ランボー イリュミナシオン 文  Rimbaud Illuminations Phrases 

プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいると、巨大な建造物でありながら、内部は超精密に構成された文に感嘆する。だが、その一方で、常に息を詰め、集中力を保っていかなければ迷子になてしまいそうで、息苦しくなってくることもある。

そんな時、ふと、ランボーの『イリュミナシオン』の「文(Phrases)」と題されたいくつかの断片に目をやると、突然の解放感に捉えられる。

 Avivant un agréable goût d’encre de Chine, une poudre noire pleut doucement sur ma veillée. — Je baisse les feux du lustre, je me jette sur le lit, et, tourné du côté de l’ombre, je vous vois, mes filles ! mes reines !  

 墨の心地よい味わいを生き生きとさせながら、黒い粉がシトシトと振りかかかる、僕の眠れぬ夜の上に。— ぼくはランプの炎を小さくする。ぼくはベッドの上に身を投げる。そして、闇の方に体を向けると、お前たちが見えてくる、ぼくの少女たちよ! ぼくの女王たちよ!

なかなか寝付けない夜(veillée)、部屋の闇がランプの煤でますます黒くなる。明かりをさらに小さくすると、暗闇はさらに深くなる。

この文を読むと、2022年10月26日に亡くなったピエール・スーラージュ(Pierre Soulages)の黒の絵画が思い出される。

真っ黒のようでいて、決して黒一色ではなく、目を凝らすと、何かが見えてくる。
スーラージュの黒は光を生み出し、彼は「黒と光の画家」と呼ばれたりもする。
ランボーの目は、闇(ombre)の中に浮かび上がる女たちの姿を捉える。

プルーストの長大な文とは対照的な短い文で綴られ、その意味も、心の中の様々な迷路を辿るプルーストとは異なり、人間の内面など存在しないかのように、その時思いついたことをただ言葉にしているにすぎない(ような感じがする)。
それにもかかわらず、ランボーの文には、プルーストの文に劣らない魅力が溢れている。


 Le haut étang fume continuellement. Quelle sorcière va se dresser sur le couchant blanc ? Quelles violettes frondaisons vont descendre ?

 とても深い池が煙を上げ続けている。どんな魔女が白い夕日の上に立ち上がるのだろう? どんな紫の葉むらが下りてくるのだろう?

hautは「高い」と訳されることが多いが、海などに使われる場合には、岸から遠くにあり「深い」という意味になる。
(Qui est d’une grande profondeur. La haute mer. La partie la plus éloignée des côtes où la mer est profonde. )

うっそうとした森に囲まれた池から蒸気が吹き上がっている。
その光景を目にして、ランボーは、魔女が出てくるのではないかと空想を膨らませる。
そこでは、夕日(le couchant)の赤い色は、白(blanc)に変えられている。

あるいは、蒸気が吹き上がっているのに、紫色をした木々の葉が下りてくるかもしれないと、上下を反転させた空想をしたりもする。

たった3つの短い文で構成されたこの散文詩を読んだ後、どこかで池を見ることがあれば、私たちもなんらかの思いを巡らせることになるかもしれない。
ランボーの詩の魔力と魅力がそこにある。


 Une matinée couverte, en Juillet. Un goût de cendres vole dans l’air ; — une odeur de bois suant dans l’âtre, — les fleurs rouies, — le saccage des promenades, — la bruine des canaux par les champs, — pourquoi pas déjà les joujoux et l’encens ?

7月の、どんよりと曇ったある朝。灰の匂いが空中を飛び交っている。— 暖炉の中で汗ばむ薪の匂い — ばらばらに散った花々 — 荒れ果てた散歩道 — 野原に広がる運河の霧雨(きりさめ) — としたら、もう、おもちゃとお香があってもいいのでは?

フランスの夏は普通天気がいい。それなのに、7月のある朝、空はどんよりと曇り、色々な灰の匂い(goût de cendres)が漂っている。
ちなみに、goûtは「味」を意味する言葉だが、感覚同士の連想から「匂い」を意味することもある。(Goût se prend quelquefois, par abus, pour odeur. Ce tabac a un goût de pourri.)

曇り空と灰から、ランボーは、12月のクリスマスを連想する。
暖炉(âtre)から薪の匂い(odeur de bois)がする。散歩道は荒れ果て(saccage)、その道に沿った木々の花々(fleurs)もちりぢりに散って(rouies)しまっている。
(rouirは「水につけて花の繊維を取り出す」が原義だが、そこから花がバラバラになっていることを連想させる。)
野原は霧でおおわれている。

7月なのに12月を思わせる天気なら、いっそのこと、クリスマスのプレゼントやミサがあってもいい。そうすれば、うっとうしい天気も楽しくなる。

ここでもランボーは、現実から空想へと軽々と飛び移り、思いついたことを簡潔な文あるは単語の連なりで表現する。
その軽快さこそがランボーの詩句を口にする時の、解放感と心地よさの原動力になる。


ランボーは、気が向けば、韻文詩でも同じ軽快さを生み出すことがあった。例えば、1870年4月の日付のある「感覚(sensation)」。

Sensation

Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers,
Picoté par les blés, fouler l’herbe menue :
Rêveur, j’en sentirai la fraîcheur à mes pieds.
Je laisserai le vent baigner ma tête nue.

Je ne parlerai pas, je ne penserai rien :
Mais l’amour infini me montera dans l’âme,
Et j’irai loin, bien loin, comme un bohémien,
Par la Nature, – heureux comme avec une femme.

夏の青い夕暮れ、ぼくは小径を歩くだろう、
麦の穂にチクチク刺されながら、小さな草を踏んで。
夢見心地で、草のひんやりとした冷たさを、足に感じるんだ。
ぼくは、風が浸すままにするだろう、帽子をかぶらないぼくの頭を。

ぼくは口を開かないだろう。ぼくは何も考えないだろう。
でも、無限の愛が、ぼくの魂に湧き上ってくるだろう。
そして、ぼくは遠くまで行くだろう、とても遠くまで、ボヘミアンみたいに、
「自然」の中を通り、幸せな気分で、女の子と一緒にいるみたいにね。

時制はすべて単純未来形に置かれ、すべてが空想であるとわかる。
ランボーは、4月のある日、夏になったらこんな風にしたい、そうできたらなんて幸せなんだろうと空想し、その思いを、軽快で生き生きとした言葉でリズムよく連ねていく。

プルーストの文を読んだ後で、ランボーのこんな詩句を読むと、巨大でありながら緻密な建造物からいきなり自然の中に放り出されたような時のような、びっくりするほどの解放感を感じる。
どちらがいいというのではなく、プルーストの文やランボーの文の間をボヘミアンのように放浪することで、読者である私たちは幸福を感じることができる。

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