ポール・ヴァレリー 若きパルク Paul Valéry « La Jeune Parque » 4~37行 私を咬む蛇

「Qui pleure là ?」(誰が泣いているの?)で始まる「若きパルク(La Jeune Parque)」は、冒頭の3行の詩句がオペラの前奏曲のような役割を果たし、自己が自己に問いかける自己意識のドラマの開始を告げる。
(参照:ポール・ヴァレリー 若きパルク 冒頭の3行 音楽と思想

その後、ヴァレリー自身の言葉によれば、連続する心理的な変転の数々(une suite de substitutions psychologiques)を通して、一つの意識が一晩の間に辿る変化(le changement d’une conscience pendant la durée d’une nuit.)を、512行の詩句によって描き出していく。

そうした中で、第4行目から第37行目までの断片は、オペラで言えば、第1場第1楽章ともいえる場面。
最初に話題になるのは、涙。
涙をぬぐおうとする手の動きや心の内が明かされる。(第4行~第8行)

Cette main, sur mes traits qu’elle rêve effleurer,
Distraitement docile à quelque fin profonde,
Attend de ma faiblesse une larme qui fonde,
Et que de mes destins lentement divisé,
Le plus pur en silence éclaire un cœur brisé.

この手、私の顔の上にあり、この顔に触れることを夢見ている、
漠然と、何か深い目的に従順に従い、
(この手が)私の弱さから待ち望んでいるのは、一粒の涙が溶け出すこと、
そして、私のいくつかの運命から、ゆっくりと切り離された
最も純粋な運命が、静かに、砕けた心を照らすこと。

手が「私」つまりパルクの顔(traits)の上にあり、今にも顔に触れよう(effleurer,)としている。
その理由ははっきりとはわからない。ただ漠然と(Distraitement )、なんらかの深い目的(quelque fin profonde)に従っているらしい。

「私」に何があったのかわからないが、私は弱く(ma faiblesse)、心が砕けて(un cœur brisé)しまっている。

そこで、今にも涙が一粒(une larme)溶け(qui fonde)、流れ出そうとしている。手はそれを予期し(attend)、涙を拭おうする。

もう一つ望むことは、いくつかある運命(mes destins)の中でも、最も純粋な(le plus pur)運命が、静かに(en silence)、心を照らし(éclaire)、なぜ砕けてしまったのかを明らかにすること。

ゆっくりと(lentement)や静かに(en silence)という言葉は、「私」が自らの心理を知ろうとする際の、恐れと慎重さと繊細な心持ちを示している。

次に涙がどっとあふれ、大きな波のようになる。(第9行から第12行)

La houle me murmure une ombre de reproche,
Ou retire ici-bas, dans ses gorges de roche,
Comme chose déçue et bue amèrement,
Une rumeur de plainte et de resserrement…

大きな波が、私にささやきかける、おぼろげな非難の言葉を、
あるいは、引き戻す、この地上で、岩でできた胸の中に、
失望させられ、苦々しい思いで飲み込まれたもののように、
うめきや胸の締め付けられる声のざわめきを。・・・

大きな波(la houle)は、一粒の涙(une larme)の予感が実現するだけではなく、涙がどっと溢れ出した状態。

「私」に何か罪があり、心が砕け、こんなに涙が流れ出してくるのだろうか?
涙の大波は、「私」に対して、はっきりとではなく、影(ombre)のようにおぼろげに、「非難(reproche)」しているようでもある。

「私」は、その涙と共に、うめき(plainte)や胸が締め付けられた(resserrement)声のざわめき(remeur)を、思わず出してしまったのかもしれない。

その岩でできた(ses gorges de roche)の、その(ses)とは直接的には大波(la houle)だが、その波(=涙)は「私」のものであり、結局、パルク=「私」の胸だと考えることができる。

「私」は弱く、涙を流し、うめき声を上げてしまった。しかし、その弱さをそのまま認めるのではなく、胸の中に押しとどめたい。そのためには、感情を抑え、岩の胸(gorges de roche)を持つ必要がある。
その胸の中に、苦しみに耐えられずあげてしまった声を引き戻してくれるのも、涙の大波。ちょうど、苦い飲み物を飲むように、岩の胸の中に声を引き戻す。

涙を流すことが非難の印であることもあれば、大泣きして気持ちが収まることもある。ささやくこと(murmure)や、引き戻すこと( retire)は、そうした二つの気持ちの揺れを表現している。

第13行目では、「お前(tu)」という呼びかけがなされる。

Que fais-tu, hérissée, et cette main glacée,
Et quel frémissement d’une feuille effacée
Persiste parmi vous, îles de mon sein nu ?…
Je scintille, liée à ce ciel inconnu…
L’immense grappe brille à ma soif de désastres.

お前は、何をしているの、髪を逆立て、手は凍り付いて、
そして、消し去られた1枚の葉の、どんな震えが
いつまでも続くのか、お前たちの間で、私のはだけた胸の島々よ?・・・
私はキラキラと光る、未知の空と結びつき、・・・
巨大なブドウの房は輝く、災難を求める私の渇望に応えて。

「私」は孤独の中にいる。従って、「お前(tu)」とは「私」が見る「私」であり、「見られる私」=「もう1人の私」と考えてもいいだろう。
自分に対して「お前は」と呼びかけることは、誰にでもあることだ。

「見られる私」の髪は逆立ち(hérissée:女性形であることから、tuが女性であることがわかる)、手は凍っている(cette main glacée)。

では、第14行目に出てくる「消し去られた1枚の葉(une feuille effacée)」とは何か?

その葉は震えている(frémissement)。
そして、その震えが、私のはだけた胸(mon sein nu)の島々(îles)、つまり乳房の間で、いつまでも続いている(Persiste)。

その胸は「見られる私」のもの。としたら、「見る私」はこの場面では消し去られている(effacée)ともいえる。従って、「消し去られた1枚の葉」とは「見る私」だと考えることができる。
「見る私」の存在は消されているが、しかし、その存在を感じさせる震えは、「見られる私」の胸の中で、鼓動を続けている。
実際、378行目の詩句には、«Un frémissement fin de feuilles, ma présence»(葉の繊細な震え、私の存在)という言葉があり、上の考察が裏付けられる。

視覚、触覚、聴覚といった感覚の次元では、「私」は髪を逆立て、手を凍らせ、心臓のか弱い鼓動を聞いている。
それに対して、未知なる天空(ce ciel inconnu)、感覚を超えた精神の次元では、「私」はキラキラと輝いている(Je scintille)。

同じように輝く(brille)巨大なブドウの房(L’immense grappe)とは、詩の冒頭の2行目の詩句(Seule, avec diamants extrêmes)で言及された「極限のダイヤモンド」、つまり天空の彼方で燦めく星々のことだと考えられる。

しかし、なぜ「私」は、災難(désastres)を喉が渇いたかのように求める(soif de)のか?あるいは、その災難とは何か?

その答えは、次に続く第18行目から始まる詩句を通して徐々に明かされ、第37行目に至り、一匹の蛇が姿を現すことで、明確な形を取る。


まず第18-23行において、天上の星々に対する呼びかけがあり、第24-27行になると、星々と共にいる「私」の姿が浮かび上がってくる。

Tout-puissants étrangers, inévitables astres
Qui daignez faire luire au lointain temporel
Je ne sais quoi de pur et de surnaturel ;
Vous qui dans les mortels plongez jusques aux larmes
Ces souverains éclats, ces invincibles armes,
Et les élancements de votre éternité,
Je suis seule avec vous, tremblante, ayant quitté
Ma couche ; et sur l’écueil mordu par la merveille,
J’interroge mon cœur quelle douleur l’éveille,
Quel crime par moi-même ou sur moi consommé ?…

全能の異邦のものたちよ、避けがたい星たちよ、
(それらが)時間の彼方で、輝かせるのは、
私の知らない、純粋で、超自然なるもの。
あなた方は、死ぬべき人間たちの中に、涙に達するまで、沈み込ませる、
至高の輝きを、不屈の武器を、
そして、あなた方の永遠の飛翔を。
私は一人、あなた方と共にいる、震えながら、すでに離れた後、
私のベッドを。そして、奇跡に咬まれた岩礁の上で、
私は私の心に問いかける、どんな苦悩が心を目覚めさせたのか、
どんな罪が、私自身によって、あるいは私の上で、行われたのか?・・・

第17行で語られる巨大なブドウの房(L’immense grappe)が、ここではまず、異邦のもの(étrangers)と呼ばれ、さらには星(astres)であることが明かされる。
そして、それらの星に対して、あなた方(vous)と呼びかける。

星は、永遠(éternité)に属し、人間(les mortels)の中に、純粋(pur)で、超自然な(surnaturel)何かを輝かせる(faire luire)。
そして、永遠に由来する至高の輝き(souverains éclats)や不屈の武器(invincibles armes)や飛翔(élancements)を人間の中に沈ませる。
その結果、人間は、時間の果て(le lointain temporal)、つまり永遠には達しないが、永遠を予感させるところまで達し、涙する(jusques aux larmes)。

このようにして、涙の原因が明らかにされる。
涙は、星々が、時間の流れる世界を超えた永遠を、人間の中に感じさせるからなのだ。
その星々の力は、この上もなく強く(tout-puissants)、しかも、人間にとって避けがたい(invincibles)。

第24行目の「私は一人、あなた方と共にいる」(Je suis seule avec vous)を転機として、星々と共にいる「私」に視点が移動する。

この表現は、詩の冒頭の2行目にある« Seule avec diamants extrêmes »と同じモチーフであり、オペラを例に取れば、第1−3行目が前奏曲だったとすると、« Je suis seule avec vous »は、そのモチーフを第1場第1楽章で展開したものだ。

「私」はベッドを離れた後(ayant quitté ma couche)、岩礁(écueil)の上いる。
苦悩(douleur)に目が覚め、どんな罪(quel crime)を犯したのか、あるいは犯されたのか、自分の心に問いかけ(j’interroge mon cœur)、そして、ただ一人、岩の上で、震えている(tremblante)。
その岩礁が奇跡(la merveille)によって咬まれている(mordu)のは、頭上にきらめく星々が地上に力を及ぼす痕跡に違いない。

第17行目の災難(désastres)がここでは、苦悩(douleur)や罪(crime)として表現される。
それらの原因は、時間の中を生きる人間に永遠の星々が流させる涙にあるのだろうか?

第24行目からは、心に問いかける(J’interroge mon cœur)ことから得られる、もう一つの可能性が示される。

… Ou si le mal me suit d’un songe refermé,
Quand (au velours du souffle envolé l’or des lampes)
J’ai de mes bras épais environné mes tempes,
Et longtemps de mon âme attendu les éclairs ?
Toute ? Mais toute à moi, maîtresse de mes chairs,
Durcissant d’un frisson leur étrange étendue,
Et dans mes doux liens, à mon sang suspendue,
Je me voyais me voir, sinueuse, et dorais
De regards en regards, mes profondes forêts.

J’y suivais un serpent qui venait de me mordre.

・・・あるいは、悪が私に付きまとうのだろうか、閉ざされた夢によって、
その時、(ビロードのような柔らかな息を吹きかけられ、消え去る、ランプの黄金の光)
私は、肉付きのいいこの両腕で、こめかみを包み込み、
長い間、私の魂から、光が発せされるのを待っていたのだった。
全て? とにかく、全ては私のもの、私の肉体を支配し、
一つの身震いで、貴重な広がりを硬くし、
そしえ、私の穏やかな繋がりの中で、私の血に吊され、
私は、私を見る私を見ていた、くねくねしている、そして、黄金の染めていた、
どこに視線をやっても、私の深い森を。

そこで、私は一匹の蛇の後を付いていった。今私を咬んだばかりの蛇の後を。

閉ざされた夢(un songe refermé)によって「私」にずっと付いてくる「悪(le mal)」とは、何を意味するのだろう?

まず、眠る前の行為がカッコの中(au velours du souffle / envolé / l’or des lampes)で描かれる。
ランプにともるロウソクの火(l’or des lampes)を、ビロード(velours)のように優しく、そっと吹き(souffle)消す(envolé)。
その文は、文法的とはいえず、意味はo, v, l, ouなどの音の奏でる音楽によって運ばれる。

そのようにして明かりを消した時、「私」は顔を手でおおい、そして、魂(mon âme)から発せされる光を待っていた。
そうした中で、「全て(toute)?」と問いかけが行われる。
この問いは、詩の冒頭で発せられる「誰が泣いているの?(Qui pleure)」という問いに劣らず、重要な役割を果たす。

その問いが謎めいているのは、何の全てなのかが明示されていないことにある。
そのため、これまでの日本の訳者たちは、「全てのもの!」「すっかり!」「すべてか?」「残りなく?」「全てと?」など、それが何かを明示しないか、あるいは理解しないまま、日本語に置き換えてきた。
一人だけ、「あらゆるわれ。」と、それがパルクの「私」全体であることがわかるように、「われ」という言葉を入れている。

28行目の詩句では、« Toute ? toute à moi, maîtresse de mes chaires »と続き、「全て」が私のもの(à moi)であり、私の肉体(mes chairs)を支配する(maîtresse)ことが告げられる。
そのことによって、「全てなのか?」という問いが、私という存在にとって、肉体(感覚)だけが「全て」なのかという問いであることが、徐々にわかってくる。

物質としての肉体は一つの広がり=延長(étendue)であり、震えること(un frisson)によって体は硬直する(durcissant)。その広がりは奇妙な(étrange)存在だといえる。
では、そうした肉体が「私」の全てではないとしたら、それ以外に何があるのか?

冒頭の2行目「私は究極のダイヤモンドである星々と共にいる(Seule avec diamants extrêmes)」 を思い出すと、第27行目で語られる「私の魂から発せられるのを待つ光(de mon âme attendu les éclairs)」とは星々の光でもあり、「私」の一部ではないかという推測が成り立つ。
だからこそ、ランプの黄金の光が消えた(envolé l’or des lampes)としても、「私」は、延長(étendue)の現れの一つである深い森(mes profondes forêts)を、黄金に染める(je (…) dorais)ことが可能なのだ。

そして、「私」の中の星々を目にするためには、肉体(mes chaires)を支配するだけではなく、肉体を知覚する感覚を「意識」する必要がある。
「私は私を見る私を見ていた(Je me voyais me voir)」
この構図の中で、「私」は、意識する「精神」と対象としての「肉体」に分離する。

こうした自己意識の中で、肉体を支配する「私」が「私の全てか?」と問われれば、「否。」と応えることになる。
「私」は「肉体」であると同時に「精神」でもあるのだから。

そして、その二重性は、穏やかな繋がり(doux liens)を持ち、「私」はその中で、生命の流れとしての「私の血(mon sang)」に支えられ、自己を見る自己を見る。
そのくねくねとした(sinueuse)円環は、自らの尾を噛む蛇ウロボロスのようだ。

そのような自己意識の点から見ると、「私は私を見る私を見ていた」と語る若きパルク自身が、彼女を噛んだ(venait de me mordre)一匹の蛇(un serpent)であるとも考えられる。

キリスト教の楽園神話において、蛇は「知恵の実」への欲望をエヴァの中に引き起こし、アダムとエヴァが楽園から追放される元凶となった。
蛇の誘惑により、二人は善悪を知り、裸体を隠すことを覚える。

それは一方では、官能への欲望の開始を意味する。
しかし、もう一方では、知を追い求める精神の象徴であり、自己意識の第一歩でもあった。

第17行目に出てきた「災難を求める私の渇望(ma soif de désastres)」の災難とは、自己意識によって引き起こされる楽園からの追放だ考えられる。
そうであれば、なぜ「私」がそれを求めるのかという問いの答えは明白である。
若きパルクは知を求め、肉体の中で精神が活動することを望む、「私を咬む蛇」なのだ。


全部で512行ある『若きパルク』の第4-37行だけを取り上げたのだが、ヴァレリーが自己意識のドラマ、その心理的な過程をどのように詩として表現したのか、少しは感じ取ることができたかもしれない。

そこでは、自分が自分を見る自分という構図から発生する肉体と精神の関係が、手、波、星、肉体、蛇といった実感を伴った姿で具象化され、思想の言葉とは違う形で表現されている。
そのために、思想そのものを読み取ることはかえって困難になってしまうかもしれない。しかし、他方で、ここでは触れなかった詩句の音楽性や、豊かなイメージの描き出す世界を通して、より親密に読者の精神に働きかけることもある。

例えば、夕焼けの空を眺めながら、次の詩句を口ずさむ。

Je scintille, liée à ce ciel inconnu…
L’immense grappe brille à ma soif de désastres.

すると、知への欲求が無限に自分の中に広がってくるのを感じる。

その後で、こう口ずさむ。

J’y suivais un serpent qui venait de me mordre.

すると、知の探求が官能的であることを感じたりもする。

こうした断片的な楽しみを知ると、一編の詩を全て読まなければならないという強迫観念から逃れることができるだろう。


フランス語の音楽性は、次の朗読で感じることができる。ただ、残念ながら、« De regards en regards, mes profondes forêts »までで終わってしまう。

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