
ポール・ヴァレリー(Paul Valéry)の「若きパルク(La jeune Parque)」は、512行に及ぶ長い詩。執筆期間は4年に渡り、その間に書かれた下書きは600ページにのぼるという。
内容的にもかなり理解が難しく、全てを読み通すためにはかなりの労力と根気と忍耐を要する。
その一方で、この詩が発表された当時から音楽性が高く評価され、ヴァレリー自身、18世紀の作曲家グルックやワグナーのオペラを念頭に置いていたことが知られている。
実際、「知性」のメカニスムとか「自己意識」のドラマといった哲学的な思索が、フランス語の詩句の奏でる美しい調べに乗せて運ばれている。
ここで冒頭の3行の詩句を取り上げるにあたり、まず最初に、詩句の音楽性を感じてみよう。
La jeune Parque
Qui pleure là, sinon le vent simple, à cette heure
Seule, avec diamants extrêmes ?.. Mais qui pleure,
Si proche de moi-même au moment de pleurer ?
若きパルク
誰がそこで泣いているの、ただの風でないのなら、こんな時間に、
1人で、極限のダイヤモンドと一緒に?・・・ でも、誰が泣いているの、
私自身のこんな近くで、泣いているこの時に?
以下のyoutubeビデオで、この3行の朗読を聴くと、フランス語の詩句の美を感じことができる。
(1)音楽性

この3行を見るだけで、ヴァレリーが、言葉のリズムと音色を巧みに構成し、素晴らしく音楽的な詩句を作り出したことがわかる。
Qui pleure là (4)/, sinon le vent simple (5)/, à cette heure (3)
Seule (2), avec di-amants extrêmes (7) ?.. Mais qui pleure (3),
Si proche de moi-même (6) / au moment de pleurer (6) ?
a. リズム
1行12音節からなるアレクサンドランの詩句で、韻を踏む最初の2行を見ると、韻(eu)を含む部分は、ともに3音節(à cette heure / mais qui pleure)の表現で、リズムが整えられている。
他方、それに先立つ部分は、1行目が qui pleure là (4) / sinon le vent simple(5)、2行目は、seule (2) / avec diamants extrêmes (7)と異なったリズムで進行し、変化が付けられている。
そして、3行目になると、6/6と中央で切れ目があり、12音節の詩句の最も基本的な区切りがなされ、安定したリズムが刻まれる。
b. 音色 ー 母音反復(アソナンス)と子音反復(アリテラシオン)
韻を踏む [ eu ]の音は、最初のpleureの中に含まれ、2行目のseuleと響き合う。
さらに、qui pleureは2行目の最後でそのまま反復され、3行目の最後のpleurerへとこだまする。
この母音反復(アソナンス)によって、詩のテーマの一つである「泣く」という行為にスポットライトが当てられると同時に、泣くのが「1人」であることも暗示される。
子音反復(アリテラシオン)に関しては、mが二行目のamants exrêmesで反復され、3行目では、moi, même, momentと何度も繰り返し現れる。
また、pleureという動詞が3度使われ、p, l, rの子音が反復されるだけではなく、pはprocheと、lはlà, le, seuleと、rはheure, extrêmes, procheと響き合い、3行の詩句のハーモニーを強く印象付ける役割を果たしている。
最後のpleurerは、3行全体の母音反復と子音反復を総合しながら、[ e ]の韻によって、次の行(Cette main, sur mes traits qu’elle rêve effleurer)の最後に置かれるeffleurerを音的に導く働きをしている。
このように見てくると、これら3行の詩句はヴァレリーが作曲した一種の楽譜であり、声に出して読むことは、リズムと音色が精密に組み合わされたこの小さな曲を演奏(interprétation)することだといってもいい。
(2)自己と自己の対話

La jeune Parque(若きパルク)は、何かの音を耳にし、Qui pleure (誰が泣いているの?)と問いかける。
その質問は、すでに2つのことを示している。
1)質問は、質問する人間とそれに答える人間という2人の存在を前提にしており、「対話」を導く。
2)Qui (誰)という言葉は、泣いているのが「風(vent)」を含む「物」ではなく「人間」であることを示す。パルクはすでに音の主が人間であることを認識している。
問いを発するパルクは一人でいる。としたら、応えるのは誰か?
ヴァレリーは、生涯にわたって綴り続けたノート(「カイエ」)の中で、話すことについて次のように記したことがある。
La personne qui parle [en moi] est déjà autre que moi — et je suis fait autre qu’elle, par cela seul que cette personne qui parle m’engendre personne qui entend. (Cahiers)
[私の中で]話す人間は、すでに私とは別の人間である。— 私はその人間とは違う風に作られている。話す人間は私の中に聞く人間を生み出す、ということだけでそうなのだ。(「カイエ」)
この考えに従えば、「質問するパルク」と「質問を聞くパルク」は別の人間(autre)であり、彼女は2人に分裂していることになる。
「誰が泣いているの?」と問いかけることは、二重化した自己の「対話」であり、「問う私」と「応える私」の間で行われることになる。

そして、そのことは、Si proche de moi-mêm(こんなに私自身の近くで)という言葉によって、さらに強く暗示される。
「問う私」と「応える私」は、1人(seul)でありながら、しかし別の存在(autre)なのだ。
私が泣いている時、泣いているのは誰?と問いかける。
としたら、泣いているのは、「もう1人の私」。
その「もう1人の私」は「私」の知らない私であり、私でありながら他者でもある。
だからこそ、なぜ泣いているのかわからない。
ただ、「誰が泣いているの?」という問いだけが、詩句の奏でる音楽に運ばれ、孤独な空間の中を漂う。
その状況は、「若きパルク」の35行目で、次のように描かれる。
Je me voyais me voir (6) / (…)
私は、私を見る私を見ていた。
「見る私」と「見られる私」は1人の私でありながら、別の私でもある。ここに二重化した自己の存在がある。
この自己意識の姿は、『テスト氏との一夜』の中で記された考察と対応する。
Je suis étant, et me voyant ; me voyant me voir, et ainsi de suite… (La Soirée avec Monsieur Teste)
私は存在する。そして私を見ている。私を見ている私を見ている。それが同じように続く。(『テスト氏との一夜』)

テスト氏の自己意識の自覚が、「若きパルク」で繰り広げられる自己意識を巡る思索で再び取り上げられたことは明らかである。
ただし、詩においては、思索は音楽や映像として表現され、意味は事後的に明かされなければならないとヴァレリーは考えていた。
« Je me voyais me voir »では、meとvoirの組み合わせにより、わずか6音節の中で、母音反復(アソナンス)と子音反復(アリテラシオン)が密接に組み合わせ、忘れがたい音楽を奏でている。
「若きパルク」という詩全体を通して、そうした音楽に乗って、変わりゆく一連の心理が辿られ、パルクの意識が一晩の間に変化する内的ドラマが綴られていく。
このように見てくると、「若きパルク」の冒頭の3行は、自己意識をテーマにしたオペラの前奏曲のようなものだと考えることができる。
翻訳について
「若きパルク」の翻訳は何種類か出版されていて、時に、それらの正確さや優劣が話題になることがある。
実際、翻訳者のフランス語の読解力や日本語の表現力には差があり、ある視点から優劣をつけることができるかもしれない。
しかし、より本質的なことは、翻訳は通訳を介した会話のようなものであり、元の言葉(フランス語)と翻訳された言葉(日本語)の間には翻訳者が存在し、読者は翻訳者の解釈と表現に接するという事実である。
ここで、1人のパルクがともにいる(avec)と言われるdiamants extrêmesについて考えてみよう。
extrèmeは「究極の程度」を示す言葉であり、強度や純粋さが非常に高いとか、距離が極端に遠いことなどを示す。(Qui est tout à fait au bout, tout à fait le dernier ; qui est au plus haut degré de leur intensité et de leur pureté, à l’infini de la distance )

では、diamants extrêmes(究極のダイヤモンド)とは何だろう?
普通のダイヤモンドよりも遙かに大きく、美しく輝く、ダイヤモンドの中のダイヤモンド。
その場合には、パルクがそれらのダイヤモンドを身に付けているとも考えられるし、あるいは彼女の瞳や肌の輝きの比喩とも考えられる。

距離が離れた輝くものだとすれば、遙か彼方でキラキラと輝くダイヤモンドは天空にまたたく星々のことだと解釈することも可能だろう。
その場合には、たった1人でいるパルクは星々とともにあり、他の人間たちから遠くにいることを強く印象付けることになる。
あるいは、夜の時間の最後まで残っていた星々と考えれば、今まさに夜が明けようとしている印かもしれない。
翻訳する場合には、ダイヤモンドか星かという解釈に基づき、日本語を選択することになる。
「いやはての星々のきらめき」(田辺元)
「窮極の金剛石」(鈴木信太郎)
「暁空のはてのダイヤ」(平井敬之)
ルビを使い、二つの意味を同時に浮かび上がらせる試みも行われた。
「金剛石(ほしぼし)のひとり瞬く」(井沢義雄)
「いやはての金剛石(ほしぼし)」(中井久夫)
こうした日本語訳のベースになったのは、昭和17(1942)年に出版された菱山修三の訳らしい。
「ただ極限(いやはて)のかすかな金剛石(ほしぼし)」
訳者たちは、様々な工夫を施し、「きらめき」「暁空のはて」「ひとり瞬く」「かすかな」などという言葉を付けるのだが、その度に訳者自身の解釈の跡がますます濃厚になり、diamants extrêmesから遠ざかってしまう。
翻訳は一つの作品として、読む価値があることは確かである。
ただし、訳者という仲介者が存在し、訳者の解釈入りで訳者の言葉で綴られた作品を読むのだということは意識しておきたい。

個人的には、「若きパルク」を翻訳で読んだとしたら、その後、フランス語で冒頭の3行を読むだけでもいいと考えている。
ヴァレリー自身のフランス語に直接接することで、他では得ることのできない喜びを感じることができる。
Qui pleure là, sinon le vent simple, à cette heure
Seule, avec diamants extrêmes ?.. Mais qui pleure,
Si proche de moi-même au moment de pleurer ?
La jeune Parqueの声が聞こえてこないだろうか?
すごく面白かったです。
Seuleは、enjambement で cette heure seule と取れませんか?
au moment de pleurer がよくわからなかったのですが、何度も読んでいるうちにこう思ったのですが、どうでしょうか。A cette heure seule, avec diamants extrêmes の言い替えが au moment de pleurerなのでは、と。
それから、di-amantsとハイフンが入っていたので、「恋人たち」を思い浮かべ、diamants extrêmes に、先生のおっしゃる二重化した自己、分裂した二人の自分の意味もあるのかな、などと思いました。解釈のしすぎかもしれませんけれど。
diamants extrêmes に冠詞がないのはどうしてでしょうか。
先生の講義を受けたいです。
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コメント、ありがとうございます。
1) à cette heure Seuleという読みは可能でしょうね。
同じ時代、アポリネールは『アルコール』で、句読点を取り払い、多重的な読みが可能な試みをしました。
ヴァレリーも同様の可能性を模索したと考え、一つの表現に様々な読みの可能性を作り出したと考えてもいいように思います。
heure seuleその時間のみ、つまり、diamants extrêmesの時、夜明け、パルクの目覚め、と連想が続きます。
そして、それは決して、一人であることと二者択一ではなく、どちらの意味も読み取るということになるでしょう。
2)di-amantsとtiretを入れたのは、音節を数えるとき、diérèseであることを示すためでした。
でも、diを二つと考えたり、分離と読み取ることも、無理すじかもしれませんが、可能かな。
ランボー、マラルメ以来、無理筋が無理筋でないという感じで、詩を読むのが難しくなりました。面白くもあるのですが。。。
3)avec diamants extrêmesについては、詩の場合、音節数の問題がありますから、冠詞なしも結構あるように思います。
冠詞の問題はとても微妙ですが、私の感覚では、-sがついている場合、複数であることと同時に、冠詞をつけたときと同様の具体性、現実性が発生するように思います。
こちらを読んでいただけると、ご参考になるかもしれません。
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すみません、一つ忘れました。
Au moment de pleurerですが、要するに、誰が泣いているのか明示せず、泣いているという行為にスポットライトを当てた表現だと思います。
今、私の近くで誰かが泣いている、誰?
こんな感じでしょうか。
Qui pleure là, qui pleureと反復し、pleurerと受け、次の行のeffleurerと韻を踏むという音の連なりは、驚くべきテクニックだと思います。
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名詞に冠詞をつけること、sといった印を付けることに関しては、こちらの方がより適切な記事でした。
https://bohemegalante.com/2020/02/16/nom-singulier-pluriel/
前の記事と合わせてご覧ください。
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ありがとうございます。sが具体化するというのは勉強になりました。抽象名詞を複数にするのが、なんでかなと思いながら慣習でやっていましたが、分かった気がします。学校を出てしまうとなかなかこうして教えていただく機会がないので、本当に貴重な機会でした。
avec diamants extrêmes の場合、冠詞がないのは続く名詞(この場合diamants)が抽象的で具体性が低いのではと思っていました。なのに複数形で具体性が出てくるというのは矛盾があるような気がするのですが、抽象名詞の複数形のように考えればいいのでしょうか。
une heure seule のseuleは、私は「孤独な」のつもりでした。「ひとり」という意味はもちろんそのままだと思います。
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私はフランス語学や冠詞研究の専門家ではない、という言い訳を前提にしてですが。。。
動詞の原形や無印(冠詞や語尾のs,xなし)の名詞は、現実化していない概念のみを提示するということだと考えられます。
ということは、diamandsとs付きだと、それだけで具体化すると考えられます。
oreiller d’herbesのsと同様です。herbesだと、実際に草が中に詰め込まれた枕のように感じる。oreiller d’herbeだと草の具体性が取り除かれる、というのが、翻訳者の方のお考えでした。
通常のフランス語では、des / les diamants extrèmesと冠詞が要求されることが多いのですが、冠詞なしでもs付きであれば、具体的なイメージが付与されるのではないかと思います。
以前、ソルボンヌ大学の友人にこうしたことを質問しましたら、返事は、c’est comme ça.でした。(笑)
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