
ジェラール・ド・ネルヴァルの『オーレリア』は、「夢は第二の生である(Le Rêve est une seconde vie)」という有名な言葉で始まる。
そして、次のように続く。
Je n’ai pu percer sans frémir ces portes d’ivoire ou de corne qui nous séparent du monde invisible.
私は、震えることなしに、私たちと目に見えない世界を隔てる象牙あるいは角でできた門を通ることが出来なかった。
ここで示されるのは、現実世界と目に見えない世界=夢の世界の間には扉があり、2つの世界は隔てられているという認識。
私たちの現実感覚に則しても、夢は目が覚めれば消え去る幻であり、現実とは異質のものだ。
しかし、ネルヴァルは、最初に「夢は(第二の)生」であると言った。たとえ扉を通る時に身震いするとしても、そしてその世界が物理的な視覚によっては捉えられないとしても、夢が「生(vie)」であることにかわりはないと考えたのだ。
別の言い方をすれば、夢も私たちが生きる現実の一部であり、その分割は事後的になされる。
こうしたネルヴァルの夢に対する提示は、思いのほか大きな射程を持ち、私たちの常識を問い直すきっかけを与えてくれる。
私たちは、自分たちが生きる社会を、身内や知り合いとそれ以外、内部と外部、文化と野蛮といった二分法で切り分けることがしばしばある。
それは次のような二分法にも適応されうる。
意識 ー 無意識
理性 ー 非理性、狂気
現実 ー 夢
実在 — 想像力
有限 ー 無限
本質 ー 現象
情報 ー ノイズ
意味 ー 無意味
此岸 — 彼岸
組織 ー 非組織
知識 ー 無知、反知識
コスモス — カオス
日常生活においては、社会の内部、意識、理性の側に価値が置かれ、反対側のものは無価値であるとして無視されるか、混乱をもたらす要素として排除される傾向にある。
ただし、想像力のように、本物のように見えながら実在でははく、人を欺く悪しき力と考えられていたものが、ある時点(フランスでは19世紀)からは、肯定的な力と見なされるものもある。
無限や無意味(ナンセンス)に関しても、同様に価値の逆転が見られる。
また、両側の境界線が破られ、右側(外部)から左側(内部)への侵入あるいは侵犯に力点が置かれることもある。
例えば、秩序を乱すトリックスターが秩序の側に侵入することで、秩序の側の刷新が行われるという思考。
好奇心に動かされ、禁止された境界線を侵犯してしまう存在にスポットライトを当てた物語。例えば、パンドラの箱や鶴の恩返し等。
内部から外部に向かい、再び内部へと帰還する過程を基本構造だとする物語論。
こうした場合、禁止の違反、境界の侵犯が華々しく、激しく行われ、いかに大きな混乱や破壊をもたらすかが、物語の焦点になる。
いずれにしても、禁止→違反は、二分法に予め含まれている前提に他ならない。禁止があるのは、侵犯のためなのだ。
この二分法に基づく限り、どんなに項目を変えてみたところで、組織化された内部が組織化されない外部の侵入を防ぐか、外部が侵犯して内部を刷新するか、といった図式が反復されるにすぎない。
そうした視点から見ると、意識は無意識を、理性は反理性を最初から内包しているのであり、二分法的思考は、実際には閉じた内部の思考ではないかという疑いが浮かんでくる。
つまり、組織化された内部が確定されるのと「同時」に、組織化されない外部が想定される。意識が無意識の前提であり、この世があってこそあの世が想定される、等々。
「夢は第2の生である」というネルヴァルの命題の意義は、夢と生という2つの項目に関して、これまで見てきた二分法的思考を問い直すことにある。
私たちは現実を生きるのと同じように、夢も生きている。生きるという行為に変わりはない。
日常的な通念からすれば、現実と夢ははっきりと違うものだが、しかし、生きるという次元から見ると、現実と夢の境界線はおぼろげではないのか? それらは、同一次元の生命現象(vie)ではないのか?
ただし、ネルヴァルがそうした命題を提示する場合でも、それは言語によってなされる。そして、制度化された言語に基づく限り、必然的に現実と夢の二分法を前提にすることになる。
従って、ネルヴァルも夢が現実の生と全く変わらないのだというのではなく、夢を「第2の生」とする。
夢を語り始める前にも、「現実生活への夢の流入(l’épanchement du songe dans la vie réelle)」という言い方をし、現実と夢の分割に基づいた表現をする。
しかし、その後、以下のように続ける。
À dater de ce moment, tout prenait parfois un aspect double, — et cela sans que le raisonnement manquât jamais de logique, sans que la mémoire perdît les plus légers détails de ce qui m’arrivait. Seulement, mes actions, insensées en apparence, étaient soumises à ce que l’on appelle illusion, selon la raison humaine…
その時から、全てのものが、時に、二重の様相を帯びるようになった。— ただし、そうなっても、思考が論理を欠くことはなかったし、私に起こったことの最も微妙な細部の記憶が失われることもなかった。ただ、私の行動は、一見すると正気を欠いたものに見え、人間の理性からすると幻覚と呼ばれるものに従っていた。(『オーレリア』)
「二重の様相」という表現が、「第二の生」と対応する。
夢は決して現実と対立し、現実と無関係のものではなく、現実に基づき、現実と並行するもうひとつの「生」なのだ。
現実と夢を分割する境界線は、事後的に理性や意識によって引かれるものであり、生きているその瞬間には、私たちは2つを区別していない。
そのことは、夢を見ている時のことを思い出すと納得がいくだろう。
夢の中では、私たちは夢だと意識することはなく、そこでの出来事についてリアルな感覚を感じている。夢だったと思うのは、夢から覚めた後だ。
同じ考えを現実にも適応し、私たちが生きている現実が実は夢ではないかと疑うこともある。
荘子の「胡蝶の夢」や、シェークスピアの「人生は一場の夢のごとし」、李白に由来する「浮生は夢のごとし」という言葉が、人々の心を打ち、記憶に留まっていることは、現実と夢の二重性を示している。
繰り返すことになるが、現実と夢の二分法は、ある形式的な思考法に従ったものであり、生の実体験からすると、事後的な区分にすぎない。
現実が真であり、夢は虚であり無意味であるといった価値観は、予断に基づくものにすぎない。
だからこそ、時代に応じて、価値判断の変更もありうるのだ。
『オーレリア』の中では、夢の記述から移行し、狂気に由来する映像も数多く描かれる。それもやはり「第二の生」の一部なのだ。
精神病院に入院している際、庭の散歩しながら、「私」は次のような思いに捉えられる。
(…) tout dans la nature prenait des aspects nouveaux, et des voix secrètes sortaient de la plante, de l’arbre, des animaux, des plus humbles insectes, pour m’avertir et m’encourager. Le langage de mes compagnons avait des tours mystérieux dont je comprenais le sens, les objets sans forme et sans vie se prêtaient eux-mêmes aux calculs de mon esprit ; — des combinaisons de cailloux, des figures d’angles, de fentes ou d’ouvertures, des découpures de feuilles, des couleurs, des odeurs et des sons, je voyais ressortir des harmonies jusqu’alors inconnues. — Comment, me disais-je, ai-je pu exister si longtemps hors de la nature et sans m’identifier à elle ? Tout vit, tout agit, tout se correspond ; les rayons magnétiques émanés de moi-même ou des autres traversent sans obstacle la chaîne infinie des choses créées ; c’est un réseau transparent qui couvre le monde, et dont les fils déliés se communiquent de proche en proche aux planètes et aux étoiles. Captif en ce moment sur la terre, je m’entretiens avec le chœur des astres, qui prend part à mes joies et à mes douleurs !
自然の中のあらゆるものが新しい姿を取った。秘密の声が、葉や木、動物、最も慎ましい昆虫から発し、私に忠告を与え、私を勇気づけた。仲間たち(精神病院に入院している者たち)の言葉は神秘的な言い回しだったが、私はその意味を理解した。形も命もない事物が、それ自体で私の心の計算のままになった。— 小石の結合、角や隙間や開いたものの形、葉のギザギザ、色彩、香り、音、それら全てから、その時まで知られていなかったハーモニーが湧き出てくるのが見えた。— どうやって、と私は自分に呟いた、これほど長い間自然の外で、自然と一体化せずに、生きることができたのだろう。全ては生き、全ては動き、全ては対応する。私から、あるいは他の人々から発する磁気の光が、障害物もなく、創造された事物の無限の鎖を横切っている。透明の網が地球を包み、鎖のほどけた糸が惑星や星々に徐々に近づき、互いに交信している。この瞬間、私は地上に囚われながらも、惑星のコーラスと対話している。そのコーラスが私の喜びや苦しみに加担しているのだ。(『オーレリア』)
理性的な思考からすれば、1人の人間が万物と照応し、宇宙のハーモニーに参加しているといった思いは、妄想であり、狂気の沙汰ということになる。
しかし、「全ては生き、全ては動き、全ては対応する。」という確信は、狂気というレッテルなどと関係なく、「生」そのものの在り方を、大変に美しい映像と音楽を通して、私たちに告げている。
ここで注意したいことは、ネルヴァルの言葉は、非理性の価値を逆説的に説いてみせる理論に従い、狂気に価値付けを行う思考ではないということ。そうした理論は、理性と非理性の分割に基づき、従来の価値観を転換して見せるにすぎない。
ネルヴァルにとって第一義的なのは「生」そのものであり、一般論に従い夢や狂気を便宜的に「第二の」と呼ぶだけで、それらが「生」であることに変わりはない。
「どうやって、(中略)、これほど長い間自然の外で、自然と一体化せずに、生きることができたのだろう。」という思いが、正気なのか夢なのか狂気なのかなど、どうでもいい。
大切なのは、その思い自体なのだ。
以上のように、「夢は第二の生である」という言葉が問いかける意義を簡単に辿るだけで、ネルヴァルが、あえて狂気というレッテルを貼られることを引き受けながら、「生」の体験を二分割して思考する文化モデルに対して、別の思考モデルを提示しようとしたことがわかってくる。
そして、彼の問いかけは、20世紀になり、『失われた時を求めて』の作家マルセル・プルーストなどによって引き継がれていく。
プルーストは、マドレーヌのもたらす思い出が、それを思い出す現在の感覚と二重化する仕組みを「無意志的記憶」と名付け、作品の中心に置いた。
(参照:プルースト 見出された時 過去と現在の同時性)
そこには、夢や狂気と現実の二重化から「生」を捉え直そうとしたネルヴァルの試みの反映が見られると考えてもいいだろう。