芥川龍之介 「鼻」 心理学と写生文 

芥川龍之介が大正5(1916)年に発表した「鼻」を読むと、現在であれば、コンプレックスの話だと誰もが思うだろう。

鼻の長いことがコンプレックスの原因になった男が主人公。彼の行動の心理が、綿密に理論立てて分析され、さらに、彼を笑いものにする人々の行動と心理も付け加えられている。

本文はあおぞら文庫で読むことができる。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html

朗読もyoutubeにアップされている。(約23分)

「鼻」について、芥川はあるメモの中で、「僕は鼻で身体的欠陥のためにたえずvanityの悩まされている苦しさを書かうとした。(中略)僕はあの中に書きたくもない僕の弱点を書いている」と告白している。

その一方で、夏目漱石がこの短編小説を賞賛した手紙(大正5(1916)年2月19日)の中で指摘したのは、素材の新しさ、文章の的確さ、そして、「自然そのままの可笑味(おかしみ)」についてだった。

龍之介と漱石によって提示された異なる視点を頭に置きながら、「鼻」について考えていこう。

話は次のように始まる。

 禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。いわば細長い腸詰のような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。
 五十歳を越えた内供は、沙弥(しゃみ=修行時代)の昔から、内道場供奉(ないどうじょうぐぶ)の職に陞(のぼ)った今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た。勿論(もちろん)表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。 (「鼻」)

物語が古い時代を背景にしていることは、禅智内供という主人公の名前や「沙弥」「内道場供奉」といった言葉からすぐにわかる。実際、『今昔物語』の説話が素材として使われた。

細長い腸詰のような鼻が顔の真ん中にぶらりと垂れ下がっている様子や、つんとすました禅智内供の姿を想像すると、思わず笑ってしまう。この部分は借用した素材に基づいている。

苦に病んでいるのに気にしない振りをしているという説明は、内供の心の中を明かすものであり、簡潔な心理分析。

その二つの要素からわかるのは、『今昔物語』の素材がデッサンとなり、芥川龍之介がそこに生き生きとした色彩を施し、古い説話を新しい時代の短編小説にしたということ。

その新しさをとりわけ感じさせるのが心理分析であり、現代の読者が「鼻」を読む際にも、心理分析に関心が集中する傾向にある。

(1)心理分析

「鼻」を読んで最初に興味を引かれるのは、主人公・禅智内供(ぜんち ないぐ)の心理分析と、彼の鼻が短くなった時の周りの人々の反応だろ。

芥川は、内供に関しては「自尊心の毀損(きそん)」、他者に関しては「傍観者の利己主義」という専門用語的な言葉を使い、心理学的な分析をする。

そのことは、大正5(1916)年に発表された「鼻」が、『今昔物語』という古い時代の説話を素材にしながら、近代の短編小説であることを示す明確な印だった。

「心理学」という学問はヨーロッパでも19世紀に成立し新しい学問。
それ以前に心の問題を扱うのは「神学」か「哲学」などだった。実証主義の時代になり、物質主義的、科学主義的な思想が主流を占めるにつれ、人間の心という目に見えない現象も実験化学の手法で検証しようとする試みが行われ、実験心理学へと繋がった。

文学の分野でも、19世紀後半になり、エミール・ゾラが実験小説論を発表し、一見すると物質主義的な方法を文学に適用するように主張したかに見えるが、実際には、ゾラ自身やモーパッサンの小説に見られるように、人間心理の解明に焦点が当てられた。

日本でも明治時代になり、心理学が学問の場に導入された。

明治19(1886)年に東京帝国大学に「心理学」の授業が設置され、明治26(1893)年には 「心理学、倫理学、論理学」の講座が設けられた。
明治39(1906)年になると、京都帝国大学に単独の心理学講座が設置される。

文学においても心理学を重視する動きがあり、夏目漱石はその先導者だった。

彼は『文学論』(明治40(1907)年)の序で、「余の文学論は十年計画にて企てられたる大事業の上、おもに心理学、社会学の方面より、根本的に文学の活動力を論ずる」と宣言した。
そして、本文の冒頭において、「文学的内容の形式」を「F+f」という定式で示した。
Fは「認識」的要素、f はFがもたらす「情緒」的要素。その定式により、認識と心理の結合を文学理論の根底に置いたことになる。

そうしたことは、夏目漱石がいかに人間の心理を研究する学問に興味を持っていたかを示している。そして、芥川龍之介は漱石の弟子の一人だった。

。。。。。

「鼻」における心理分析は、非常に理知的で、論理的に展開される。

(1)鼻のことを気に病んでいながら、「表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている」。その理由は何か。

a. 僧侶の身でありながら、鼻(外見)のことを心配するのは相応しい振る舞いではない。

b. 気にしていることを人に知られなくない。

(2)鼻をもてあました理由は何か。

a. 物理的な不都合がある。実際、鼻を誰かに持ち挙げさせないと、食事ができない。

b. 自尊心が傷つく。

(3)傷ついた自尊心を回復するためにしたことは何か。

a. 消極的方法
i. 鼻を短く見せるように工夫する。
ii. 自分と同じ鼻を持つ他の人を探す。ー 安心したい。
iii. 書物の中で、同じ鼻を持つ人物を探す。 ー 心細くなくなる。

b. 積極的方法
i. 鼻を物理的に短くするため、烏瓜(からすうり)や鼠の尿を飲む。
Ii. 鼻を熱湯で茹で、弟子に足で踏ませる。
その作業を実行する前に弟子との心理戦があり、自分が頼むのではなく、弟子から申し出るように仕向ける。

(4)鼻が短くなった後の反応

a. 内供自身の気持ち ー 「鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。」

b. 回りの人々の態度 ー 以前よりもひどく「哂(わら)う」。

c. 他者の反応に対する分析。
i. 自分の顔が変わったことが原因。(内供の考え)
ii. なぜかわからない。(内供の考え)
iii. 傍観者の利己主義 ー 他人の不幸には同情する。しかし相手がその不幸を切り抜けると、「もう一度その人を、同じ不幸に陥おとしいれて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。」(語り手の解説)

(5)鼻が元に戻った後の反応

a. 内供自身の気持ち ー 「はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。」

( b. 回りの人の態度に関する記述なし。)

このように箇条書きにすると、芥川の分析がいかに論理的であるかがはっきりとわかる。

。。。。。

それぞれの読者は、芥川の心理分析に対して、自分なりの感想や考えを抱くことになる。

A. 最後に鼻が元に戻った場面

芥川は、罠を仕掛けるかのように、内供の回りの人々がどのような反応をしたのか全く記していない。

鼻が戻ったことで晴れ晴れした気持ちになる結末に対して、これでは解決にならないと考える人々もいる。
その場合には、内供はこれからまた長くなった鼻を笑われるはずであり解決にならないとか、鏡は自己の欲望を映し出す倒錯した場所であり負の現実を隠蔽する、などといった解釈がなされたりする。
時には、芥川の心理分析は甘いとか、誤っているとか・・・。

反対に、前に鼻が短くても笑いや敵意の対象になる体験をした内供は、最終的に長い鼻を受け入れ、それを苦にする状態から解放されたと考える読者もいる。

現在流通している劣等感コンプレックスを解消するための方法として、現実がたとえ同じであったとしても、劣等感自体を否定しないこととか、劣等感のある自分を受け入れるといった提案がなされることがある。
その考えに従えば、内供の晴れ晴れとした気持ちに共感できるだろう。

どちらの解釈に近い感想を持つかは読者次第であり、芥川龍之介の誘いに乗って色々と考えることは、読者が自分の心を知ることにつながる。

B. 鼻が短くなった時の人々の反応

どうしても回りの人の目を気にしてしまう傾向が強い日本人的気質にあっては、「傍観者の利己主義」に興味を引かれることも多い。

相手にどのように思われるかという場合の相手とは、現実の他者でありながら、自分の中に内面化した他者、つまり、自分の抱く他者イメージでもある。
その他者は自分の中にいるために、逃げることができない。

そのように考えると、傍観者の利己主義について考えることが、「鼻」の中心的な主題から外れるわけではない。
とりわけ若い読者にとって、仲間と自分の類似と違い、上下関係による同情(共感)と敵意といった複雑な人間心理を考察することは、差し迫った問題になるかもしれない。

。。。。。

以上のように、「鼻」における綿密な心理分析は、大正時代に新しい試みだっただけではなく、現代の私たちにとっても大変に興味深い。

ただし、「鼻」は心理分析だけで終わるわけではない。芥川がなぜ素材を『今昔物語』から借用したのかを考えることは、この作品のもう一つの側面を理解することにつながる。

(2)『今昔物語』の素材

「鼻」の新しさは、心理分析だけではなく、素材とも関係していた。

『今昔物語』は中世の間ほとんど忘れられていたが、江戸時代には写本が刊行され、比較的知られるようになっていた。従って、決して新しい素材とは言えない。
もし万が一、漱石が『今昔物語』を読んでいなかったとしても、古い時代の説話が素材なのは明白で、新しいなどとは言わないはずである。

新しいというのは、明治から大正にかけて、フランスを中心にした自然主義の小説が日本でも知られ、その影響の下で、「私小説」が数多く書かれるようになったことと関係している。

「私小説」では、作家の身辺に起こる様々な出来事が細々と語られ、作家と主人公はほぼ同じ人物といった描き方がされた。
漱石はそれを旧来の書き方とし、逆説的に、古い説話に基づく「鼻」に対して、「材料が非常に新らしいのが眼につきます。」と書いたのだろう。
それはなぜか?

漱石は「写生文」というエセー風の小文の中で、彼の時代に主流となった私小説的な文を「普通の文章」と呼び、「写生文」と対峙させた。

その二種類の文の本質的な違いは「作者の心的状態」であるとした上で、以下のような説明がなされる。

 写生文家の人事に対する態度は(中略)、大人が小供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。(中略)
 小供はよく泣くものである。小供の泣くたびに泣く親は気違である。親と小供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は、小供が泣くたびに親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。(中略)
 自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのと、われは泣かずして、泣く人を覗(のぞ)いているのとは、記叙の題目そのものは同じでも、その精神は大変違う。写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。

(夏目漱石「写生文」https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/796_43612.html 読みやすくするために句読点を付加した。)

「私小説」の中の「私」は、作家その人であると考えられ、そこで語られる内容は、フィクションであるよりも、実話と見なされる仕組みで成立している。作家は、子供が泣くと一緒に泣く親。

「写生文」の場合には、作家と作中人物の間には距離があり、作家の視線は客観的であるといえる。漱石にとっての新しさとは、そうした「作者の心的状態」を指すのだと考えられる。

その思考に基づいて考えると、『今昔物語』の説話を土台にした小説であれば、必然的に作家と主人公の間に距離があり、決して「私小説」にはならない。
従って、「材料が非常に新らしい」という言葉は、「小供の泣くたびに泣く親」とは違う心的状態で書かれていることを指すことになる。

。。。。。

師である夏目漱石の影響下にある芥川龍之介は、「羅生門」、「地獄変」、「藪の中」など、『今昔物語』から素材を取ることがしばしばあった。
「鼻」もそうした作品の一つであり、本朝世俗部に収められた「池尾の禅珍内供(ぜんちないぐ)の鼻の物語」が下敷きになっている。
ちなみに、ほぼ同じ話が、『宇治拾遺物語』では「鼻⻑き僧の事」という題名で収録されている。

「池尾の禅珍内供の鼻の物語」は、大きな鼻を持った僧侶の話。
禅珍内供は大きな鼻が痒くてしかたがないので、時々熱い湯の中に浸し、茹で上がった鼻を弟子に足で踏ませて小さくする。しかし、しばらくするとまたすぐに大きくなる。

そんな風なので、お粥を食べる時は、弟子に命じ、鼻の下に板を添えて食べやすいようにする。
ある日、添えるのが上手な弟子の代わりに、一人の童が板を添えることになる。ところが、童はクシャミをして添え木を外してしまい、大きな鼻がお椀の中に落ち、お粥が二人の顔に飛び散る。
禅珍が叱りつけると、童は柱の後ろに隠れ、世の中にこんな大きな鼻を持つ人間なんて他にいないのに無理なことを言うと悪態をつく。それを聞いた弟子達は大笑いをする。

要するに、偉いお坊さんが小さな童のせいでみんなの笑いものになるという滑稽譚だ。
そこから、芥川は、食事の時に長い鼻を板を添えさせるとか、鼻を小さくするために茹でて弟子に足で踏ませるといったエピソードを借用した。
そして、心理分析を加えることで、大正時代の人間の心に焦点を当てた短編小説として生まれ変わらせたのだった。

では、なぜ『今昔物語』だったのか?

その理由は、芥川龍之介が1927(昭和2)年に発表した「今昔物語鑑賞」から推測することができる。

芥川は、説話集で語られる仏法(ぶっぽう)以上に、当時の「人々の心」に興味を感じるのだという。そうした心を強く感じさせるのは、「美しい生まなましさ」をみなぎらせた描写。

さらに、『今昔物語』の芸術的な生命は、「brutality(野生)の美しさ」にあると明言し、優美とか華奢といった美しさと対比させる。

 かういふ作者の写生的筆致は、当時の人々の精神的争鬪もやはり鮮(あざや)かに描き出してゐる。彼等もやはり僕等のやうに婆婆苦(しゃばく)のために呻吟(しんぎん)した。
 『源氏物語』は最も優美に彼等の苦しみを写している。(中略)『今昔物語』は最も野蛮に、— あるいはほとんど殘酷に、彼等の苦しみを写している。僕等は光源氏の一生にも悲しみを生じずにはいられないであらう。(中略) が、『今昔物語』の中の話(中略)には、何かもつと切迫した息苦しさに迫られるばかりである。
(「今昔物語鑑賞」http://yab.o.oo7.jp/kon.html 読みやすくするために多少字句を変更した。以下同。)

ここで注目したいのは、この世の苦しみや悲しみ、切迫した息苦しさは、言葉で説明されるのではなく、「写されて」いること。「心」は分析されるのではなく、「写生的筆致」によって描き出されていた。

『今昔物語』の作者は、事實を写すのに少しも手加減を加えていない。これは僕等人間の心理を写すのにも同じことである。もっとも『今昔物語』の中の人物は、あらゆる伝説の中の人物のやうに複雜な心理の持ち主ではない。彼等の心理は陰影に乏しい原色ばかり並べている。しかし今日の僕等の心理にもいかに彼等の心理の中に響き合ふ色を持っているであろう。(「今昔物語鑑賞」)

「複雜な心理の持ち主ではない」とは、心の動きが言葉によって細かく説明されていないことを意味する。
実際、「池尾の禅珍内供の鼻の物語」の中で、禅珍の心の内には全く触れられない。
彼の鼻に関しても、事実が語られるだけにすぎない。例えば、大きな鼻とそれを小さくしようとする場面。

 さてこの禅珍は非常に変わった顔立ちをしていた。鼻の長さが実に五六寸(15cm~18cm)もあり、鼻先が下あごよりも下がって見えた。その色は赤紫色で、表面は大きな蜜柑(みかん)の皮のようにつぶ立ち膨れ上がっていた。禅珍はいつもこの鼻が痒(かゆ)くて仕方なかったが、どうにも我慢出来なくなると次のような処置をした。
 まずは湯を熱く沸かし、穴を開けた盆に鼻だけを差し込み、そこに湯を入れ十分に浸す。よく茹(ゆ)で上がり紫色になったところで鼻を引き出し、横になって鼻の下に物をあてがい、弟子に踏ませる。すると、黒くつぶ立った毛穴の一つ一つから、白い煙のようなものが出てくる。これを毛抜きで引き抜くと、毛虫のような四分(1.2cm)ばかりの脂の塊がどの穴からも出てくる。抜いた後は毛穴の一つ一つがぽっかり穴が開いたようになるが、この状態で再び茹でると、小さく縮んで普通の人と同じくらいの大きさになるのであった。
(「池尾の禅珍内供の鼻の物語」現代語訳 https://yamanekoya.jp/konzyaku/konzyaku_28_20_trans.html

ここには、具体的な様子を描く描写があるだけで、禅珍が鼻にコンプレックスを抱く様子などどこにもない。むしろ、生々しい鼻の描写と、鼻を茹でて弟子に踏ませて小さくする滑稽な様子が、読者の笑いを誘う。
平安時代末期の人々はそのようにこの説話を楽しんだに違いない。

夏目漱石が「鼻」について語った「自然そのままの可笑味(おかしみ)」も、芥川龍之介が平安時代の説話の精神を引き継いだところから来ていると考えていいだろう。

ユーモア感覚は、「写生文」の中で、次のように説明される。

 写生文家の描く所は多く深刻なものでない。否いかに深刻な事を書いてもこの態度で押して行くから、ちょっと見ると底まで行かぬような心持ちがするのである。しかのみならず、この態度で世間人情の交渉を視るから、たいていの場合には滑稽(こっけい)の分子を含んだ表現となって文章の上にあらわれて来る。(中略)
 人によると写生文家のかいたものを見て世を馬鹿にしていると云う。茶化していると云う。もし両親の小供に対する態度が小供を馬鹿にしている、茶化していると云い得(え)べくんば、写生文家もまたこの非難を免(まぬか)れぬかも知れぬ。多少の道化(どうけ)たるうちに一点の温情を認め得ぬものは、親の心を知らぬもので、また写生文家を解し得ぬものであろう。(夏目漱石「写生文」)

写生文では、作者は主人公から距離があり、一緒に泣くのではなく、泣いている姿を描写する。そのために作者の態度には余裕や遊びが生じ、「滑稽の分子」を含んだ表現になる。
そうした写生文は一見冷たく感じられるかもしれないが、しかし、「道化」の中には「温情」が含まれる。

この写生文論から見ると、漱石が「鼻」に「可笑味」を感じたのはごく自然なことに違いない。というのも、論理的な心理分析が展開されるだけではなく、「池尾の禅珍内供の鼻の物語」から取った素材で描かれたデッサンにも芥川龍之介の手が加えられ、より詳細な絵柄が描き出されているからである。

(3)自然な笑みを生み出す写生文

芥川龍之介の施したアレンジのおかげで、「鼻」のそれぞれの場面は精彩に富んでいる。登場人物は、実際に命を持っているかのように話し、感じ、行動する。

「『今昔物語』の作者は、事實を写すのに少しも手加減を加えていない。」と芥川は言うが、彼の小説の方がさらにリアルで、「生まなましさ」を感じさせる。

そうしたリアルさは、「羅生門」や「藪の中」など『今昔物語』を素材とした他の短編小説にも共通するものだが、「鼻」には他にない要素がある。
それが、『我が輩は猫である』の作者である夏目漱石が賞賛した「自然そのままの可笑味(おかしみ)」。芥川は、古い説話に含まれていたユーモラスな感じを、よりはっきりとさせることに成功した。

実際、「鼻」を読んでいると、クスッと笑ってしまう記述が至るところにある。その中で最も力を入れて描かれたのは、内供が傷ついた自尊心を回復するために鼻を短くしようと積極的な方法を用いた部分(3-b-ii)である。

「池尾の禅珍内供の鼻の物語」では、鼻を短くする場面に数行が費やされるだけだが、芥川龍之介の筆はその場面を何倍にも膨らませる。その前半部分を読んでみよう。
(禅珍内供は、『今昔物語』では禅珍と呼ばれていたが、芥川の小説では内供と呼ばれる。)

 その法と云うのは、ただ、湯で鼻を茹(ゆ)でて、その鼻を人に踏ませると云う、極めて簡単なものであった。
 湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提(ひさげ=小さな鍋)に入れて、湯屋から汲んで来た。しかしじかにこの提へ鼻を入れるとなると、湯気に吹かれて顔を火傷やけどする惧(おそれ)がある。そこで折敷(おしき=四角いお盆)へ穴をあけて、それを提の蓋(ふた)にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸(ひた)しても、少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧が云った。
 — もう茹(ゆ)だった時分でござろう。
 内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸むされて、蚤(のみ)の食ったようにむず痒がゆい。
 弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下(うえした)に動くのを眼の前に見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿はげ頭を見下しながら、こんな事を云った。
 — 痛うはござらぬかな。医師は責(せ)めて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな。
 内供は首を振って、痛くないと云う意味を示そうとした。所が鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上眼(うわめ)を使って、弟子の僧の足に皹(あかぎれ)のきれているのを眺めながら、腹を立てたような声で、
— 痛うはないて。
 と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである。

穴を開けた盆に鼻を差し込み、蒸気で茹でられた鼻を弟子が足で踏む姿は借用されたものだとしても、芥川の文ではより多くの細部が付け加えられ、元の説話よりずっと生々しい。

その上で、鼻を踏まれている時、弟子に首を振って答えようとするが鼻を踏まれているために首が動かないとか、弟子の足のアカギレが目に入るとか、思わず笑ってしまう場面が描かれる。
「 痛うはござらぬかな。」という弟子の言葉も、反復されることで滑稽さを増す。

こうした作業がさらに続けられ、最後は、長い鼻が短くなる。

 さて二度目に茹(ゆ)でた鼻を出して見ると、成程、いつになく短くなっている。これではあたりまえの鍵鼻(かぎばな)と大した変りはない。内供はその短くなった鼻を撫(な)でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、極(きまり)が悪るそうにおずおず覗(のぞ)いて見た。
 鼻は — あの顋(あご)の下まで下っていた鼻は、ほとんど嘘のように萎縮して、今は僅(わずか)に上唇の上で意気地なく残喘(ざんぜん=短い余命)を保っている。所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の痕(あと)であろう。こうなれば、もう誰も哂(わら)うものはないにちがいない。— 鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。
 しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長くなりはしないかと云う不安があった。そこで内供は誦経(ずぎょう)する時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわって見た。が、鼻は行儀(ぎょうぎ)よく唇の上に納まっているだけで、格別それより下へぶら下って来る景色もない。それから一晩寝てあくる日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短い。内供はそこで、幾年にもなく、法華経ほけきょう書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。

短くなった鼻をそっと撫でる。鏡の中の自分を見て、眼をしばたたかせる。再び長くなるのが心配でつい鼻を触ってしまう。そうした内供の姿は、いかにもありそうなだけに可笑しいし、親近感を抱かせる。

ここで、コンプレックスから解き放たれたかに見える内供に共感を抱く読者であれば、続く場面で、彼が他の人々からこれまで以上に笑われることに対して、義憤を覚えるかもしれない。悪いのは彼ではなく、嘲笑する周りの人々だと。
芥川も、同情を感じたのか、「愛すべき内供」と親しみを込めた呼び方をし、菩薩の像を前にふざぎ込む内供の姿を描いている。
その姿に、「道化たるうちに一点の温情」を感じる読者も多いだろう。

。。。。。

物語の結末で、内供の鼻が元の長さに戻る場面は、鼻が短くなった前の場面と対応するように描かれている。

内供は慌(あわ)てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜ゆうべの短い鼻ではない。上唇の上から顋(あご)の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂(わら)うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁(ささ)やいた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

ここで、「もう誰も哂うものはないにちがいない」という独り言が、鼻が短くなった直後の内供の心持ちを思い出させるかのようにして、反復される。

しかし、その一方で、周りの人々の反応には全く触れられない。
そのために、読者は思わず、また同じことが起こるのではないかと心配になったり、あるいは、これでは何も解決したことにならないと思ったりもする。

ただし、2つの場面には明らかな対照がある。
鼻が短くなった時 —「鼻は(中略)格別それより下へぶら下って来る景色もない。」
鼻が元の長さに戻った時 — 「長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。」
二つの場面で、「鼻がぶら下がる」という滑稽なイメージが浮かび上がるのだが、一方ではぶらつかない、他方ではぶらつくという対比がなされていることがわかる。

この対照に基づき、内供の内心のつぶやきに同意し、安心感を覚える読者がいる一方で、鼻が長いという現実は変わらないのだから、最初に状態に戻っただけで、状況は変わらないと考える読者もいる。
ただし、どんな読者でも、長い鼻を秋の風にぶらつかせている内供の姿を想像すれば、クスッと笑ってしまうだろう。
その笑いは、決して鼻を揶揄する「哂(わら)い」ではなく、内供に共感し、長い鼻を受け入れた彼の穏やかな安心感を共有する印としての笑いに違いない。

そうした内供の生き生きとした姿は、彼の心の内をしっかりと伝えている。その意味で、描写と心理がぴったりと重ね合わされており、芥川龍之介が「鼻」を通して試みた心理学と写生文の融合を見事に浮かび上がらせている。


芥川龍之介は、『今昔物語』について、「王朝時代のHuman Comedy(人間喜劇)」だと言った。
その言葉に従えば、平安末期の説話集から素材を借用した芥川の短編小説群は、「大正時代の人間喜劇」だと言える。

その作品群の中で、「鼻」からは、禅智内供の滑稽な姿を通して、彼の内心の苦しみが生々しく立ち上ってくる。
そして、内供の悩みは、現代の心理学用語を使えば、劣等感に基づくコンプレックスともいえ、今の私たちの問題と重なる部分がある。

読者一人一人が、内供や周りの人々の姿を通して人間の心について様々な考えを巡らせることで、「鼻」は「令和時代の人間喜劇」の一編になると言えるだろう。

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