
『失われた時を求めて』の最終巻『見出された時』の後半、語り手である「私」は、パリに戻り、ゲルマント大公夫人のパーティーに出席する。
そして、ゲルマント家の中庭を歩いている時、ふぞろいな敷石につまずく。その瞬間、かつてヴェニスで寺院の洗礼堂のタイルにつまづいた記憶が蘇り、さらには、マドレーヌによって引き起こされた幸福感が呼び覚まされる。
その思い出の連鎖に基づきながら、『失われた時を求めて』全体を貫く「無意志的記憶」についての考察がなされ、「思い出す現在」と「思い出される過去」の「類推(analogie)」が生み出す「軌跡(miracle)」が見出されることになる。
(…) ; mais entre le souvenir qui nous revient brusquement et notre état actuel, de même qu’entre deux souvenirs d’années, de lieux, d’heures différentes, la distance est telle que cela suffirait, en dehors même d’une originalité spécifique, à les rendre incomparables les uns aux autres. Oui, si le souvenir, grâce à l’oubli, n’a pu contracter aucun lien, jeter aucun chaînon entre lui et la minute présente, s’il est resté à sa place, à sa date, s’il a gardé ses distances, son isolement dans le creux d’une vallée ou à la pointe d’un sommet ;
(以下の日本語は、できるかぎりフランス語の語順にそったものであり、フランス語を理解するための補助にすぎない。とりわけプルーストの文に関しては、そのことを強調しておきたい。)
(前略) しかし、突然私たちに戻ってくる思い出と現在の私たちの状態の間、同様に、年代や場所や時間の異なる思い出の間に、大きな距離があるとしたら、それだけで、ある特別な独自性を他にしても、それらを互いに比較できないものにするのに十分かもしれない。確かにそうかもしれない、もし思い出が、忘却のおかげで、思い出と現在の時間の間に、どんな繋がりも結ぶことができず、どんなに小さな鎖を投げかけることもできなかったとしたら、もし思い出が、その場所や日付に留まったとしたら、もし思い出が、谷の窪みや頂上のてっぺんで距離を保ち、孤立していたとしたら。
ここで問題になるのは、二つの時間帯。
一つは、思い出が蘇る「現在の私たちの状態(notre état actuel)」=「現在」。
もう一つは、思い出される出来事が起こった「過去」。そうした出来事は過去の時間の中に位置づけられ、「年代や場所や時間(années, lieux,’heures)」も特定される。
もしそれらの間に大きな「距離(distance)」があれば、それぞれの「特別な独自性(une originalité spécifique)」を考慮に入れないとしても、個々の出来事も、思い出される出来事と思い出す現在も、お互いに「比較できない(incomparables)」ことになる。
その際、それぞれの出来事が独立し、比較できない場合が、「もし(si)」という言葉で3つ挙げられる。
(1)「忘れている(oubli)」ために、思い出が現在との「つながり(lien)」を作ることが出来ないか、「小さな鎖(chaînon)」を投げかけることが出来ない場合。
(2)過去の出来事が、起こった「場所(place)」や「日付(date)」と繋がり続けている場合。
(3)出来事が、「ある谷の底(le creux d’une vallée)」や山の「頂きのてっぺん(la pointe d’un sommet)」に結び付き、他の出来事とは「距離(distances)」を保ち、「孤立(isolement)」している場合。
このように、1つ1つの出来事が孤立し、思い出が甦ってくる現在とも関係を持たないという考えが示される。
その後、前とは反対に、思い出が現在と関係を持つという考えが、「新しい空気(un air nouveau)」という言葉を中心に展開される。
il ( le souvenir) nous fait tout à coup respirer un air nouveau, précisément parce que c’est un air qu’on a respiré autrefois, cet air plus pur que les poètes ont vainement essayé de faire régner dans le Paradis et qui ne pourrait donner cette sensation profonde de renouvellement que s’il avait été respiré déjà, car les vrais paradis sont les paradis qu’on a perdus.
(しかし)、思い出は、私たちに、突然、新しい空気を吸い込ませる。その理由は、まさに、それがかつて吸った空気だからだ。その空気はかつての空気よりも純粋で、詩人たちがその空気で「楽園」の中を埋め尽くそうとしたが、そうできなかったものだ。新しさの深い感覚を生み出すことがでるとしたら、それがかつてすでに呼吸されたことがあるからだ。というのも、真の楽園とは、人がかつて失った楽園なのだから。
「突然」という言葉は、私たちが意図して想起した思い出ではなく、意図せずに「突然」出現した思い出、つまり「無意志的記憶」によるものであることを示している。
そして、そうした思い出は、私たちに「新しい空気(un air nouveau)」を吸い込ませるのだが、その空気は、「かつて( autrefois)」思い出となる出来事が起こった際に「吸い込んだことのある空気( un air qu’on a respiré )」だという。
従って、私たちは、「新しい」空気と「昔」の空気を同時に吸い込むことになる。

次に、そうした空気が、詩人たちの芸術創造と関連させて説明される。
「楽園(Paradis)」の先頭が大文字になっているので、固有名詞であると見なされる。そこで、シャルル・ボードレールが提唱した「人工楽園(Paradis artificiels)」を連想してもいいだろう。
それは、一言で言えば、ハシッシュのような麻薬によって主体と客体の境目が混乱することから生まれる眩暈状態を、想像力によって引き起こすことで創造される「楽園」。
『見出された時』の語り手である「私」の視点では、詩人たちはその楽園を純粋な空気で満たそうとしたが、「そうはできなかった(en vain)」。
「無意志的記憶」のメカニスムによって換気される思い出は、その「より純粋な空気(air plus pur )」を発生させることができる。
なぜなら、それを「すでに吸ったことがある(l avait été respiré déjà)」から。
「真の楽園(les vrais paradis)」とは、「すでに失った楽園( les paradis qu’on a perdus)」であるという最後の言葉は、一見すると、過去を懐かしむロマン主義的な表現に思われるかもしれない。
しかし、語り手である「私」がここで述べていることは、突然甦る思い出の働きであり、失われたものが思い出として戻ってくることで、現在と過去が二重化されることが問題になっている。
さらに言えば、中心は「今」であり、決して「過去」への憧憬ではない。
そうした感覚を持つとき、新しい空気が「新しいものを作り出していく(renouvellement)」という感覚を吹き込むことになる。

その後、ヴェニスでの海辺の朝や昼、リヴベルの夕方の思い出について言及がなされ、さらに以下の考察が続く。
Je glissais rapidement sur tout cela, plus impérieusement sollicité que j’étais de chercher la cause de cette félicité, du caractère de certitude avec lequel elle s’imposait, recherche ajournée autrefois. Or, cette cause, je la devinais en comparant ces diverses impressions bienheureuses et qui avaient entre elles ceci de commun que je les éprouvais à la fois dans le moment actuel et dans un moment éloigné où le bruit de la cuiller sur l’assiette, l’inégalité des dalles, le goût de la madeleine allaient jusqu’à faire empiéter le passé sur le présent, à me faire hésiter à savoir dans lequel des deux je me trouvais ; au vrai, l’être qui alors goûtait en moi cette impression la goûtait en ce qu’elle avait de commun dans un jour ancien et maintenant, dans ce qu’elle avait d’extra-temporel, un être qui n’apparaissait que quand, par une de ces identités entre le présent et le passé, il pouvait se trouver dans le seul milieu où il pût vivre, jouir de l’essence des choses, c’est-à-dire en dehors du temps.
私はそれら全ての上を素早く滑っていたが、その時、これまでよりもずっと強く、幸福感の原因やその幸福感がはっきりとしたものになる際の確かな性質の理由を探ることを求められていた。その探求は、これまでずっと後回しにされてきたのだった。そして、その原因を、私は見抜きつつあった。そうした至福の様々な印象を比較すると、それらの間には共通するものがある。つまり、それらを、今の瞬間と遠く離れた瞬間に、同時に感じているのだ。お皿に当たるスプーンの音、不揃いの舗石、マドレーヌの味、それらは、過去を現在に踏み込ませ、私がどちらの瞬間にいるのか知るのをためらわせる。実際、私の中でその印象を味わっている存在は、過去の日と今との間で共通するものの中で、その印象を味わうのだ。それが姿を現すのは、現在と過去の間で同一のものにおいて、その存在が唯一の地帯に存在することができる時だけだった。そこでこそ、その存在は生き、事物の本質を楽しむことができる。つまり、時間の外にいる時だ。
幸福だった過去の思い出が突然蘇る時に感じる「幸福感(cette félicité)」の「原因(la cause)」や、その幸福感が「はっきりとした(s’imposait)」時の「確かな性質(caractère de certitude)」がどのようなものかを探るのを、「かつては後回しにしていた(ajournée autrefois)」。
『見出された時』の後半に至り、「私」はその解明に取り組みまなければならないと「強く勧告された(impérieusement sollicité)」ように感じ、しかも、その原因を「見抜きつつあった(je la devinais)」。

その原因を明らかにする鍵となるのが、思い出す「現在」と出来事が起こった「過去」という2つの時間帯。
「至福の印象( impressions bienheureuses)」を感じる時に「共通すること(ceci de commun)」は、「今の瞬間( le moment actuel)」と「遠ざかった瞬間(un moment éloigné)」という2つの時で、「同時に(à la fois)」に、同じ感覚を感じることだ。
そのために、「スプーンがお皿に当たる音( le bruit de la cuiller sur l’assiette,)」でも、「不均一な石畳(l’inégalité des dalles)」の上を歩く時も、「マドレーヌの味( le goût de la madeleine)」でも、「過去(le passé)」が「現在(le présent)」に重なり、自分がどちらにいるのか、どちらかを「知るのをためらって(hésiter à savoir)」しまう。
さらに、2つの時間帯は、「過去の日(un jour ancien)」と「今(maintenant)」と言葉を換えて表現され、2つの時を同時に生きることが、最終的には、「時間の外(extra-temporel)(en dehors du temps)」にいる体験であるとされる。
「私」は、思い出と今を同時に生きることこそが「生きる(vivre)」ことであり、「事物の本質を享受する( jouir de l’essence des choses)」ことだと考える。
このようにして、「失われた時(temps perdu)」を求め、「見出された時(temps retrouvé)」に至るプルーストの探求の結論が、このようにして、2つの時を同時に生きることであることが示される。
Cela expliquait que mes inquiétudes au sujet de ma mort eussent cessé au moment où j’avais reconnu, inconsciemment, le goût de la petite madeleine, puisqu’à ce moment-là l’être que j’avais été était un être extra-temporel, par conséquent insoucieux des vicissitudes de l’avenir. Cet être-là n’était jamais venu à moi, ne s’était jamais manifesté qu’en dehors de l’action, de la jouissance immédiate, chaque fois que le miracle d’une analogie m’avait fait échapper au présent. Seul il avait le pouvoir de me faire retrouver les jours anciens, le Temps Perdu, devant quoi les efforts de ma mémoire et de mon intelligence échouaient toujours.
そのことが説明するのは、自分の死に関して感じる様々な不安が止むとしたら、無意識のうちに、小さなマドレーヌの味がそれだとわかる時だということ。なぜなら、まさにその瞬間、それ以前の私の存在が、時間を超越した存在になり、その結果、未来の変転について無関心になるからだ。その存在は、以前には決して私のところにやって来ることはなかった。姿を現したのは、行動や直接的な快楽の外であり、類推の奇跡が私を現在から逃れさせる時だった。その奇跡だけが、私に、かつての日々を見出させる力を持っていた。その「失われた時」の前で、私の記憶や知性の努力は、常に失敗するしかなかったのだった。

過去と現在を二重に生きる時、「死に関する様々な不安(mes inquiétudes au sujet de ma mort)」は止み、「未来に起こるであろう有為転変(vicissitudes de l’avenir)」に「無関心に(insoucieux)」なる。なぜなら、「時間を超越した(extra-temporel)」存在になるからだ。
そうした二重性は、「類推の奇跡( le miracle d’une analogie)」と名付けられる。
その奇跡は、意志的な「記憶(mémoire)」や「知性(intelligence)」によっては生み出されることはない。
マドレーヌを味わう時、それがレオニ叔母や母の出してくれたマドレーヌの味だと、「無意識的に( inconsciemment)」認識することの重要性が強調される。
意識して思い出を呼び出せば、思い出すのは今の時点であり、思い出は過去に属すると区別され、2つの行為は時計によって計測される時間上に位置づけられることになる。
その時、今と過去の二重化は起こらない。
「類推の奇跡」が起こるのは、あくまでも、「無意志的記憶」のメカニスムによる。
そして、その奇跡が、「失われた時(Temps Perdu)」を「再び見出す(retrouver)」ことを可能にするのだと、「私」は繰り返す。

『失われた時を求めて』の舞台となるのは、20世紀初頭の上流階級の社会であり、一見華やかに見えるが、全体的には、時間の経過とともに全てが失われてしまうという悲観的な世界観が強く感じられる。
その長大な小説を展開させる原理として「無意志的記憶」が置かれているとしたら、小説の終盤に至って明かされた「類推の奇跡」は、ペシミズムの根底にそれを乗り越える幸福感が貫かれていることを明かしているのかもしれない。
その幸福感がプルーストの芸術の根底に流れていることは、「無意志的記憶」が、詩人たちの「楽園」にはなかった純粋で新たな空気を感じさせると暗示していることからも、推測することができる。
失われた楽園こそが真の楽園であるとすれば、『失われた時を求めて』の中に創造された世界は、真の楽園の1つでもあるだろう。
過去と現在の二重化という考え方は、19世紀の神学的哲学者キルケゴールのキリスト観と類似している。
プルーストが直接キルケゴールを参照したわけではないが、二重化による幸福感の生成を理解する上で参考になる。
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