつの時、すなわち現在しかありえない。絶対者と同時にいない者に対しては、絶対者は決して存在しない。そしてキリストは絶対者であるために、キリストに対する関係においては、同時性というただひとつの状況しかありえないことは明白である。(キルケゴール『キリスト教の修練』)

1813年に生まれたキルケゴールにとって、イエスは約1800年前に実在した人物であり、彼の生涯は過去に属する。
その一方で、神は永遠の存在であり、従って、いつの時代にも存在する。言い換えれば、神には現在しかない。
過去に存在した人間イエスが神であるということは、イエスが過去の存在でありながら、同時に、キルケゴールの生きる「今」も存在することを意味する。
「同時性」とは、イエスが「現在」も存在するということを指す。
キリストは(私はこれを大真面目で言っているつもりだ。)楽しいお芝居をやって見せてくれる役者ではない。また、単なる歴史上の人物でもない。彼は背理(パラドクス)として最高度に非歴史的な人物であるからだ。(中略)
過去の出来事は、「私自身にとって」の現実ではない。同時的なるものだけが、私にとっても現実である。君がそれと同時にあって生きているものが、君にとっての現実である。そして、いかなる人もこのようにして、ただ自分がそこにあって生きている時に対してしか同時的になれないのである —— もしも、あのもう一つのもの、すなわち地上におけるキリストの生涯と同時的になることができなければ!
(キルケゴール『キリスト教の修練』)

イエス・キリストの背理(パラドクス)とは、過去の人間でありながら、現在も存在しているということ。従って、彼は時間を超越した「非歴史的な人物」だということになる。
「過去の出来事は、「私自身にとって」の現実ではない。」
「私自身にとって」。それこそが実存主義的と言われるキルケゴールの思想の核に他ならない。
歴史的な出来事は、過去の事実であるが、「私にとって」は存在しない。
「私にとって」は存在するものは、今私が生きている出来事だけであり、その意味で、「同時的なるもの」だけが現実になる。
キルケゴールによれば、キリスト教信者は、過去のイエスの生涯を現在のこととして共に生きなければらない。その信念に基づき、キルケゴーは、教会での儀礼ではなく、「私にとって」という個人の経験を重視した。
「私の生」を生きるのは「私」だけであり、「私」は常に「単独者」として「現在」を生きる(しかない)。
約2000年前のイエスという実在の人間の過去の行いが現実であるのは、まず第一に、「私自身にとって」であり、次に、それが「同時的」に生きられるからだということになる。
人間イエスが神であることの意味は、キルケゴールによれば、まさにそこにある。
以上のようなキルケゴールのイエス・キリスト観は、記憶が呼び起こす過去の思い出の働きを考えるためのきっかけを与えてくれる。
思い出とは過去の出来事の記憶であり、すでに過ぎ去ったことだと、私たちは考える傾向にある。
しかし、思い出す時、私たちは過去の出来事を「同時的に」再体験している。その「同時的なるもの」は現在に属し、思い出す「私」にとっての「現実」なのだ。
思い出が大きな喜びをもたらしたり、実際の体験以上の苦しみを引き起こしたりするのは、それが終わったことではなく、今まさに体験していることだからだ。
つまり、思い出とは、過去と現在を同時に生きることなのだ。
この考察は、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の根底を貫く「無意志的記憶」と関係している。
プルースト 見出された時 Proust Le Temps retrouvé 過去と現在の同時性
プルーストがキルケゴールを直接参照したわけではないが、過去と現在を二重に生きること、過去の現在性という点で繋がりがあり、興味深い。
「思い出を生きる 過去と現在の同時性 キルケゴールのイエス・キリスト像に倣って」への1件のフィードバック