マラルメ 牧神の午後 Mallarmé L’après-midi d’un faune 3/6 原初のラ音を求めて

第23行目から、牧神は突然シチリア島にある沼地の岸辺に話しかける。
シチリア島は、長靴の形をしたイタリアの先端に位置し、ギリシア文明との関係が深く、古代文明を彩る神話の世界を連想させる。

Ô bords siciliens d’un calme marécage
Qu’à l’envi des soleils ma vanité saccage,
Tacites sous les fleurs d’étincelles, CONTEZ

おお、静かな沼の、シチリア島の岸辺、
そこを、太陽と競い合い、おれの虚栄心が荒廃させる、
キラキラと輝く花々の下で黙りこんでいる岸辺よ、”次のように語ってくれ”、

(朗読は1分53秒から)

岸辺に太陽が照りつけ、沼地を干上がらせるかもしれない。その太陽と競う(à l’envi des soleils)かのように、牧神の虚栄心(ma vanité)が岸辺を荒廃させる(saccage)。そのため、花々がキラキラと輝いている(d’étincelles)にもかかわれず、岸辺は黙り込んでいる(tacites)。

岸辺が話すとしたら、それは波の立てる音。黙るとは、波がなく、水が全く動かない状態だと考えられる。
そして、その状態を引き起こすのは、牧神の虚栄心。彼は岸辺よりも知識を持ち、彼の知らないことを岸辺が話すことなど認められない。虚栄心が岸辺を荒廃させるとは、要するに、岸辺に言葉を話させないこと、つまり波を立てさせないことを意味する。

続く26行目から32行目では、岸辺が語る(conter)べき内容が指示される。
それは過去にあった事実を再現するのではなく、物語を作り上げる、つまり「フィクション」を語ることだと考えてもいいだろう。


» Que je coupais ici les creux roseaux domptés
» Par le talent ; quand, sur l’or glauque de lointaines
» Verdures dédiant leur vigne à des fontaines,
» Ondoie une blancheur animale au repos :
» Et qu’au prélude lent où naissent les pipeaux,
» Ce vol de cygnes, non ! de naïades se sauve
» Ou plonge…

「私はここで空洞の葦を切った、その葦は調教される、
才能を持つ者によって。遠くに見える緑の茂みの金緑色、
ブドウの房を泉たちに捧げる茂みの金緑色の上で、
白い生き物が休息し、ゆらゆらと揺れ動く時、
そして、草笛が生まれ、ゆっくりとした前奏曲が聞こえ、
白鳥が飛び立ち、いや、水の精たちが飛び立ち、一斉に逃げ去るか、
あるいは、水に潜る時、・・・」

「私(je)」というのは岸辺(bords)を指すが、それを語るよう命じているのは牧神であり、語られる内容は牧神の思いを反映している。
その「私」が、葦笛の由来と、その楽器の最初の演奏について語る。

葦笛の製作は、内部が空洞になった葦(les creux roseaux)を切る(couper)ことから始められる。
では、roseaux を説明する domptés par le talent とは何か?
「才能によってしなやかにされた」葦 (渡辺守章訳)
「才ある枝によって手なずけていた」葦 (原大地訳)
「力量にあった」葦 (柏倉康夫訳)
こうした訳でも解釈が一定せず、意味が明確でないことがわかる。

私としては、次の使節で、笛が演奏されることで生じる特別な効果が描かれることから、le talentは才能を持つ者、dompterは葦を使いこなし演奏することだと考えたい。
すると、26行目から27行目前半にかけての詩句は、「私」が葦を切り(je coupais)、内部をくり抜き(creux)、笛を作った。それを才能ある演者(le talent)が演奏したという意味になる。
そこでは、「私」とは葦が生えていた岸辺であり、才能ある者(le talent)とは牧神を指す。

その演奏は、過去に属するのではなく、「普遍的な現在」のことだと考えられる。
そのことは、動物の白さ(une blancheur animale)が揺れる(ondoie)ことや、水の精たち(naïades)が逃げ去り(se sauve)、水に潜る(plonge)ことが、現在形で書かれていることで明示される。

演奏が始まる直前、彼方に湖(fontaines)が見える。その水面を夕陽が黄金に染め、その周りにはブドウの木々(verdures)が生え、ブドウの実(vigne)が水面に映り、金色(or)が青緑色(glauque)と混ざった色をしている。

その水面の上に、白いもの(une blancheur)が揺らめいている(ondoie)。何か動物のようで(animale)、休息している(au repos)。

そこに、葦笛(les pipeux)が現れ、前奏曲(prélude)が始まる。その音楽に合わせて、白鳥たち(cynes)が舞い上がる(vol)ように思われる。
しかし、よく見るとそれは水の精たち(naïades)であり、ニンフたちは大急ぎで逃げ去り(se sauve)、水に潜る(plonge)。

牧神は、詩句の中で語られる葦笛とそれが奏でる前奏曲、その曲が生み出す映像、そしてそれらを語る詩句の音楽を通して、彼が考える詩とは何か、シチリア島の岸辺に語るように命じたのだった。

その後、何かを付け加えようとしたのだろうが、「・・・」と続くだけであり、物語(フィクション)は中断される。


続いて、牧神は再び独白に戻る。
32行目の詩句(Ou plonge… » / Inerte, tout brûle dans l’heure fauve)のうち、最初の2音節(Ou plonge)は海岸に向けた言葉。そこでいったんカッコが閉じられ、続く10音節は次の行に余白を挿入して続けられることになる。

                             Inerte, tout brûle dans l’heure fauve (32)
Sans marquer par quel art ensemble détala
Trop d’hymen souhaité de qui cherche le la :
Alors m’éveillerais-je à la ferveur première,
Droit et seul, sous un flot antique de lumière,
Lys ! et l’un de vous tous pour l’ingénuité.

                      じっと動かず、全てが燃えている、茶褐色の時間の中で、(32行)
そして、痕跡を残しはしない、どんな技によって、いっせいに逃げ出したのかを、
ラの音を探す者の願う多くの婚礼歌が。
その時、おれは目覚めるだろう、原初の熱気を感じて、
真っ直ぐに、ただ一人、光の古代の波の下で、
百合の花たちよ! お前たち全ての中の一人として、無邪気さを求めて。

岸辺が言葉を語るとしたら、打ち寄せる波によって表現されるだろう。何も動かない(inerte)としたら、牧神の「語ってくれ。」という要求は受け入れられなかったことになる。

その時(l’heure)の色が、fauveで示される。
その形容詞は、bêtes fauvesと動物につくと鹿を意味するので、fauveは鹿のような茶褐色だと考えていい。
すでに記されたように、岸辺の湿地(marécage)は、太陽と争う(à l’envie des soleils)牧神の虚栄心(ma vanité)によって、荒廃させられている。
そして、何も動かず、全て(tout)が燃えている(brûle)。
茶褐色とは、そうした時を色彩で表現しているのだと考えられる。

そして、その時には、どのような技術によるのか(par quel art)痕跡が残されてていない(sans remarquer)、数多くの婚礼の歌(hymen)がいっせいに(ensemble)逃げだした(détala)のだという。
逃げ出すという動詞(détaler)が単純過去で書かれているため、その出来事が今とはつながらない歴史や物語の中の過去に起こったということがわかる。

婚礼の歌(hymen)を歌うことを願った(souhaité)のは、ラの音(la)を探す人間(qui cherche le la)。
ラの音は、古代ギリシャの弦楽器でAと呼ばれた一番低い弦の音。その音が現在でもチューニングの際の基準音として使われている。
従って、ラの音を探す人間とは、楽隊を導く役割を果たす存在と考えてもいいだろう。言い換えれば、音楽の起源にいる人間。ここでは、葦笛を手にする牧神に他ならない。

そして、今、全てが燃える茶褐色の時間、音楽は聞こえず、何も動かない。

他方で、その苦い認識を伝える詩句には流音の r とlが数多く使われ、流れるような印象を与える。
inerte – brûle – l’heure – marquer – par – quel – art – détala – trop – cherche – le – la

また、détala – laが韻を踏み、逃げさった音楽を牧神が見出そうとしていることが、[ a ]の音の重なりによって示されている。Aはラの音だ。

それらは牧神の夢想なのだろうか?
おれは目覚めるだろう(m’éveillerais-je)という動詞は条件法現在であり、光の古代の波(un flot antique de lumière)が牧神の目覚める条件となっている。
彼がシチリア島の岸辺(bords siciliens)に言及しているのも、その島が古代ギリシア・ローマの文明を思わせるからに他ならない。

そして、もしもという仮定の話として、茶褐色の時間が古代(antique)へと移行するのであれば、「私」がそこで目覚める時、原初の熱気(la ferveur première)を取り戻し、ただ一人(seul)、真っ直ぐに(droit)立つということになる。

その姿は百合を連想させる。
百合たち(lys)に呼びかけ、自らをお前たちの一つ(l’un de vous)だと言うのも、その連想から来ている。

ここで、垂直に立つ花の姿が男性的なシンボルだとみなす読者もいたりするのだが、無邪気さ( l’ingénuité)と関係するのであるから、性的な連想とは逆の方向を指していると考える方が自然だろう。

牧神は夢の中で二人のニンフと交わること=結婚(hymen)を望み、その際には動物的な欲望にとらわれていたかもしれない。
その牧神が、もしも古代の光を浴びて目覚めるとしたら(m’éveillerais-je)と条件法で思い描くのは、現実にはない純潔、純粋、無邪気さに違いない。
百合たちはその象徴であり、牧神(je)もその中の一つになる。


laの音はpremièreであり、その音を探す者の婚礼歌は、原初的には、l’ingénuitéを求めてのこと。そして、もしもそれが可能になるとしたら、l’heure fauveではなく、un flot antique de lumièreの中。
32-37行の詩句では、牧神のそうした思いが語られたのだった。

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