マラルメの詩は難しい。それは日本人の読者にとってだけではなく、フランス人にとっても同じこと。なぜこんなに「難解(obscur)」なのだろう。

日本では本来の難解さに、別の問題が加わった。
マラルメ紹介の初期、東大教授だった鈴木信太郎が中心的な役割を果たした。彼の訳文は難しい漢字のオンパレードで、普通の読者には理解不可能なものだった。
その上、マラルメの詩が、言語の根底を問い直す哲学的な側面を持っているため、逆に読者は「難解さ」に安住する傾向が出来上がってしまった。わからなくて当たり前という風潮。分からないものをありがたがるインテリの読者。。。
その一方で、音楽性は顧みられず、マラルメの詩を声に出して読むことは冒瀆と考えられる時代があったという。詩の音楽性が重要であることは、マラルメ自身が強く主張している。音声軽視は、日本のマラルメ受容にとって大変に不幸なことだった。
初期のマラルメが自らの詩法を展開した「蒼穹(L’Azur)」を読み、彼が詩をどのように捉えていたのか見ていくことにしよう。
「蒼穹」は、1行12音節、1詩節は4行。九つの詩節で構成されている。
第1詩節ではボードレールの詩学を踏まえ、第2詩節ではマラルメの独自性に言及される。
第3詩節から第5詩節では、第2詩節の内容が具体化される。
第6詩節と第7詩節では、詩から遠く離れた状態が示される。
第8,第9詩節では、再び詩が甦り、結論が提示される。

L’Azur
De l’éternel Azur la sereine ironie
Accable, belle indolemment comme les fleurs,
Le poëte impuissant qui maudit son génie
À travers un désert stérile de Douleurs.
蒼穹
永遠の蒼穹の、平穏な皮肉が
圧倒する、花々のように無頓着に美しく、
無力な詩人を。自らの才能を呪いながら、
苦悩に満ち不毛な砂漠をゆく詩人を。
この第1詩節では、ボードレールの詩学がマラルメ的に表現されている。
ボードレールの詩が目指すのは、ただ「美」のみ。
その美は詩人の方を振り向こうとはせず、詩人は絶望的に美への憧れを抱く。
その決して到達できない美への思いが、苦悩と甘美を生み、詩人はメランコリーの中で、永遠の敗北者として美を求め続ける。
散文詩「芸術家の告白」は、ボードレールの詩と美に対する信仰告白である。
https://bohemegalante.com/2019/02/20/baudelairle-confiteor-de-lartiste/
ボードレール的な美の根源となる「無限」や「空と海の広大さ」を、マラルメはL’Azur(蒼穹)と表現する。
そこは決して到達できない美の在り処であり、憧れであるとともに、苦悩の源でもある。
「皮肉」はその矛盾の表現であり、美は詩人に関心を払うことなく無頓着。詩人がどんなに苦悩に苦しんでも、何も生み出さない不毛の地を歩むようなもの。
詩人は無能であり、才能を呪うことしかできない。
こうした詩句で、マラルメは、彼の詩学がボードレールの詩学から発していることを明示する。

ボードレールは、フランスにおけるエドガー・ポーの紹介者であり、マラルメも、ポーの「詩の原理」を取り入れていた。
1)詩は、インスピレーションの賜物ではなく、数学的な構築物。
2)詩の目的は「効果」を生み出すこと。
3)効果を生み出すためには、一回で読み切ることができる長さであること。
4)効果とは、読者を高揚させ、恍惚の中に導くこと。
詩が数学的な構築物であるためには、最初の言葉を記す時から、すでに最後の言葉まで見通している必要がある。
マラルメはそのことに意識的であり、冒頭の「永遠の蒼穹」が、詩を締めくくるリフレイン「蒼穹、蒼穹、蒼穹、蒼穹」として戻ってくる。
1864年1月、友人のアンリ・カザリスに送った手紙の中で、彼は200回も自分の詩句を読み直し、「不協和音もなく、愛らしいけれど気を散らす装飾音もなく、詩全体の効果が生み出された」ことを確信している、と書いている。
数学的論理の下で創作された詩。その最初と最後に現れる「蒼穹」という単語は、ポー的「詩の原理」のエンブレムとして機能している。
詩の構成の面には自信のあるマラルメだが、もう一つの側面、美学的な側面に関しては自問している。「蒼穹」の詩句に美の反映が見られるのかどうか、と。
第2詩節になると、マラルメ自身の姿勢が示される。それは、「蒼穹」からの「逃走」。
Fuyant, les yeux fermés, je le sens qui regarde
Avec l’intensité d’un remords atterrant,
Mon âme vide. Où fuir? Et quelle nuit hagarde
Jeter, lambeaux, jeter sur ce mépris navrant?
目を閉じて逃走する私は、あれを感じている。あれは見ている。
人を打ちのめす、激しい後悔の念とともに、
私の空虚な魂を見ている。どこに逃げるのか。取り乱したどんな夜を、
投げるのか、切れ切れにして、この悲痛な軽蔑の上に。
ボードレールは「無限」に挑む戦いを前にして、憧れを隠しはしない。その憧れ、つまり、美へ向かう熱望こそが、美そのものなのだ。
それに対して、マラルメは、逃走する。目を閉じて、逃げる。
そして、「蒼穹」の眼差しをくらますために、夜の断片を投げつける。
詩人の魂が虚無であり、蒼穹がその魂を見ているという認識。その認識に基づき、詩人は、蒼穹から身を隠すため、闇の中に身を隠そうとする。マラルメの詩の基本的な姿勢、「逃走」がこのようにして示される。

ところで、マラルメの詩句の難解さの一つは、フランス語の文の構造が解体されていることから来ている。主語、動詞、目的補語や状況補語などの組み立てが意図的に乱され、通常の理解ができない。
第2詩節の場合、je le sens (l’Azur) qui regarde mon âme. (私は蒼穹が魂を見ているのを感じる)という文の構造は明確である。
それに対して、後悔の念(avec … remords)に関しては、曖昧さが残る。
一般的な構文理解によれば、その後悔は、蒼穹が私の魂を見る(regarde)ときの状況である。しかし、蒼穹がなぜ激しい後悔をする必要があるのか。後悔するとしたら、「私」ではないのか。
実際、後悔が打ちのめす(atterrant)のは「私」である。そうであるとしたら、「私」が蒼穹を感じる時に抱く後悔ではないのか。
従って、« avec l’intensité d’un remords »は、je le sensの状況を表していると考えるほうが相応しい。
構文上のもう一つの問題は、最後の詩行に出てくる「断片」(lambeaux)。名詞のまま動詞の後に無冠詞で置かれ、非文法的である。
しかし、動詞(投げる)と目的補語(夜)との関係を考えると、夜を断片にして投げるのだろうと推測できる。
そして、理解が困難なことで「断片」という単語にスポットが当たり、「取り乱した夜(nuit hagarde)」の一つ一つの断片がどんなものか、興味が湧くことことになる。
「蒼穹」は「私」を軽蔑し(mépris)、私の胸を抉る(navrer)。その原因は、私の魂が空虚(vide)でありながら、「蒼穹」を求め、同時に「蒼穹」から逃れようとするからだろう。
その時、私はどこに逃れていいのかわからない。そこで、夜の闇を投げかける。その夜に対応するものが、第3詩節から第5詩節にかけて、3つの姿で描き出されていく。
夜の断片は、まず霧になって現れる。

Brouillards, montez! Versez vos cendres monotones
Avec de longs haillons de brume dans les cieux
Que noiera le marais livide des automnes
Et bâtissez un grand plafond silencieux!
霧たちよ、立ち昇れ! 撒き散らせ、単色の灰を、
長いぼろきれのような靄と共に、大空へと。
その空を、秋の鈍色の沼が、いつか溺れさせるだろう。
建造しろ、音を立てない巨大な天上を!
霧(brouillards)に対して命じる内容は3つ。
立ち昇り(monter)、まき散らし(verser)、建造する(bâtir)こと。
霧が立ちこめ、大気を靄(brume)で覆い、天を覆いつくすほど広大に広がる。そして、何度も秋を重ねるうちに、霧が鈍色の沼地をつくり、空を呑み込んでしまう。
灰の単色と沼の鈍色は、霧の風景から音を奪い、メランコリーを強める働きをしている。
Et toi, sors des étangs léthéens et ramasse
En t’en venant la vase et les pâles roseaux,
Cher Ennui, pour boucher d’une main jamais lasse
Les grands trous bleus que font méchamment les oiseaux.
そして、お前。冥界の池から出、集めよ、
ここに来て、腐った泥と青白い葦を。
愛しい倦怠よ、疲れを知らぬ手で、塞ぐのだ、
鳥たちが意地悪く穿った、巨大な青い数々の穴を。
霧が生み出すメランコリーが、ここでは倦怠と呼ばれる。
詩人は、その倦怠に対して「お前」と呼びかけ、地獄の河から出て、青い穴を塞ぐために泥と葦を集めるように命じる。

では、なぜ穴を塞ぐのか。
その穴を開けた鳥たちの行為は意地悪と言われ、空いた穴は青い。
深い霧で覆われた闇が穿たれ、穴が開けば、「蒼穹」が見える。逆の見方をすると、身を隠そうとして広げた闇の隙間を通して、「蒼穹」が私の魂をのぞき見ることになる。それでは、「逃走」の意味がなくなってしまう。

逃走がマラルメの詩的行為だとすれば、忘却の河の倦怠は、その行為を続けることを可能にする、大切な要素である。
Encor! que sans répit les tristes cheminées
Fument, et que de suie une errante prison
Éteigne dans l’horreur de ses noires traînées
Le soleil se mourant jaunâtre à l’horizon!
まだ終わらない。休むことなく、悲しい暖炉よ、
煙を吐け。煤だらけの彷徨う監獄よ、
消し去れ、黒くたなびく煙の恐怖の中で、
あの太陽を。地平線の彼方、黄ばみつつ、死を迎えようとしている太陽を。
「蒼穹」から逃れるために、詩人は霧が立ち上り大気を覆うように命じる。そこに鳥たちが穴を穿つが、忘却の河から立ち上った倦怠に塞ぐように言う。こうした壮大なイメージの後に、室内のイメージが続く。
暖炉に向かい、煙を吐き、煤を撒き散らし、地平線の彼方に沈もうとする太陽。

ここでは、悲しい暖炉、煤の監獄、黒いたなびき、恐怖、死、黄色っぽい等、「蒼穹」と対立する言葉が連なっている。その結果、太陽は黄ばみ、死の寸前にある。
「蒼穹」から逃走するために、夜を断片にして投げつける。そのイメージが第3詩節から第5詩節にかけて展開された。
ボードレールは「無限」を前にして、「美」に達することができないとわかっていながら、戦いを続ける。
他方、マラルメの姿勢は「逃走」であり、その姿が「美の効果」を生み出す。三つの詩節は、その実例である。
第6−7詩節は、死にゆく太陽の後を受け、「天」の死が宣言される。
– Le Ciel est mort. – Vers toi, j’accours! donne, ô matière,
L’oubli de l’Idéal cruel et du Péché
À ce martyr qui vient partager la litière
Où le bétail heureux des hommes est couché,
ー「天」は死んだ。ー お前の向かい私はかけ寄る! おお、物質よ。与えてくれ、
残酷な「理想」と「罪」の忘却を
この殉教者に。彼は、寝台の藁を分け合うためにやって来くる。
人間どもの幸福な群が横たわる寝台。
「天」と「蒼穹」の同義語であり、「蒼穹」の死が宣告される。そして、対極にある「物質」に対する呼びかけがなされる。
「理想」や「罪」もボードレールを思わせ、無限の彼方にある美を求める動きの中に出現する。物質はそうした理想から遠く離れ、現実生活で人々を自足させる。
彼等のように忘却にとらわれれば、美の殉教者である詩人は、俗世界で幸福を味わうことができるはずだと期待する。だからこそ、望むことがある。
Car j’y veux, puisque enfin ma cervelle, vidée
Comme le pot de fard gisant au pied d’un mur,
N’a plus l’art d’attifer la sanglotante idée,
Lugubrement bâiller vers un trépas obscur…
なぜなら、そこでしたいことがあるから。というのも、最後に、私の脳は空になり、
壁の足元に横たわる白粉の壺のよう、
すすり泣く思考を飾る術を、もはや持たない。
暗い死に向かって、陰鬱にあくびをしたい。
第7詩節で、詩は「すすり泣く思考」と表現される。「私」の脳髄が空になり、詩に向かうことさえなくなる。「すすり泣く思考を飾る術」を持たなくなるのだ。
そうなった時に望むのは、あくびをすること。陰鬱に(lugubrement)と暗い死(un trépas obscur)という二つの言葉は、あくびが死につながることを示している。暗い詩を望んでいるのだ。

ところで、マラルメの詩句の難しさの原因の一つは、構文の破壊にあることはすでに記した。ここでも、その片鱗がうかがわれる。最初の行の« je veux »の内容は、最後の行の« bâiller »で明らかにされる。« je veux bâiller ».
« puisque … la sanglante idée »という長い挿入が、構文を見え難くし、散文的な構文理解を妨げる。
しかし、そうした手法のおかげで、何を望むのかに期待がかかり、回答になる言葉により強い光が当たることになる。理解が容易であれば意味が伝わり、意味が伝われば、言葉そのものには注意が払われない可能性が高い。
構文の破壊による難解さは、言葉そのものを価値付けるための、一つの手段である。
内容の観点から見ると、現実に自足することは、脳髄を空にし、詩あるいは美への想いを持たないことにつながる。そうした人々がすることは欠伸のみ。
多くの人々は、欠伸をしながら死に向かうとしても、幸福な集団(le bétail heureux)を形成する。
しかし、詩人は、欠伸をしたいと願っても、幸福な集団の一員になることはできない。なぜなら、彼は「蒼穹」に取り憑かれているから。
そのことが、第8−9詩節で示される。
En vain! l’Azur triomphe, et je l’entends qui chante
Dans les cloches. Mon âme, il se fait voix pour plus
Nous faire peur avec sa victoire méchante,
Et du métal vivant sort en bleus angelus!
望んでも無駄だ! 「蒼穹」が勝利する。私には聞こえる。それが歌うのが、
数々の鐘楼の中で。我が魂よ、 「蒼穹」は声になり、
私たちをさらに怯えさせる、意地悪な勝利の歌で。
命ある金属から出てくる、青い祈りの歌となり。

詩句の冒頭に置かれた« En vain »は、前の詩節の« J’y veux »を受け、望んだとしても、それは無駄である、それはできない、という意味。
句をまたぐのではなく、詩節をまたいだ「摘置(rejet)」だといえる。
この技法を用いることで、できないということに、強い焦点が当てられる。
どんなに逃げても、「蒼穹」から逃げ切ることはできない。
「蒼穹」は教会の鐘楼で響き、青い祈りの歌となる。私の魂はその声を聞き、「蒼穹」の勝利を思い知らさせる。
ボードレールのように「美」と戦おうが、マラルメのように「美」から逃走しようが、最後に勝つのは「美」。その確認が第8詩節でなされる。
Il roule par la brume, ancien et traverse
Ta native agonie ainsi qu’un glaive sûr;
Où fuir dans la révolte inutile et perverse?
Je suis hanté. L’Azur! l’Azur! l’Azur! l’Azur!
それは霧の中を進む、古いままで。そして、横切る、
お前の生まれながら死の苦しみを、確実に貫き通す剣のように。
無益で倒錯した反抗の中で、どこに逃げるのか?
私は取り憑かれている。「蒼穹」!「蒼穹」!「蒼穹」!「蒼穹」!
「蒼穹」は霧の中を通り過ぎていく。その霧は、私が逃走するときに投げかけた夜の断片だった。しかし、「蒼穹」はそれ以前と変わることなく、かつてのままだ。
それと同じように、詩人の苦悩も生まれながらのもので、剣を避けようとしても確実に刺される。詩人は死の苦しみを味わうよう、運命ずけられているのである。
それでも、私は再び逃れようとする。
その反抗が無益であり、逃げれば逃げるほど苦痛をかき立てる、倒錯的なものであることはわかっている。しかし、逃げようとすることで、ますます強く「蒼穹」に取り憑かれていることが明白になる。。
「蒼穹」を四度反復する最後の叫びは、逃れても、逃れても、逃れられない詩人という存在を際立たせる。
逃亡は「蒼穹」を顕現させる、倒錯的な身振りである。そして、その身振りこそ、マラルメの詩を成り立たたせている。
マラルメは、1864年1月、友人のカザリスに宛ててこの詩の原稿を送りながら、解説も書き送っている。
その中で、抒情的な優美な言葉や美しい詩句を排除し、ポーの詩学に従って、最初の言葉から最後の言葉までを構築し、詩全体の効果を生み出すことはできたと確信していると書いている。
実際、L’Azurで始まり、L’Azurで終わる詩は、「詩の効果 efffet de poésie」を実現している。

その一方で、詩的な側面、美の反映に関しては、カザリスに判断を委ねる。
美は、飾り立てた言葉の彩から生まれないだけではなく、抒情的な内心の吐露からも生まれない。
詩的美を生み出すのは、言葉そのもの。現実を模倣し、再現するものとしての役割以上に、言葉自体が美の対象となる。
« L’Azur »
その言葉は、現実の蒼い空を指し示すのではなく、一遍の詩として展開され、詩は言葉そのものによって成り立つという、マラルメの詩法を体言している。
そして、「美」の一つの反映となっている。
「マラルメ 「蒼穹」 Mallarmé « L’Azur » 初期マラルメの詩法」への4件のフィードバック