鴨長明は『方丈記』の前半で、四つの自然災害と一つの人災を、非常に生き生きとした描写で描き出す。
その目的は、序の中で言われた、「その主(あるじ)と栖(すみか)と、無常をあらそふさま、いはば朝顏の露にことならず。』という言葉を具体的な事実として語るためである。
そして、5つの災害を語り終えた後には、「すべて世のありにくきこと、わが身と栖(すみか)との、はかなく、徒(あだ)なるさま、又かくのごとし。」と、この世のはかなさ、無常さが再確認される。
従って、長明の意図は明らかなのだが、ここで注目したいのは、長明の視線が細部に渡り、描写が実に生々しく描かれていること。
その様子は、平安時代末期から鎌倉時代に描かれた六道絵や、「地獄草紙(じごくそうし)」、「餓鬼草紙(がきそうし)」、「病草紙」などの絵画を連想させる。
それらは、10世紀末、平安時代の中期に書かれた源信の『往生要集』などで説かれた六道、つまり、 「地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人」を映像化したものと考えられる。




鴨長明は、実際に自分が体験した悲惨な状況、しかも1177年から1185年というわずか8年のあまりの間に起こった度重なる災禍を、六道に匹敵するものとして、絵画ではなく言葉で描き出したのだった。
1180年に平清盛によって強行された摂津国福原 (現在の神戸市兵庫区) への遷都は、人間が引き起こした災難であり、「故郷は既に荒れて、新都は未だならず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。」という無常観を引き起こした。
それ以外の四つの災禍、安元の大火 (1177)、治承の辻風 (1180)、養和の飢饉 (1181-82)、元暦の大地震 (1185)は、四大(火、水、風、土)と関係した自然災害と見なされる。
(1)大火事の描写
「去(いにし)安元三年四月二八日かとよ、風烈しく吹きて静かならざりし夜」、京都の南西で出火した火が風に吹かれて西北まで一気に達し、家々を焼き尽くした。
その様子が、細部にわたり、具体的に、生き生きと描き出されていく。

火本(ほもと)は樋口(ひぐち)富小路(とみのこうじ)とかや。舞人(まいびと)を宿せる仮家(かりや)より出で来りけるとなむ。
吹き迷うふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如く末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら炎を地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねく紅(くれない)なる中に、風に堪へず吹き切られたる炎、飛ぶが如くにして一二町(いちにちょう)を越えつつ移り行く。
その中の人、うつし心あらむや。あるひは煙にむせびて倒れ伏し、あるいは炎にまぐれてたちまちに死ぬ。あるいは又身一つ辛(から)うして遁(のが)るるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍万宝(しちちんまんぽう)、さながら灰燼(はいじん)となりにき。その費(つひ)え、いくそばくぞ。

風に吹かれた炎が扇のように広がる。と同時に、風に吹き上げられた灰を炎が照らし、紅に染める。
絵画的ともいえるこうした描写は、火災の炎が町を焼き尽くしたという事実をリポーターとして記録するだけではなく、地獄草紙の炎を思わせる迫力を持って、安元の大火を描き出そうとする鴨長明の意図をはっきりと伝えている。
その中に巻き込まれた人々は、「うつし心」、つまり現実感など持てないに違いない。煙に巻かれて倒れる人々、炎に包まれて焼かれてしまう人々。あやうく難を逃れたとしても、とても財産を取り出す暇などない。
全ては灰となってしまう。
炎の生々しい描写は、その無常を読者に強く実感させる役割を果たしている。
(2)竜巻の描写
治承四年四月、「中御門(なかのみかど)京極のほどより、大きなる辻風(つじかぜ)発(おこ)りて、六条わたりまで、いかめしく吹きける」。
(朗読は、5分16秒から6分12秒まで。)
三四町を吹きまくる間に籠(こも)れる家ども、大なるも小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平(ひら)に倒ふれたるもあり。桁(けた)柱(はしら)ばかり殘れるもあり。門(かど)を吹き放ちて、四五町がほかに置き、又、垣を吹きはらひて、隣と一つになせり。
いはむや、家の内の資財(たから)、数をつくして空にあり。檜皮(ひはだ)拭板(ふきいた)のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。
塵(ちり)を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびただしく鳴りどよむほどに、物いふ声も聞えず。
かの地獄の業(ごう)の風なりとも、かばかりにこそとは覚ゆる。
業風(ごうふう)とは、地獄で吹く暴風。
『往生要集』の中でも、「あらゆる風の中で 一番激しいのは業風である。 業風が悪業人を連れ去って、 地獄に至る」とされている。
治承の辻風は、地獄の業風よりもひどいものだったと長明は言う。
その風はただの暴風ではなく、竜巻だった。
そのことは、「三四町を吹きまくる間に籠(こも)れる家ども」、つまり、約300メートルから400メートルほどの間に巻き込まれた家と、範囲が限定されいることから推定できる。
空に吹き下げられた家の破片が「木の葉が風に乱れる」ように見える状況は、1枚の絵のようである。
読者はその絵の中に入り込んだ後、塵が「煙のごとく」上がり、何も見えず、ものすごい音がして人の話し声も聞こえない状況を体感する。
(3)飢饉の描写
養和の飢饉は1年では収まらず、翌年も続いたために被害がより深刻に感じられ、人々は「餓鬼草紙」に描かれた状況を自分たちのものと感じたことだろう。
「春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとく生(な)らず」という中で、翌年には伝染病までが重なる。
(朗読は12分58秒から14分6秒まで。)
前の年、かくの如く辛(から)うして暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまさへ疫病(えきびょう)うちそひて、まさざまに跡形(あとかた)なし。
世の人みな飢え死にしければ、日を経つつ窮(きは)まり行くさま、少水の魚のたとへに適(かな)へり。
はてには、笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひ歩(あり)く。かく侘(わび)しれたるものどもの、歩(あり)くかと見れば、すなはち倒れ臥しぬ。築地(つきじ)のつら、道のほとりに、飢え死ぬるもののたぐひ、数もしらず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香世界にみちみちて、かはりゆく貌(かたち)、ありさま、目もあてられぬこと多かり。
次の年は疫病が発生したために、前の年と比べて(さまざまに)、状況が改善する跡形(=きざし)もないと言った後、その状況が「少水の魚」にたとえられる。
「少水の魚」という表現は、『往生要集』の中で、無常とは何かを伝える部分に出てくる。
「この日がもはや過ぎると、寿命はさらに減ってゆく。わずかな水に住む魚のようで、ここに何の楽しみがあろうか。」
言うまでもなく、「世の人みな飢え死に」するこの世は無常なのだが、それ以上に、死ぬ前にすでに無常が世を埋め尽くしている。
食べる物がなく、物乞いしながら家々の前を歩き回り、最後は倒れて死ぬ。その姿が醜いだけではなく、悪臭が満ちている。
それは、「餓鬼草子」で描かれる世界そのものと言ってもいいだろう。


。。。。。
興味深いことに、こうした悲惨な社会の中でも情けが深いことがあり、夫婦や親子の「あはれなること」に言及される。
いとあはれなること侍(はべり)き。
去りがたき妻、夫など持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死しぬ。その故は、我が身をば次にして、人をいたはしく思ふ間に、たまたま得たる食物をも彼に譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なお乳房を吸ひつつ、臥(ふ)せるなどもありけり。
愛し合う夫婦の間では、食物を得たら、相手に与えることを優先するために、自分は死んでしまう。親子の情愛も同じで、子供に食べ物を与えながら、親は死んでいく。
死んでまで幼児に乳を与える母の姿は、地獄の中にも深い愛があることを描き出し、人の世が決して無常ばかりではないことを示す例のようにも思われる。
しかし、こうした情愛でさえも、この世の苦しみを増すものになる。その理由は、5つの災害の描写の後で記された次の言葉から推測することができる。
「人を育めば、心恩愛につかはる。」
人を慈しみ世話をすることで「恩愛」が生まれるが、心は、いつしかその「恩愛」に使われ、従属するようになってしまう。
そうした情愛も、『往生要集』の「厭離穢土 (えんりえど)」(この世を汚れた地と見なし、嫌い、張られること)の思想から見ると、この世に対する「執着」であり、避けるべきものなのだ。
他方で、鴨長明は、その情愛を「いとあはれなること」と見なしていることに注目したい。
彼が『往生要集』の「厭離穢土」をそのまま受け入れていたわけではないと推測させるからだ。
長明は、『方丈記』の最後にいたり、「今、草庵(そうあん)を愛するも咎(とが)とす」と記し、方丈の栖での隠遁生活に対する愛着を反省するように見える。
しかし、本心では、口先で「阿弥陀仏」と念仏を唱えるくらいでいいと考えているらしい。
そうした柔軟な思考は、「無常なこの世」にも「いとあはれなること」があるという、彼の思いから来ているに違いない。
災害の描写とは直接関係がないが、鴨長明という人間の心持ちを知る上では大切だと思われるので、そのことを指摘しておきたい。
(4)大地震の描写
地震に関しては、「四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる変をなさず。」と記され、不動だと思われた地面が揺れ動くことに、長明の驚きはとりわけ大きかったことが覗われる。
(朗読は、17分3秒から18分21秒まで)

また同じころとかよ、おびただしく大地震(おおない)振(ふ)ること侍(はべ)りき。そのさま、世の常ならず。
山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわお)割れて谷に転(まろ)び入る。なぎさ漕ぐ船は、波にただよひ、道行く馬は、足の立ち処(ど)を惑はす。
都のほとりには、在々所々(ざいざいしょしょ)、堂舎(どうしゃ)塔廟(とうみょう)ひとつとして全(まった)からず。あるいは崩れ、あるいは倒れぬ。塵(ちり)灰(はい)立ち上りて、盛りなる煙のごとし。
地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。
家の内にをれば、たちまちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。
翼なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや雲にも乗らむ。
恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震(ない)なりけりとこそ覚え侍(はべ)りしか。

「世の常ならず」というほどの災害の様子が語られる文章は、「山は・・・、海は・・・、土・・・、巌・・・、船は・・・、馬は・・・」と、非常に規則的なリズムを刻みむ。
内容は、山は崩れ、馬は陸地をひたし、土が裂け、巌が割れ・・・と、悲惨であるにもかかわらず、それを語る文のリズムは快適なのだ。
それに続く一節では、被害の状況がより身に迫り、家々が壊れて塵が舞い上がり、家にいれば押しつぶされそう(=ひしげる)だし、外に出ても、大地が裂けていて危険は去らない。
「地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。」
これが鴨長明の実感であり、「恐れのなかに恐るべかりけるは」大地震だということが、ひしひしと感じられる。
その一方で、ここでも、文章のリズム感が心地よく、内容と相反する。
その理由は推測するしかないのだが、長明は、大地震に対して、いつものような現実に密着した視線を保ちながらも、現実を超えた力の働きを感じたからではないだろうか。
そのために、『方丈記』のどこにも出て来ない空想が突然姿を現す。
「竜ならばや雲にも乗らむ。」
現実的な長明が、もし竜であったらなどと言うほどに驚きは大きく、通常の言葉では言い表せないほどの恐怖が彼を包み込んだのだろう。
5つの災害に関する記述は、以下の考察で締めくくられる。
財あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身他の有なり。人を育めば、心恩愛につかはる。世に従えば身苦し。また従はねば狂せるに似たり。いづれの所をしめて、いかなる事をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
無常なこの世にいるかぎり、「たまゆらも」=わずかな間も、心は安まらない。
「地獄草紙」や「餓鬼草子」などの六道を描いた絵は、視覚的にその現実を伝えた。
『方丈記』では、「その主と栖と、無常をあらそふさま、いはば朝顏の露にことならず」という人間のこの世での生の例として、同時代に起こった大災害を取り上げ、それらを言葉によって生き生きと描き出すことで、リアルに伝えたのだった。
しかし、その一方で、長明の心には別の思いもあった。
飢饉と疫病の災禍の際、彼は地獄絵に絵かがれたような悲惨な状況を前にして、次のように記した。
「世の人みな飢え死にしければ、日を経つつ窮(きは)まり行くさま、少水の魚のたとへに適(かな)へり。」
ところが、隠棲生活を送るうちに方丈の庵の愛おしむ気持ちが湧き上がるようになると、同じ魚の喩えを使い、次のような心持ちを告白するに至る。
「今、寂しい住まひ、一間の庵、みづからこれを愛す。(中略)魚(中略)のありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。」
『往生要集』の「厭離穢土 (えんりえど)」、つまり穢れたこの世を厭い離れよという教えとは相容れないず、荘子に由来すると考えられている。
「鯈魚(ゆうぎょ=コイ科の淡水魚)、出(い)で遊び、從容(しょうよう=普段通り落ち着いている)たり。これ魚(うお)の楽しむなり。」(『莊子』外篇第十七)
この世が無常だとしても、夫婦や親子の間に情が通うこともある。物質的には最小限に限られている生活でも、仏に祈り、和歌を詠い、琵琶を奏でていると、愛着が湧いてくる。
無常の中にも、あるいは、無常な中にこそ、「あはれ」がある。
「行く川の流れは絶えずして、しかも本(もと)の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しく留(とど)まることなし。」
確かに全てはうたかたであり、流れ去ってしまう。しかし、流れは「絶えずして」なのだ。
「消え去るもの」に「あはれ」を感じる日本的な感受性の根本が、この「絶えずして」と「留まることなし」の二律背反的な遊びにあるとしたら、読者が、大災害の描写に「あはれ」を感じ、過ぎ去るものの「美」を見出したとしても、誤りではないはずである。
