
1155年に下鴨神社の神官の次男として生まれた鴨長明は、成長するとともに琵琶の名手として知られ、和歌でも『千載和歌集』や『新古今和歌集』に句が採用されるほどになる。
しかし、1204年に河合 (ただす) 社の神官の職を得る希望が叶わず、出家を決意し、都を離れて東山に遁世。
1208年、54歳の頃になると、山科の日野山にある庵に居を移し、1212年に『方丈記』を執筆した。
『方丈記』の前半では、京の都での大火事や地震などの大災害の様子が目の前に甦るかのように語られ、この世の無常が実感される。
後半になると、山奥の方丈(約3m四方)ほどしかない小さな庵での暮らしが綴られ、富や地位を求めず、物や人に執着しない心持ちこそが、この世で平穏に暮らす術であることが語られていく。
ここで注目したことは、後半の隠遁生活において、物質的には方丈に象徴される鴨長明のミニマリストな生活が、実は、非常な豊かさに裏打ちされていることである。
現代人には見えにくいその秘密を見ていくことで、日本の伝統文化が美的生活に基づいていたことがわかってくる。
まずは日野山の庵の外と内がどのようなものだったのか見ていこう。
ここに六十(むそじ)の露消えがたに及びて、さらに末葉(すえは)の宿(やど)りを結べることあり。いはば旅人の一夜(ひとよ)の宿をつくり、老いたる蚕(かいこ)の繭(まゆ)をいとなむがごとし。
これを中ごろの住み処(すみか)に並ぶれば、また百分(ひゃくぶ)が一にだも及ばず。とかくいふ程に、齢(よはひ)は年々に高く、住み処はをりをりに狭(せば)し。
その家のありさま世の常にも似ず、広さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所をおもひ定めざるがゆえに、地をしめて造らず。土居(=土台)をくみ、うちおほひ(屋根)をふきて、継ぎ目ごとに掛け金(かけがね)をかけたり。
もし心にかなはぬことあらば、やすく外へ移(うつ)さむがためなり。そのあらため造るとき、いくばくのわづらひかある。積むところわづかに二両なり。車の力を報(むく)ふほかには、更に他の用途いらず。
いま日野山の奧にあとをかくして後、
東に三尺あまりの庇をさして、芝折りくぶるよすがとす。
南、竹のすのこを敷き、
その西に閼伽(あか)棚を作り、
北に寄せて障子を隔てて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢(ふけん)をかき、前に法華経(ほけきょう)を置けり。
東のきはに蕨(わらび)のほどろを敷きて、夜の床とす。
西南(ひつじさる)に竹の吊棚(つりだな)を構へて、黒き皮籠(かわご)三合を置けり。すなはち和歌、管弦、往生要集ごときの抄物(しょうもつ)を入れたり。かたはらに琴、琵琶、おのおの一張(ちょう)を立つ。いはゆる折琴(おりごと)、継琵琶(つぎびわ)これなり。
仮の庵の有様(ありよう)かくのごとし。

人生の最後の時期を「末葉(すえは)」と表現し、自分はその葉の上にいる「老いたる蚕」であり、小さな庵は「繭」のようなものにすぎないとする。
長明が生まれた家と比較して、人生半ばの家は十分の一程度の大きさしかなかった。人生の最後の家は、生涯半ばの家の百分の一、つまり、生家から比べたら千分の一しかないことになる。
しかも、それは「旅人の一夜の宿」のようなものであり、いつでも別の所に移り住む心の準備は出来ているのだと言う。
人生のはかなさ、自分という存在の小ささに対するこうした認識は、『方丈記』の冒頭に置かれた、「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくの如し。」という言葉に対応する。
どんなに物質的に最小限の暮らしにしたところで、結局のところ無常の世であることに変わりがないという認識が、鴨長明の意識から離れることはない。
その一方で、関心のあることに関しての記述は非常に具体的で、実に丹念に行われる。
方丈の庵に関しても、東、南、西、北がぐるっと見渡され、私たち読者も長明に従い、四方に視線を投げかけているかのような感じさえする。
庵の外を見ると、東には三尺あまり(約90センチくらい)の庇があり、その下は、柴を折って燃やすようようになっている。たぶん炊事のためだろう。
南には、「すのこ(竹・細板などをすきまをあけて並べた床)」が置かれ、西には「閼伽(あか)棚(仏に供える水や花を置く棚)」がある。
障子(しょうじ)から庵の中を見ると、北には、阿弥陀仏や譜賢菩薩の絵があり、その前に法華経が置かれている。
東の端にあるのは、ワラビが成長して伸びたものを敷いた寝床。
西南には、竹で作った棚の上に黒い皮の籠が3つ置かれ、その中に、和歌や管弦に関する書物や『往生要集』を抜き書きしたもの(抄物)を入れてある。
そして、その近くには、分解でき持ち運びしやすい琴と琵琶(折琴、継琵琶)が置かれている。
日本的な感受性は、物事を全体的に捉えるよりも、具体的な細部に注目する傾向にある。鴨長明もそうした気質の持ち主であることが、方丈の庵の描写にもよく現れている。
それと同時に、注意力が多くの場合かなり主観的で、自分の見たい物にしか関心が向かない傾向もある。
では、長明の関心事は何か?
彼の視線が向く先に、日常生活に必要な衣食住に関するものはほとんどない。見えるものの中心は、仏教に関するものと和歌・管弦に限られている。
長明よりも少し前に生まれた西行法師(1118-1190)にしてもそうだが、彼らに生活の苦労はなかった。
「この時代の有名な歌人は多く世捨て人であったか、世捨て人になったかした。勿論、京都宮廷をとりまく貴紳の子弟であるから、官位の昇進を他所(よそ)に見て、いわゆる世を捨てたところで、荘園からあがる年貢は何のかわりもなく生活を支えてくれる。(中略) だから出家はただちに生活水準の低下というのではなくて、生きた政治面からの落伍ということであった。」(風巻景次郎『中世の文学伝統』)
方丈の庵の描写は、当時の隠者の生活がどのようなものだったのかをはっきりと示している。それは、生活の心配をすることなく、念仏や和歌や琵琶などに専念するものだった。
鴨長明は、庵での生活を最初は仮の宿と見なすのだが、その生活が5年に及ぶと愛着が生まれてくる。それは決して時間的な長さが理由ではなく、和歌や琵琶に彩られた美的生活に由来すると考えた方が的を射ている。
続く一節がそのことを教えてくれるのだが、現代の私たちにはすぐに理解することができなくなってしまっている。
その理由を考えながら、次の一節を読んで見よう。
その所のさまを言はば、南に懸樋(かけひ)あり。岩を立てて水をためたり。林の木近ければ、爪木(つまき)を拾ふに乏(とぼ)しからず。
名を外山(とやま)といふ。まさきのかづら、跡埋めり。
谷しげけれど、西は晴れたり。觀念のたより、なきにしもあらず。
春は、藤なみを見る。紫雲のごとくして西の方に匂ふ。
夏は郭公(ほととぎす)を聞く、語(かた)らふごとに死出の山路をちぎる。
秋は日ぐらしの声耳に満てり。空蝉(うつせみ)の世をかなしむかと聞(きこ)ゆ。
冬は雪をあはれむ。積もり消ゆるさま、罪障(ざいしょう)にたとへつべし。
仮の庵の南には、懸樋(=水を通すためにかけた樋)があり、その下に岩を積み立てて水をためている。近くの林には爪木(=小枝)がたくさんある。そのようにして、いちおう、水と薪という生活に関する品に言及される。
その後、「外山(とやま)」という庵のある場所の地名が明らかにされ、そこで長明が、季節の変化に従い姿を変える美しい自然の光景を堪能している様子が描かれる。

まさきのかづら(現在はテイカカズラと呼ばれる)が咲き、春は藤が目に入り、夏はほととぎす声、秋は日ぐらしの声を聞き、冬は積もっては消える雪を見る。
それぞれの季節に美を感じる日本的な感性の表現。この一節をそのように読むことは、現代の私たちにとっては自然なことだ。
しかし、鴨長明は、目の前に見える花や雪、耳が捉える鳥の鳴き声を単に観賞しているわけではない。そうした自然も「よどみに浮ぶうたかた」であり、無常なことはよく心得ている。そして、彼が「うたかた」に心を楽しませることはない。
もし彼が山川草木に美を感じ取るとしたら、それらが「絶えずして」あるからに違いない。
では、どのようにして「はかなさ」が「美」に変わるのか?
その理由は、鴨長明が、というよりも、日本の伝統的な文化の中では、自然の景物は和歌や物語の裏打ちがあり、例えば桜を見れば、「願わくは 花の下にて 春死なん その如月(きさらぎ=二月)の 望月(もちづき=満月)の頃」という西行の句が思い浮かぶといった連想が自然に湧いたのだった。
こう言ってよければ、和歌を通して桜を見たのであり、桜は、目の前の花でありながら、和歌を通して散ることのない桜になる。
そして、そこに美が生成した。
この『方丈記』の一節でも、「外山」という地名の後に「まさきのかづら」という花の名前が出てくるところから始まり、全ての記述には、目に見える現実の景物の後ろに、和歌や仏教の言葉と、言葉が表現する心情が秘められている。
後に長明が口にする「深く思ひ、深く知れらむ人」であれば、1つの言葉から数多くの言葉を思い浮かべたことだろう。
ここでは、私のような深くは知らない人間でもわかる範囲で、景物に対応する和歌や漢詩の例を挙げてみよう。
(1) 名を外山(とやま)といふ。まさきのかづら、跡埋めり(人の通った跡を埋めて隠している)
『古今和歌集』の詠み人知らずの句
み山には あられ降るらし 外山(とやま)なる まさきのかづら 色づきにけり(『古今和歌集』)
遠い山には霰(あられ)が降っているらしい。こちらにある外山では、まさきのかづら(テイカカズラ)がきれいに色づいてきた。
(2)西は晴れたり。觀念のたより、なきにしもあらず
西は木々がうっそうとしているが、晴れ渡り、「観念」(浄土宗のお経の一つ)を念じるのに都合が悪くはないという言葉は、「日想観」で説かれる、「儀容を正して西に向ひ、日輪の西方に没するを観ずる、これ一には心の散乱を静むるがため。」といった言葉を思わせる。
あるいは、浄土教、念仏信仰の先駆者と言われる教信(きょうしん、786-866年)が、奈良の興福寺で修行した後、播磨の国に隠遁し、「庵の西壁に窓を設け、西方極楽浄土の阿弥陀仏に念仏を捧げた」といった逸話を思い出させる。
(3)春は、藤なみを見る。紫雲のごとくして西の方に匂ふ。
西行『山家集』。
西を待つ 心に藤を かけてこそ そのむらさきの 雲をおもはめ
西方にある極楽浄土に行きたいという心に藤の花を掛けて、阿弥陀が来迎するという紫の雲を思うこと。
(4)夏は郭公(ほととぎす)を聞く、語らふごとに死出の山路をちぎる。
西行『山家集』。
待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)が西行に向かって、死ぬ時には導いて欲しいと願う句。それに対する西行が返事として返した句。
この世にて 語らひおかん ほととぎす 死出の山路の しるべともなれ (待賢門院堀河)
この世で、お願いしておきます。「死出の田長(しでのたなが)」という別名のあるホトトギス(=西行)よ、私が死ぬ時には、極楽浄土への導き手になってください。
西行の返し。
ほととぎす なくなくこそは 語らはめ 死出の山路に 君しかからば (西行)
ホトトギスである私は、泣きながら、お約束します。あなたが死へと旅立つときには、(導師を務めます。)
(5)秋は日ぐらしの声耳に満てり。空蝉(うつせみ)の世をかなしむかと聞(きこ)ゆ。
『古今和歌集』 詠み人知らずの句。
ありと見て たのむぞかたき 空蝉の 世をばなしとや 思ひなしてむ
この世は、あるように見えるのだけれど、当てにはならない。としたら、この世などないと思ってしまおう。
(6)冬は雪をあはれむ。積もり消ゆるさま、罪障(ざいしょう)にたとへつべし。
『拾遺集』の冬の部に採用された紀貫之の句。
年の内に 積もれる罪は かきくらし 降る白雪と 共に消えなん
今年のうちに積もった罪をかき集めるので、降ってくる白雪と一緒に消えて欲しい。
次に、念仏や読経をする気にならない時には、無理に努めを果たそうとはせず、休みたい時には休むと言った後、そんな時には何をするのか、具体的な内容を挙げていく。
その際、自然の景物を挙げる時以上に、文化的な背景が明確に示される。滿沙彌(まんしゃみ)や源都督(げんととく)といった名前が持ち出されてくることからも、長明の意図を読み取ることができる。
もし跡(あと)の白波に身をよする朝(あした)には、岡屋(おかや=宇治川岸の地名)に行きかふ船をながめて、滿沙彌(まんしゃみ)が風情をぬすみ、
もし桂の風、葉をならす夕べには、潯陽(じんやう)の江(こう)をおもひやりて、源都督(げんととく)の行いをならふ。
もしあまりの興あれば、しばしば松の響きに秋風の楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。
藝はこれつたなけれども、人の耳を悦ばしめむとにもあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。
(7)跡(あと)の白波に身をよする朝(あした)には、岡屋に行きかふ船
『拾遺和歌集』に収められた沙弥満誓(さみまんせい)の句。
世の中を 何にたとへむ 朝ぼらけ 漕ぎ行く舟の 跡の白波
世の中を何にたとえたらいいのだろう。夜明けに漕ぎ出した舟が進む跡に立つ、白波といえばいいのだろうか。
(8)桂の風、葉をならす夕べには、潯陽の江をおもひやりて
潯陽(じんよう)は、中国の詩人・白楽天が左遷された揚子江沿岸の地名。長明はここで白楽天の漢詩「琵琶行」の一節を参照している。
潯陽江頭夜送客 — 潯陽江頭(じんようこうとう) 夜 客を送る
楓葉荻花秋索索 — 楓葉荻花(ふうようてきか) 秋 索索(さくさく)たり
潯陽江(じんようこう)のほとりに、夜、客を見送る。
楓(かえで)の葉や荻(おぎ)の花に、秋、風がもの悲しい音をたてる。
源都督(げんととく)とは、平安時代後期の公家、源経信(みなもと の つねのぶ)の別名。彼は、詩歌や管絃に優れたことで知られ、また、桂に住んだために桂大納言とも呼ばれた。
楓(かえで)は桂(かつら)の古名であることから、長明は、白楽天の詩の中に出てくる「楓」と、源経信の住んだ「桂」をかけ、さらに、経信が琵琶で「琵琶行」を奏する姿を想い描いたのかもしれない。
(9)松の響きに秋風の楽をたぐへ
『拾遺和歌集』に収められた斎宮女御の句。
琴の音に 峰の松風 通ふらし いづれのをより 調べそめけむ
琴の音と、峰の松を通る風の音が通い合い、共鳴している。いったい、琴の「緒」なのか、峰の「尾」なのか、どちらの「を(お)」から、最初の調べが出てきたのだろう?
また、「秋風楽」という雅楽があり、『源氏物語』「紅葉賀(もみじのが)」の巻では、桐壺帝の後宮である承香殿(じょうきょうでん)の女御の第四親王が、「秋風楽舞ひたまへる」とされている。
(10)水の音に流泉の曲をあやつる
「流泉(りゅうせん)」は、平安初期に唐から伝えられた秘曲の一で、琵琶で演奏された。
こうした記述を通して、鴨長明が、念仏や読経よりも、和歌、漢詩、琵琶や琴などに熱心だったことをうかがい知ることができる。
「ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。」と述べるように、彼にとって、伝統的な美的生活は「心を養う」ものなのだ。
もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、猿の声に袖をうるほす。草むらの螢は、遠く遠く槙(まき)のかがり火にまがひ、曉の雨は、おのづから木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峰の鹿(かせぎ)の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。あるは埋火をかきおこして、老(おい)の寝醒(ねざ)めの友とす。恐ろしき山ならねど、ふくろふの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけてつくることなし。
いはむや深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしもかぎるべからず。
「もし夜しずかなれば」から始まる一節は、月、猿、ホタル、雨、山鳩、鹿(かせぎ)、埋火(うずみび)、フクロウの順に、長明の目に入るものが列挙されるように思われる。
しかし、これまで見てきた例と同じように、和歌や漢詩がすでに生み出した情(こころ)が、全ての景物に裏打ちされている。
それらを調べて見ると、『和漢朗詠集』や『堀河百首』、とりわけ西行の『山家集』といった、鴨長明の時代には誰もが知る歌集の中に思い当たる句がある。従って、同時代の読者には、すぐにピンとくる連想だったに違いない。
(11)夜しづかなれば、窓の月に故人(=旧友)を忍び
『和漢朗詠集』に収められた白楽天の詩の一節。
三五夜中新月色 — 三五夜中(さんごやちゅう)の新月の色
二千里外故人心 — 二千里の外(ほか)の故人(こじん)の心
十五夜の夜、東の空に明るい月が見える。ここから二千里のかなたにいるわが旧友も、この同じ月を眺めているだろうか。
ちなみに、『源氏物語』「須磨」の巻でも、月と二千里かなたにいる古い友との組み合わせが見られる。
「今夜は 十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊こひしく、所々眺め給ふらんかしと思ひやり給ふにつけても、月のかほみまもられ給ふ、二千里外故人心と誦(ず)し給へる、例の涙も留められず。」
(12)猿の声に袖をうるほす
『和漢朗詠集』下巻の猿の項目に収められた大江澄明(すみあきら)の句。
巴猿三叫 — 巴猿(はえん)、三叫(さんきょう)す
曉霑行人之裳 — 暁(あかつき)行人(かうじん)の裳(も)を霑(うる)ほす
中国の湖北省にある巴峡(はきょう)を航行中、猿が三度叫ぶ声が聞こえる。その暁の時、旅人は故郷を思い、涙で袖を濡らす。
(13)草むらの螢は、遠く槙(まき)のかがり火にまがひ
『堀河百首』の蛍の項目に収められた藤原公実(きんざね)の句。
難波江の 草葉にすだく 蛍をば あしまの舟の かがりとやみん
難波の入り江で、草むらにホタルの光が見えると、葦の間に浮かぶ船のかがり火と見間違えてしまう。
公実のこの和歌は、白楽天が左遷されて、地方に下っていく時に詠った「方言 その1」の一句に由来すると考えられる。
草螢有耀終非火 — 草蛍(さうけい)耀(ひかり)有れども終(つひ)に火に非(あら)ず
草葉の中にいる蛍は光り輝いても、しょせん本当の火ではない。
(14)曉の雨は、おのづから木の葉吹く嵐に似たり
西行『山家集』
時雨かと ねざめのとこに 聞(きこ)ゆるは 嵐にたへぬ 木葉なりけり
時雨(しぐれ)の降る音かと寝覚の床で聞いたのは、嵐に吹き散らされてしまった木の葉の音だった。
(15)山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ
『玉葉(ぎょくよう)和歌集』に収められた行基(ぎょうき)の句。
山鳥の ほろほろと鳴く 声聞けば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ
山鳥がほろほろと鳴く声を聞くと、父の声か、母の声かと思ってしまう。
長明は行儀の和歌をほぼそのまま散文にしている。現在であれば、「盗作」と言われるかもしれないし、あるいは「オマージ」と言うかもしれない。
しかし、日本の伝統的な文芸の中にあって、先行する和歌や詩句を参照し、取り込むことは、ごく自然で、当たり前のことだった。
山鳩の一文、は、そうした伝統を証明している。
以下に続く「鹿」、「埋み火」、「フクロウ」に関する文に関しても同じことが言え、同時代の読者であれば、長明の文から誰もがすぐに『山家集』や『堀河百首』の句を思い起こしたことだろう。
(16)峰の鹿(かせき)の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る
西行『山家集』
山深み 馴るるかせぎの け近きに 遠ざかるほどぞ 知らるる
山が深いので、鹿が慣れて、気近(けぢか)に(=身近に)感じられる。そのことで、世間からどれほど遠ざかっているのか知ることになる。
(17)埋(うず)み火をかきおこして、老(おい)の寝醒(ねざ)めの友とす
『堀河百首』の埋火(うづみび)の項目に収められた源師頼(もろより)の句。
いふことも なきうづみ火を おこすかな 冬の寝覚めの 友しなければ
何も言わずに、灰の中に埋めてある炭火を起こすとしよう。冬、目が覚めても、友はいないのだから。
(18)恐ろしき山ならねど、ふくろふの声をあはれむにつけても
西行『山家集』
山深み け近き鳥の 音はせで 物怖しきふくろうの声
山が深いので、身近な鳥の声は聞こえず、恐ろしい感じの梟の声が聞こえる。
鴨長明が日野に隠棲してから5年も立つと、草庵の軒には落ち葉が堆積し、土間にも苔が生えてくる。そうなると、最初は仮の宿と思っていた栖も故郷のように感じられ、愛着が出てくる。
その理由は決して、時間の問題ではない。もし5年間暮らしたということが理由なら、庵であろうと、都の屋敷であろと、変わることはない。全ては無常なのだ。
また、和歌や管弦にしても、都で盛んに行われる。
では、違いはどこにあるのか?
それはただ1つ。
都では、他の人との関係で全てが行われる。
貴賤が人々の最大の関心事になる。食べ物にしても、服にしても、人の目が気にかかる。和歌や琵琶にしても、他の人に勝るのか劣るのかが最大の問題なのだ。
他方、方丈の庵にいるかぎり、比較すべき他者はいないし、他者を意識しなくてもすむ。どんな服を着ても、食べ物がないことも、恥じる必要がない。むしろ、粗末な服、わずか食べ物があれば、満足できる。
人に交(まじ)はらざれば、姿を恥(は)ずる悔(くい)もなし。糧(かて)乏(とぼ)しければ、おろそかなる報(むくい)を甘くす。すべて、かやうの楽しみ、富める人に対して言ふにはあらず。ただ、わが身一つにとりて、昔と今とをなぞらうるばかりなり。
それ三界は、ただ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿楼閣ものぞみなし。今、さびしき住まひ、一間(ひとま)の庵、みづからこれを愛す。
もし富める人を意識したら、また他者と自分を比較することになってしまう。それでは、せっかく意識から消え去った他者がまた現れることになる。
長明がここでするのは、都にいた時の自分を思い出し、今の自分がいかに心穏やかでいられるかを自覚することだ。常に他者を意識していた自分と、他者意識の消えた自分を比べること。
その違いをもたらすのは、「ただ心一つなり」、と長明は結論付ける。
心の持ち方を変えれば、仮の宿だったものが故郷だと感じられ、「これを愛す」と言葉にすることができるまでになる。
その時、都では出世の道具だった和歌や管弦が、本来の役割を取り戻し、「ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから情(こころ)を養ふ」ものになる。
その本来の役割、つまり「情(こころ)を養う」ことで、はかない景物が日本の美の伝統の中に組み込まれ、無常の世を流れ去る一瞬たりとも同じではない水が、絶えることのない水の流れになる。
その変化をもたらすものは、繰り返すことになるが、「ただ心一つなり」。
都では、「人に交はらざれば」ということも、「牛馬七珍もよしなく、宮殿楼閣ものぞみなし」ということも、難しいし、不可能なことだ。
だからこそ、鴨長明は、都について語る時には、大災害をこと細かに描き、世の無常を具体的に感じられるようにした。
それに対して、「さびしき住まひ、一間の庵」での生活に筆を写してからは、ここまで見てきたように、自然の景物に和歌や管弦の響きを共鳴させ、一つ一つの水の泡が実は絶えることのない流れを生み出していることを、美しい文章によって示したのだった。
だからこそ、鴨長明はうたかたの方丈の庵を愛するのだ。
その庵は、現実にははかないものでありながら、情(こころ)の中では今という時の中に留まり続ける。
残念ながら、現在の日本の文化からは伝統の響きがほとんど失われてしまっている。そのために、『方丈記』の文の下に横たわる美の伝統をすぐに感じ取ることはできない状態に置かれていると言わざるをえない。
そうした中で、少しずつでも、西行を始めとする和歌の情感を感じ取り、雅楽の曲に耳を傾けながら、日本の伝統的な美的生活を取り戻すことができれば、『方丈記』を読んでいる間だけだとしても、無常が永久(とこしえ)になる喜びを味わうことができるだろう。