
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、最終巻である『見出された時』に至り、「無意志的記憶(mémoire involontaire)」のメカニスムが解明され、次に、その記憶と芸術作品の関係が明らかにされる。
「無意志的記憶」によって喚起される思い出は、過去の出来事というだけではなく、思い出す今の時間と二重化する。
それは、思い出と今を同時に「生きる(vivre)」ことであり、「事物の本質を享受する( jouir de l’essence des choses)」ことのできる瞬間だと、語り手の「私」は考える。
(参照:プルースト 見出された時 過去と現在の同時性)
その後、「私」は、「事物の本質」を「固定する(fixer)」するためにはどのようにすればいいのかと、思考を巡らせる。
De sorte que ce que l’être par trois et quatre fois ressuscité en moi venait de goûter, c’était peut-être bien des fragments d’existence soustraits au temps, mais cette contemplation, quoique d’éternité, était fugitive. Et pourtant je sentais que le plaisir qu’elle m’avait donné à de rares intervalles dans ma vie était le seul qui fût fécond et véritable. ( Le Temps retrouvé )
私の中に3度か4度甦ってきた存在が今しがた味わったものは、たぶん、時間の流れから逃れた数多くの生の断片。それを凝視することは、たとえ永遠だとしても、束の間のうちに消え去るものだった。しかし、私は感じたのは、それを凝視することで人生においてごくまれに感じる喜びは、唯一のものであり、実り多く真実でありうる、ということだった。(『見出された時』)

「甦ってきた存在(l’être (…) ressuscité)」というのは、「無意志的記憶」によって突然思い出された「私」のこと。その「私」が、思い出している今の「私」と二重化することで、「時間の流れから逃れる(soustraits au temps)」ことになる。
『失われた時を求めて』という長大な小説は、そのような瞬間をきっかけとして、「水中花」のように花開いた思い出の中の出来事の数々、「数多くの生の断片(bien des fragments d’existence)」を積み上げた物語だといえる。
そうした瞬間を「凝視(contemplation)」することは、「永遠でありながら(quoique d’éternité)」、「束の間に消え去る(fugitive)」ものだとも言われる。
それは一見矛盾しているように思われるが、現在と過去が二重化している瞬間は時間の流れから逃れているという意味では「永遠」であり、その瞬間を外から眺めれば一瞬にすぎず、矛盾はない。
永遠と束の間を重ね合わせる考え方は、ボードレールによる「モデルニテの美学」に通じるところがあり、プルーストの美学の源泉を垣間見させてくれる。
(参照:ボードレール 「現代生活の画家」 モデルニテについて — 生(Vie)の美学)
「私」にとって、現在と思い出の二重化は「喜び(plaisir)」の瞬間であり、他では得られない唯一のもの。その喜びは、「実り豊か(fécond)」で、「真実な(vériable)」ものなのだと感じられる。
では、その逃げ去る瞬間を留めることはできないのか?
(…) je m’exaltais de plus en plus au fur et à mesure que j’approfondissais le bruit du couteau ou le goût de l’infusion, avec une joie croissante pour moi qui avais fait entrer dans ma chambre la chambre de ma tante Léonie et, à sa suite, tout Combray et ses deux côtés. Aussi, cette contemplation de l’essence des choses, j’étais maintenant décidé à m’attacher à elle, à la fixer, mais comment ? par quel moyen ?
私がますます恍惚となるのは、ナイフの音とかハーブティーの味に関して、さらに深く探っていく時。そうしていると、私の喜びはますます増大するのだった。というのも、その喜びは、私の寝室にレオニ叔母の寝室を入り込ませ、次には、コンブレー全体とそこから向かう2つの方向にあるものまでも入り込ませたからだった。そこで、私は、事物の本質を凝視し、それに密着し、それを固定しようと決心した。しかし、どうやって? どんな方法で?

レオニ叔母のマドレーヌのエピソードは『失われた時を求めて』における「無意志的記憶」を象徴するものであり、お皿に当たる「ナイフの音(le bruit du couteau)」やマドレーヌを浸した「ハーブティーの味(le goût de l’infusion)」は、それを思い出す今が過去の至福感に満たされる記号として作用する。
それらのおかげで、今「私」のいる寝室と、幼い頃の「私」が訪れたレオニ叔母の寝室が二重化し、さらにコンブレーの町とそこから向かう2つの場所、つまり「スワン家の方」と「ゲルマント家の方」も一気に甦ってくる。
そして、そうした瞬間に感じる喜びが、「事物の本質(l’essence des choses)」を「凝視(contemplation)」することにつながる。
ただしその瞬間は束の間でしかない。
「私」は凝視を「固定する(fixer)」ことと望むのだが、まだその方法がわからず、「どうやって? どんな方法で?(comment ? par quel moyen ?)」と自問する。
「固定する(fixer)」ためには、それがどこにあるのか知らなければならない。
Mais même en ce qui concernait ces images d’un autre genre encore, celles du souvenir, je savais que la beauté de Balbec, je ne l’avais pas trouvée quand j’y étais allé, et celle même qu’il m’avait laissée, celle du souvenir, ce n’était plus celle que j’avais retrouvée à mon second séjour. J’avais trop expérimenté l’impossibilité d’atteindre dans la réalité ce qui était au fond de moi-même. Ce n’était pas plus sur la place Saint-Marc que ce n’avait été à mon second voyage à Balbec, ou à mon retour à Tansonville, pour voir Gilberte, que je retrouverais le Temps Perdu, et que le voyage, qui ne faisait que me proposer une fois de plus l’illusion que ces impressions anciennes existaient hors de moi-même, au coin d’une certaine place, ne pouvait être le moyen que je cherchais. Des impressions telles que celles que je cherchais à fixer ne pouvaient que s’évanouir au contact d’une jouissance directe qui a été impuissante à les faire naître. La seule manière de les goûter davantage c’était de tâcher de les connaître plus complètement là où elles se trouvaient, c’est-à-dire en moi-même, de les rendre claires jusque dans leurs profondeurs.
しかし、さらに別の種類のイメージ、つまり思い出のイメージに関しても、私には分かっていた。バルベックの美しさを、バルベックに行った時には、見出していなかったし、バルベックが私に残したイメージ、つまり思い出のイメージも、二度目にそこを訪れた時に発見したものではなかった。現実の中で、私自身の奥にあるものに達することが不可能であることは、十分に経験ずみだった。サン・マルコ寺院の前の広場でも、バルベックに二度目に旅行した時も、ジルベルトに会うためにタンソンヴィルに戻った時も、「失われた時」を見出しはしなかった。(実際の)旅行は、昔の印象が私自身の外、なんらかの広場の隅にあるという幻想をもう一度私に示すものでしかなく、私が探している方法ではなかった。私が一生懸命に固定しようとした印象は、(事物から直に来る)直接的な喜びと接触すると、消滅するしかなかった。直接的な喜びが、あの印象を生み出す力はなかったのだ。それらを今まで以上に味わう唯一の方法は、それらが実際にあるところで、より完全に知ろうと努めることだった。つまり私自身の中でだ。そして、その最も深いところまで、あの印象を明らかにするように努めることだった。

「私」にとって、事物と直接接触しても、探し求める喜びはもたらされない。
祖母と女中フランソワーズと共に過ごしたにノルマンディーの避暑地バルベックを再訪しても、ヴェニスのサン・マルコ寺院に行った時も、シャンゼリゼで出会った初恋の女性ジルベルトに逢うために向かったコンブレーの近くにあるタンソンヴィルでも、「失われた時(le Temps perdu)」を取り戻すことはできない。
「直接的な喜びと接触する(au contact d’une jouissance directe)」と、それは消滅してしまう。
というのも、「私」が求めているものは、事物の側にあるのではなく、「私自身の中に(en moi-même)」にあるからだ。
「私自身の中」でこそ、様々な印象を「最も深いところまで( jusque dans leurs profondeurs)」、「明らかにする( les rendre claires)」ことができる。
すでに使われた表現に従えば、「事物の本質(l’essence des choses)」を「凝視」すること。
言われてみれば当たり前のことだが、思い出は「私自身の中」にある。
そして、何かのきっかけ、例えば、マドレーヌを目にするといった現実の出来事がきっかけとなって、それにまつわる思い出が突然蘇る。
その時、思い出す今と過去の出来事の感覚が1つに混ざり合い、「私」が今感じている感覚となる。その意味で、思い出が甦る瞬間の今の感覚は、今と過去の二重の様相を帯びている。
『失われた時を求めて』の語り手である「私」が「固定(fixer)」しようとするのはその感覚であり、それは「私自身」の中にしかない。

思い出のもたらす感覚の二重性について、「私」はさらに考察を巡らせる。
その考察は、プルーストの思考を理解するヒントとして非常に重要なのだが、他方で、構文が複雑化しすぎて、意味がつかみにくい部分がある。
その理由は、全7巻からなる『失われた時を求めて』のうち、4巻まではプルーストの生前に発表されたが、5巻以降は死後出版であり、とりわけ最終刊の『見出された時』の原稿はかなり混乱したままの状態で残されていたことによる。
生前に出版された4巻の文は、たとえかなりの長さになったとしても、しっかりと校正がなされていて、前から辿っていけば思考の流れも意味も、それなりに理解できる。
それに対して、『見出された時』の文は、時として、明瞭さを欠くことがある。以下の文はそうした例の1つであり、「読書の楽しみ」を感じることは難しいかもしれない。
しかし、内容の重要性と、プルーストの思考の動きを生の状態で体感するのも悪くないかもしれないと考え、あえてここで取り上げることにする。
Je me souvins avec plaisir, parce que cela me montrait que j’étais déjà le même alors et que cela recouvrait un trait fondamental de ma nature, avec tristesse aussi en pensant que depuis lors je n’avais jamais progressé, que déjà à Combray je fixais avec attention devant mon esprit quelque image qui m’avait forcé à la regarder, un nuage, un triangle, un clocher, une fleur, un caillou, en sentant qu’il y avait peut-être sous ces signes quelque chose de tout autre que je devais tâcher de découvrir, une pensée qu’ils traduisaient à la façon de ces caractères hiéroglyphes qu’on croirait représenter seulement des objets matériels. Sans doute, ce déchiffrage était difficile, mais seul il donnait quelque vérité à lire. Car les vérités que l’intelligence saisit directement à claire-voie dans le monde de la pleine lumière ont quelque chose de moins profond, de moins nécessaire que celles que la vie nous a malgré nous communiquées en une impression, matérielle parce qu’elle est entrée par nos sens, mais dont nous pouvons dégager l’esprit. En somme, dans ce cas comme dans l’autre, qu’il s’agisse d’impressions comme celles que m’avait données la vue des clochers de Martinville, ou de réminiscences comme celle de l’inégalité des deux marches ou le goût de la madeleine, il fallait tâcher d’interpréter les sensations comme les signes d’autant de lois et d’idées, en essayant de penser, c’est-à-dire de faire sortir de la pénombre ce que j’avais senti, de le convertir en un équivalent spirituel.
Or, ce moyen qui me paraissait le seul, qu’était-ce autre chose que faire une œuvre d’art ?
( Le Temps retrouvé )
思い出して嬉しかったことがある。というのも、そのおかげで、私はすでにその時には(今と)同じで、私の性格の根本的な点がそのことでカバーされていると、示されたためだった。(その一方で、)その時から私が全く進歩していないと思い、悲しくもなった。思い出したことというのは、すでにコンブレーで、私は、注意深く、自分の精神の前に、あるメージを固定したことがあるということだった。そのイメージは、私にそれを見ることを強いたものだった。例えば、一片の雲、1つの三角形、1つの教会の塔、一本の花、石ころ1つ。その時、私は次のように感じていた。たぶん、それらの記号の下には、私たちが発見しなければならない何か他のもの、ヒエログリフの文字のような仕方でそれらが表現する思考がある。ヒエログリフの文字は、単に物質的な対象を表現しているだけだと思われているかもしれないのだが。たぶんその解読は困難なものだ。しかし、それだけが読み取るべき真実を表現していた。というのも、光に満ちた世界の中で、知性が光を透かして直接的に把握した真実よりも、何かしら深みがあり、必然性が高いのは、生が、私たちの意図に反して、ある印象として、私たちに伝える真実だった。その印象は、感覚を通して私たちの中に入って来るという意味では物質的だが、しかし、そこから精神を引き出すことができる。結局、マルタンヴィルの教会の塔を見た時の印象であろうと、不揃いな階段やマドレーヌの味の記憶であろうと、どちらの場合でも、それらの感覚を、法則や思考の記号として解釈するように努めなければならなかった。思考する、つまり、ほの暗い闇から私たちが感じたものを出現させ、それを精神的な等価物に変換するよう試みることによって。
ところで、その方法が私には唯一のものと思われるのだが、それは、1つの芸術作品を創造するということに他ならない。
まず、内容を確認しておこう。

「無意志的記憶」の作用で思い出が蘇ると、現在の感覚と過去の感覚が二重化して感じられる。その二重性が、ヒエログリフの文字によって表現される。
ヒエログリフは「物質的な対象(des objets matériels)」だけを「表現(représenter )」しているように思われるかもしれないが、しかし、表意文字であり、記号の表現が思考を「翻訳あるいは表現(traduire)」している。
「私」に幸福感をもたらす思い出の中のイメージも、ヒエログリフと同様に記号として機能し、私たち自身の中にある何か、「読み取るべき真実(quelque vérité à lire)」を「翻訳」したものと考えられる。
そうした真実は、「知性(l’intelligence)」が「光に満ちた世界の中で(dans le monde de la pleine lumière)」、明確な姿で把握できるものではなく、「私自身の中」から突如浮かび上がる思い出がもたらす感覚を通して感知される。
そうした記号によって、それらの感覚を「精神的な等価物(un équivalent spirituel)」に「変換する(convertir)」。それが、「事物の本質(l’essence des choses)」を「固定する(fixer)」ことである。
そして、それこそが、「芸術作品(œuvre d’art )」を創造することに他ならない。
その視点から見ると、『失われた時を求めて』は、「無意志的記憶」が甦らせ、今と過去の二重化した感覚を固定する努力が結実した作品ということになる。
従って、『見出された時』で展開される考察は、プルーストが自作について語る解説でもある。
。。。。。。。。。。。

次に、プルーストの思考の流れと文の関係について、« je me souvins…des objets matériels. »全体を通して見ていこう。
Je me souvins // avec plaisir, (parce que cela me montrait que j’étais déjà le même alors et que cela recouvrait un trait fondamental de ma nature), avec tristesse aussi (en pensant que depuis lors je n’avais jamais progressé), // que déjà à Combray je fixais (avec attention devant mon esprit) quelque image (qui m’avait forcé à la regarder), un nuage, un triangle, un clocher, une fleur, un caillou, // en sentant qu’il y avait peut-être sous ces signes quelque chose de tout autre (que je devais tâcher de découvrir), une pensée (qu’ils traduisaient à la façon de ces caractères hiéroglyphes qu’on croirait représenter seulement des objets matériels).
Je me souviens(私は思い出した)のだが、その時、avec plaisir(嬉しく)思うこともあれば、avec tristesse(悲しく)思うこともあった。
そして、それぞれの理由が、plaisirに関しては、parce que … et que… で説明され、tristesseに関しては、en pensant que …で説明される。
je me souviensの内容は、que déjà à Combray je fixais …quelque image (すでにコンブレーで私はあるイメージを固定したこと)。
そのimageには、qui m’avait forcé à la regarder(私にそれを見るように強いた)と説明が付けられる。(laはimageを指すのだろうか? はっきりしない。)
さらに、imageは、un nuage(一片の雲)以下、un triangle(三角形), un clocher(鐘楼), une fleur(花), un caillou(小石)といった具体的な物として提示される。
さらに、fixaisした時に、en sentant que(感じていた)という状況が描かれる。
感じた内容は、ces signes(それらの記号)つまり、直前で名指した雲などの物の下に、quelque chose de tout autre(何か別のもの)や、une pensée(ある思考)があるということ。
quelque chose de tout autreには、que je devais tâcher de découvrir(私が発見しなければならなかった)という説明が付けられる。
une penséeには、qu’ils traduisaient (前に提示した物が翻訳した)し、翻訳の仕方は、à la façon de ces caractères hiéroglyphes (ヒエログリフの文字のよう)という説明が加えられる。
さらに、ヒエログリフの文字には、一般的には、représenter seulement des objets matériels(たんに物質的な対象を表現する)と思われるかもしれない、という注が付けられている。
プルーストの思考はこの構文のままに進んだのだろう。というか、思考のままに言葉が綴られていったに違いない。
その流れは複雑に入り組み、ある物が現れると、それにまつわる思いが巻き付き、次にまた新たな物が姿を現し、今度はそれについて何かの思いが湧き出してくる、といった風に進んでいく。
そのようにして組み立てられた文の構造は、非常に緻密なのだが、時にはプルースト自身、論理性を見失うことがあったかもしれない。今、何を話してたっけ?といった風に。
逆に言えば、原稿に残されたこれらの文は、プルーストの思考の流れをそのまま辿ったものであり、彼の生(なま)の思考に触れることができる、とも言えるだろう。
『見出された時』の語り手である「私」は、現在と「無意志的喚起」によって甦った過去の二重化した感覚を「芸術作品」に「変換する(convertir)」試みを行ったと語り、その成果が、今執筆しつつある『失われた時を求めて』に他ならないということになる。

ただし、それは物語上のことであり、プルーストが1913年に小説の第1巻『スワン家のほうへ』を出版した時、第7巻の最後まで見通していたわけではなかった。
1918年頃までに全巻の原稿は書き上げていたらしいが、その後も手を入れるのを止めず、1922年11月に死を迎えた時も、第5篇『囚われの女』の原稿に手を加えていたという。
従って、第7巻『見出された時』の記述は、プルーストがすでにおおよそは書き上げた自作の生成過程について明らかにし、小説全体の原理を解説したものだと考えることができる。
そうした『見出された時』で明かされた創作原理の考察を思い浮かべながら、第1巻『スワン家の方へ』の冒頭の一節を読んでみよう。
Longtemps, je me suis couché de bonne heure. Parfois, à peine ma bougie éteinte, mes yeux se fermaient si vite que je n’avais pas le temps de me dire : « Je m’endors. » Et, une demi-heure après, la pensée qu’il était temps de chercher le sommeil m’éveillait ; je voulais poser le volume que je croyais avoir encore dans les mains et souffler ma lumière ; je n’avais pas cessé en dormant de faire des réflexions sur ce que je venais de lire, mais ces réflexions avaient pris un tour un peu particulier ; il me semblait que j’étais moi-même ce dont parlait l’ouvrage : une église, un quatuor, la rivalité de François Ier et de Charles-Quint. Cette croyance survivait pendant quelques secondes à mon réveil ; elle ne choquait pas ma raison, mais pesait comme des écailles sur mes yeux et les empêchait de se rendre compte que le bougeoir n’était pas allumé. Puis elle commençait à me devenir inintelligible, comme après la métempsycose les pensées d’une existence antérieure ; le sujet du livre se détachait de moi, j’étais libre de m’y appliquer ou non ; aussitôt je recouvrais la vue et j’étais bien étonné de trouver autour de moi une obscurité, douce et reposante pour mes yeux, mais peut-être plus encore pour mon esprit, à qui elle apparaissait comme une chose sans cause, incompréhensible, comme une chose vraiment obscure. Je me demandais quelle heure il pouvait être ; j’entendais le sifflement des trains qui, plus ou moins éloigné, comme le chant d’un oiseau dans une forêt, relevant les distances, me décrivait l’étendue de la campagne déserte où le voyageur se hâte vers la station prochaine ; et le petit chemin qu’il suit va être gravé dans son souvenir par l’excitation qu’il doit à des lieux nouveaux, à des actes inaccoutumés, à la causerie récente et aux adieux sous la lampe étrangère qui le suivent encore dans le silence de la nuit, à la douceur prochaine du retour.
長い間、私は早い時間に寝ることにしていた。時おり、ロウソクの炎が消えるとすぐに目が閉じ、「眠ろう」と思う間もない、ということがあった。30分後、眠ろうとする思いが私の目を覚まさせた。まだ手に持っていると思っている本を置こうとし、炎を吹き消そうと思った。眠りながら、読んでいたことについて色々と思いを巡らせるのを止めていなかったのだが、それらの考えはちょっと変わった様子をしていた。私自身、本が語ることになっているように思われた。つまり、教会とか、四重奏とか、フランソワ1世とカール5世の争いとかだ。そうした思いは、目を覚ましてからもしばらく続いた。それは私の理性にショックを与えることはなかったが、私の眼の上にうろこのようにかぶさり、ランプに火がついていないということをわからないようにするのだった。次に、そうした思いは私にとって理解不可能なものになった。ちょうど、生まれ変わった後の、前世での考えのように。本の主題が私から離れ、私は自由に、それに熱中することも、そうしないこともできた。目が見えるようになるとすぐ、自分の周りが真っ暗なことに驚いた。その闇は私の目にとって穏やかで安らぎを与えてくれるものだが、精神にとってはそれ以上だった。闇は、原因がなく理解不可能なもののようだし、本当にぼんやりとしたもののようだった。その時私は、今何時だろうと思った。汽車の汽笛が聞こえていた。その音は、ちょっと離れたところで聞こえ、森の中の一羽の鳥の鳴き声のように、遠くに離れるにつれ、荒れ果てた広い野原の広がりを思わせた。そこでは、旅行者が次の駅の方へと急いでいる。彼が辿るその細い道は、近いうちに思い出の中に刻み込まれることになるだろう。それは、旅人が興奮状態あるからだ。彼がそんな状態になるのは、新しい場所、慣れない行動、最近したおしゃべり、見慣れない電灯の下で交わされ、夜の静寂の中でもまだ彼に付いて来ている別れの言葉、もうじき故郷に戻るという時に感じる穏やかさ、そうしたことのためだった。

本を読みながら眠ってしまい、ふと気が付くと、まだ本を手にしたままでいる。そして、浅い眠りの中で、読んでいた本の内容を、頭の中でずっと辿っていたことにも気づく。
そんな経験は誰にもあるに違いない。
読者は、この眠りにつく瞬間のエピソードに、自分の経験を容易に重ねることができる。
その上で、「無意志的記憶」のメカニスムを理解していれば、半醒半睡の状態が、「思い出す現在」と「思い出となる出来事が起こった過去」の二重化した状態と対応していることと、推定できるはずである。
この場面は、「事物の本質」を「凝視」する時に浮かび上がるものであり、それを「固定」したものなのだ。
プルーストは、誰もが経験する覚醒と夢の混ざり合った状態を以上のように提示した後、次に、普通は誰も潜らない深みへと読者を引き込んでいく。
(1)
二重化した状態では、本を読んでいると思っている「私」と、読んでいる本の内容、例えば、教会(une église)や四重奏(un quatuor)、16世紀の王たちの「争い(rivalité)」が、一体化しているように感じる。
つまり、「私自身、本が語ることになっていること( j’étais moi-même ce dont parlait l’ouvrage)」のように思われる。
「ちょっと変わった様子(un tour un peu particulier)」を取るのは、それぞれが現実の外観を保ちながらも、同時にそれらを見ている「私」でもある、ということから来ている。
そうした二重化した状況の中では、まだ完全に目が覚めているとはいえず、「ランプに火がついていず(le bougeoir n’était pas allumé)」、部屋の中が真っ暗だということに気づいていない。
(2)
Puis(次に)という言葉で、次の段階に入ることが示される。
その段階になると、「私」と本の内容が二重化しているという思いは消え去り、「私」は「視力を回復し( je recouvrais la vue)」し、部屋の中が「真っ暗(une obscurité)」であることに気づき、「驚く( j’étais bien étonné)」。
普通であれば、目が醒め、辺りが真っ暗だと気づいたことで終わりになる。
しかし、プルーストの意識は、その「暗がり(une obscurité)」を源泉にして、新しい映像をつなぎ出していく。
まず、闇は、視覚的に「穏やかで安らぎを与えてくれる(douce et reposante)」以上に、「私の精神(mon esprit)」にとってそうした効果を及ぼすという。
そして、精神にとって、闇は、「原因がなく、理解不可能なもの(une chose sans cause, incompréhensible)」であり、「本当に真っ暗なもの(une chose vraiment obscure)」のようだと付け加えられる。
そのことは、「私」は目を覚ましているようでいて、まだ完全には意識が戻らず、ぼうっとしている状態にいることを示している。
(3)

そうした状態で、「私」は「今何時だろう( quelle heure il pouvait être)」と思ったりもするのだが、その時、遠くで「汽車の警笛(le sifflement des trains)」が「聞こえる( j’entendais)」。
本当に聞こえたのかどうかはわからない。とにかく、汽笛が聞こえる(ように思う)。
その汽車は徐々に遠ざかることが、汽笛が遠くになっていくことでわかる。そして、その動きにつれて、「荒れ果てた広い野原の広がり( l’étendue de la campagne déserte)」が感じられ、さらには「旅人(le voyageur )」の姿が浮かび上がってくる。
旅人は、「最寄りの駅( la station prochaine)」の方向へと、「細い道( le petit chemin)」を急ぎ足で歩いている。
この映像は、眠る前に読んでいた本の内容だろうか? 夢だろうか? 空想だろうか?
そのどれかを決めることはできないが、「私自身」から生まれ、「ちょっと変わった様子」をした映像だということは推測できる。
「私自身、本が語ること( j’étais moi-même ce dont parlait l’ouvrage)」であるのと同じことだ。
そして、旅人が辿る「細い道」は、「彼の思い出の中に刻み込まれる(va être gravé dans son souvenir )」ことになる。
思い出となるのは、彼が感じる「興奮(excitation)」のためだ。
ボードレール的な言葉を使えば、「忘我的恍惚(extase)」と言ってもいいだろう。
「旅人」は「細い道」を歩きながら、新しい場所や見慣れない行動、おしゃべりや別れの言葉、帰郷の際に感じる穏やかな気持ちなどに心を動かされ、心躍らせる。
その際に感じる「興奮」のために、「細い道」は記憶の中に刻まれる。
それは、どこかある特定の場所や時間と関係を持ちながらも、しかし決して物理的なものではなく、「私自身」の中に潜んでいる。
そして、「細い道」が思い出として甦る時には、「興奮」を生み出したもの全てが、「私」の前に一気に展開することになるだろう。
それこそが、『失われた時を求めて』全編を貫く創造原理に他ならない。
。。。。。。。。。。。
『失われた時を求めて』は巨大な建造物であり、全てを見て回ることはなかなかできない。
しかし、例えば冒頭の一節にはすでに小説全体の核ともいえる要素が凝縮されていて、その部分をフランス語で前から辿っていくことで、プルーストの意識や思考の流れを感じ取ることができる。
そして、それを実感できると、「興奮(excitation)」が私たちの記憶を刺激し、いくつかの文やその断片が「思い出(souvenir)」として、ある時突然甦ってくるかもしれない。
そこには、フランス語でプルーストを読むことでしか得られない喜びがある。