ポール・ヴェルレーヌ 印象派の詩人 1/2 短調の調べ

ポール・ヴェルレーヌは日本で最もよく知られたフランスの詩人だといえる。
「秋の日の ヰ゛オロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」(上田敏訳)や、「巷に雨の降るごとく われの心に涙ふる。かくも心ににじみ入る この悲しみは何やらん?」(掘口大學訳)といった詩句は、いつの間にか私たちの記憶に入り込み、消えることがない。

ヴェルレーヌの詩は、日本人の心にすっと入ってくる親しさを持っている。
「あはれ」が美学の根底にある日本的な感性は、「悲しみ」が通奏低音として流れるヴェルレーヌの詩句の美しさを、そのまま受け入れることができるのかもしれない。

その一方で、翻訳で読む限り決して理解できない部分もある。それは、ヴェルレーヌの詩句の音楽性。
ヴェルレーヌは「詩法」という詩の中で、「何よりも先に音楽を」と詠い、詩の第一の要素は音楽であることを強調した。
翻訳で読む限り、ヴェルレーヌの詩句の持つ音色、リズム、ハーモニーなどを知ることができない。
どの翻訳に関しても同じことなのだが、ヴェルレーヌ(そして、ランボー、マラルメたち)の詩では、とりわけ音楽性が重要なのであり、翻訳で読むことの限界は理解しておく必要がある。

「フランス文学の道しるべ」の紹介では、翻訳でフランス文学を読むことを前提にしているので、ヴェルレーヌの詩句の音楽的な側面については触れないで進めていく。

ヴェルレーヌの詩に親しむための最もよい解説は、クロード・モネの「印象 日の出」かもしれない。
その絵は、モネの仲間の画家たちが最初に企画した1874年の展覧会に展示され、「印象」という題名から、彼らの絵画が印象派と呼ばれることになったものだった。

その1874年、ヴェルレーヌの『言葉のない歌曲集』も出版された。
それは「意味のある偶然」。
印象派の画家たちが絵画で試みたこと、ヴェルレーヌが詩の世界で行おうとしたこと、どちらも「印象」を固着することが課題だった。

人と作品の不調和

ヴェルレーヌほど、人生の様々な局面で悲惨な人間性を赤裸々にさらしながら、抒情的で美しい作品を生み出した作家や詩人はほとんどいない。

(1)誕生から結婚まで

ポール・ヴェルレーヌは、1844年3月30日、フランスの北東部に位置する都市メスで生まれた。なかなか子供ができなかった両親は、ポールを一人息子として溺愛した。

職業軍人だった父親は1851年に除隊。その年にメスを離れ、パリで暮らし始めた。
ポールは寄宿舎に入れられ、1862年にバカロレアを取得するのだが、その間、学校の勉強よりも、詩に熱中し、自分でも詩作を重ねた。
高校卒業後は法科大学に入学したが、すぐに退学。カフェや文学サークルに入り浸り、詩人になることを夢見る生活を送った。そして、1863年には、一つの詩が初めて雑誌に掲載された。

1864年、20歳のポールは、将来を心配した父の命令で保険会社に勤め始め、その後転職して、パリ市役所で働くようになる。
1865年に、父が死亡。母と二人暮らしになるが、ポールは母に激しい暴力を振るい、そうした行動は生涯続くことになる。その主な原因はアルコール中毒によるものと思われる。

同じ1865年12月、ボードレールに関する優れた批評が、「芸術」という雑誌に掲載される。その批評文は、ヴェルレーヌの詩作にとっていかにボードレールの影響が決定的な重要性を持つものか示している。

1866年には、第1次『現代高踏詩集』に7篇を掲載し、12月になると、記念すべき処女詩集『土星人の詩』を出版することができる。

その出版は、ヴェルレーヌ一家が、ポールの生まれる前に引き取り育てた孤児のエルザからの援助によるものだった。
ポールは姉のようなエルザに恋心を抱き、結婚まで望んでいて、この時代のポールの恋愛詩はエルザに向けられていた。
その一方で彼女は1861年に実業家と結婚していて、ポールの処女詩集が出版できるように、金銭的な援助をしてくれたのだった。

エルザは1867年に産褥のために命を落とす。その不幸な事件がポールをますます酒に溺れさせ、暴力的にし、何度かは母を殺しそうにさえなる。

そうした中でも詩作は続け、1869年2月、18世紀のロココ絵画のテーマから発想を得た『艶なる宴』という詩集を出版する。

その直後の6月、ポールは、16歳の少女マチルド・モーテを紹介され、恋に落ちる。そして、後に『よき歌』に収録される恋愛詩を彼女に捧げ、結婚を申し込む。
マチルドもプロポーズを受け入れ、1870年18月に結婚式が挙行される。

当時のフランスはプロシアとの戦争が継続している時期であり、ポール・ヴェルレーヌは国民軍に入隊しながら、その一方でパリ市役所での仕事も続けた。

(2)アルチュール・ランボーの衝撃

1871年9月、アルチュール・ランボーがシャルルヴィルからパリに上京する。
それ以前にランボーは、「酔いどれ船」という詩を同封した手紙をヴェルレーヌに送り、その詩に感激したヴェルレーヌが16歳の詩人に、パリに来るように勧めたのだった。

ランボーを鉄道の駅まで迎えにいったが会うことが出来ず、家に戻るとすでにランボーがいて、我が物顔で振る舞っていた、というエピソードが残されている。
二人の関係は、ランボーの『地獄の季節』の「愚かな乙女」の章の中で象徴的に描かれるように、ランボーが主人、ヴェルレーヌは愚かな乙女だった。
ヴェルレーヌはランボーの魅惑の下に置かれ、マチルドとの結婚生活を捨て、同性愛者としての生活を選んだのだった。

1871年10月末には一人息子ジョルジュが誕生したにもかかわらず、ポールは家庭を顧みず、詩人たちの集まりにランボーとともに参加するなどしていた。
そして、家に戻れば妻に暴力を振ることもあり、1872年1月になると、マチルドは子供を連れて家を離れる。

その後、ランボーと別れるからと妻に侘びを入れて関係を修復することもあったが、しかし結局はランボーを選択し、7月には二人でベルギーに向かい、9月になるとロンドンに渡る。

ロンドンでの二人の生活は不安定で、喧嘩や別れを繰り返し、ランボーがフランスに戻ってしまい、病気になったヴェルレーヌを看病するために母がロンドンにやって来ることもあった。

『言葉のない歌曲集』に収録される抒情的で美しい詩の大部分は、酒、暴力、放蕩に満ちた悲惨な状況の中で書かれたのだった。
詩から浮かび上がる詩人のイメージは、実生活のヴェルレーヌと驚くほど違っている。

。。。。。

1873年7月、ヴェルレーヌは、すでにフランスに戻っていたランボー、そして母や妻に宛て、マチルドと和解できなければ自殺するといった内容の手紙を送り、ベルギーに向かう。そして、ブリュッセルで母やランボーと面会した。

7月10日、話し合いが決裂した後、ホテルから出て行ったランボーに向け、ヴェルレーヌは2発の銃弾を撃ち、一発がランボーの手首を傷つけた。
その結果、ヴェルレーヌは逮捕されプティ・カルム監獄に投獄されるが、その時の身体検査で同性愛者であることが発覚した。当時、同性愛は処罰の対象だった。

8月下旬、200フランの罰金と2年間の禁固刑が言い渡され、モンスの監獄に送られる。
1875年1月に出獄できるまで、その監獄に留まることになるのだが、その間に、マチルドからの離婚請求がパリの裁判所で承認されたことを知るなどし、ヴェルレーヌは精神的に強いショックを受ける。そして、これまでの生き方を悔い改め、キリスト教の信仰を取り戻すことになった。
『叡智』の収められる詩は、その回心を反映している。

出獄後の1875年2月の後半、ドイツのシュトゥットガルトにいたランボーの許を訪れ、2日間を過ごす。それが二人にとっての最後の時間となった。

(3)詩の質の低下と評価の上昇

1881年にやっと『叡智』が出版されるが、『土星人の詩集』『艶なる宴』『言葉のない恋愛歌』などを含め、ヴェルレーヌの詩集が評価されることのない状態が続いていた。

1875年にモンスの監獄を出てからも、イギリスでフランス語等を教えたり、フランスに戻り中学の教師の職に就いたりといった生活を送る。
リュシアン・レチノアという男子生徒と恋愛関係になって再びイギリスに戻り教職に就いたり、マチルドと和解しようと試みたり、パリで母と暮らし、パリの市役所で職を得ようとしたりと、不安定な生活を続けた。

1883年、リュシアン・レチノアがチフスのために死亡。ヴェルレーヌは母と田舎で暮らし始めるが、泥酔して母の首を絞め、監獄に入れられるなど、乱れた生活が続いた。

その一方で、詩作も続けられていた。
1884年には、ランボーやマラルメといった無名の詩人たちを紹介した評論集『呪われた詩人たち』を出版し、その中には「哀れなレリアン」という名前で自らを含めるといったこともした。

1886年1月、息子の暴力に耐え続けてきた母がパリのホテルで亡くなる。
膝の病気で動けなくなっていたポールは、葬儀に参列することができなかった。

経済的にも息子を支えてきた母の死は、ポールを貧困生活に追いやり、彼は、慈善病院と安ホテル、そして娼婦の家などの間を行き来して暮らした。

1892年には娼婦であったウジェニー・クランツの家で暮らすかと思えば、彼女に逃げられて慈善病院に入院。その慈善病院から別の娼婦フィロメーヌ・ブーダンに連れ出されるが、その後、ウジェニーと和解し、再び彼女と暮らすといった生活。

そうした浮浪者のような生活を送りながら続けられた詩作だったが、作品の質は決して代表作といえるものではなかった。

その一方で、詩人としての評価は高まり、イギリスやオランダ、そしてフランス各地で講演を行った。
実際、1880年代半ばから台頭した象徴派の詩人たちがヴェルレーヌの詩を高く評価し、1891年に実施されたジュール・ユレの『文学の進化に関するアンケート』では、マラルメと並び、象徴派を代表する詩人という位置づけが与えられている。

1896年1月8日、ポール・ヴェルレーヌは、パリのパンテオン近くにあるホテルで息を引き取った。糖尿病、梅毒、皮膚潰瘍を患い、直接の死因は肺炎だった。享年51歳。

1月10日にパンテオンの横にあるサン・テティエンヌ・デュ・モン教会で行われた葬儀には数多くの人々が参列し、パリの反対側にあるモンマルトル近くのバティニョルの墓地に遺体が運ばれていく際には、長い行列が続いた。

短調の調べ

ヴェルレーヌが詩人として求めたことは、「美」に達することだった。
美の信仰告白が、『土星人の詩集』の「序」では次のように行われる。

詩人、「美」を愛すること、それが詩人の信仰。
「紺碧」が詩人の旗、「理想」が詩人の法律!  (「序」)

「紺碧」や「理想」を求めて魂が「美」を求めて飛翔する姿は、イデアを希求するプラトン的な愛の構図を思わせ、ボードレールの美学に従うことでもある。

では、そうした中で、ヴェルレーヌ的な「美」を特徴付けるのは何だろう?

「月の光」の中で、仮面を被り、仮の姿で優美に宴を楽しむ人々は、彼らの幸福を「短調の調べ」に乗せて歌う。

短調の調べに乗せて歌うのは、
勝ち誇った愛と巡り合わせのいい人生、
しかし、幸福を信じているようには見えない。
彼等の歌が、月の光に溶け込んでいく、

静かで、もの悲しく美しい月の光に。 「月の光」

仮面を被った人々は、豪華で優美な衣裳に身を包み、幸せそうな様子をしているが、その幸せを信じているようには見えない。
ヴェルレーヌは、18世紀の宮廷を舞台にしたロココ絵画を代表するアントワーヌ・ヴァトーの「艶なる宴」と呼ばれる絵画を詩によって再現しながら、華やかさの下に流れる「短調」の調べに敏感に反応する。
そして、その調べが月の光の中に溶け込んでいく。

この詩句で最も注目したいのが、月の光を形容する「もの悲しく、美しい」という言葉。
ヴェルレーヌの詩は、この二つの形容詞でいい尽くされているとさえ言える。
つまり、「美」は「悲しみ(哀しみ)」とともにある。
日本的な美学で言えば、「あはれ」と対応すると考えてもいいだろう。

この「悲しみ」は、ボードレールと共通するメランコリー気質に由来する。

メランコリーとは、黒胆汁質が堆積すると生じる憂鬱質のことで、四大元素(火・水・空気、土)の中では、「土」と関係すると考えられた。

天空に浮かぶ星々との関係では、土星(サトゥルヌス)の支配を受けると見なされた。

ヴェルレーヌが処女詩集の題名に「土星人」という言葉を使ったのは、土星の下に生まれた憂鬱気質の人間として自分を定義したことを示している。

メランコリー気質に生まれついた人々は、何か特別な出来事によって陰鬱になるのではなく、自然に憂鬱な気分の中にいる。

ヴェルレーヌはそのことをはっきりと意識していた。
「忘れられた小曲」シリーズの3番目に置かれた「巷に雨の降る如く/我が心にも涙ふる」で始まる詩を読むと、そのことがよくわかる。
日本語の音楽性は横にし、詩の意味だけを取り出すことにして、関係する詩句を読んでみよう。

涙が流れる、理由もなしに、
うんざりしているこの心の中。
何で? 裏切りもなしに?
この悲しみに、理由はない。

こんなにひどい苦痛なのに、
なぜか理由がわからない。
愛もなく、憎しみもなく、
私の心は、こんなに苦しい。   「忘れられた小曲 3」

詩人には自分の悲しみの「理由」がわからない。
もし失恋であれば、あるいは裏切られて憎い相手がいるのであれば、原因を取り除くことで悲しみはなくなる。
しかし、ただ悲しだけで理由がわからなければ、どうすることもできない。

こうした憂鬱な心持ちは、キリスト教の信仰を取り戻しても変わらない。
『叡智』の第2部の最後に置かれた「その8 神が私に言われた」でも、涙にくれている理由がわからずにいる。

ああ! 主よ、私はどうしたのでしょう?  ああ! 私は涙にくれています、
異常なほどの喜びの涙に。あなたの御声が、
私に、善きことでもあり悪しきことでもあるようなことを、なしてくださいます。
悪と善と、全ては同じ魅力を持っています。   「神が私に言われた」

この詩が書かれたのは、ヴェルレーヌが1873年7月にランボーに発砲し、裁判で有罪を言い渡され、モンスの監獄に収監されていた1874年9月頃。

彼は独房の孤独の中で神の声を聞いたと信じ、この詩を通して信仰告白をしているのだが、そうした中で、なぜ自分が涙にくれているのかわからずにいる。

この詩は憂鬱な悲しみを歌うものではなく、その意味では「巷に雨の降る如く」とは違っている。
しかし、自分の感情が明確な原因によって引き起こされるのではなく、理由がわからないと感じている点では、類似している。

だからこそ詩人は、「異常なほどの喜び」を感じながら、その喜びに浸りきることができず、どこかで不安を感じ続けることになる。

私は、選ばれたことに恍惚となり、恐れてもいます。
私はそれに相応しくはありません。しかし、あなたの寛容さを知っています。
ああ、なんという努力、しかし、なんという熱意! 私はここにおります、

慎ましい祈りに満ちて。ただし、この上なく巨大な困惑が、
希望を乱してもいます。あなたの御声が私に明してくださった希望をです。
私は、震えながら、熱望しています。     「神が私に言われた」

「恍惚」と「畏れ、不安」がなぜ同時に心を揺さぶるのか、原因と結果を理性によって論理的に分析することからは、知ることができない。
神に選ばれた喜びは大きな希望をもたらすが、しかし同時に、巨大な困惑にも捉えられている。
その原因も理由もわからないからこそ、「私はどうしたのでしょう? 」と神に問い、自問し、身を震わし、救いを熱望する。

その時、「私」にできることは、ただ「慎ましい祈り」を捧げることだけ。
その祈りは、「月の光」の下で歌われる仮面の人々の歌と同じように、「短調の調べ」に違いない。

その調べを奏でるのは、「土星人」の魂。
メランコリー気質の歌は、明るい響きの長調ではなく、陰を含んだ短調で奏でられる。
そのことに理由はない。理由を尋ねたとしても、分からない。
「涙が流れる、理由もなしに」なのだ。

論理的に分析されるのではなく、「なぜか理由がわからない」まま、「短調の調べ」に乗せて歌われるヴェルレーヌの詩句は、「もの悲しく美しい月の光」に溶け込んでいく。

。。。。。

「神が私に言われた」の中の「私は、選ばれたことに恍惚となり、恐れてもいます」という詩句は、掘口大學によって、「選ばれて在ることの恍惚と不安とふたつ我にあり」と訳された。
そして、太宰治はその詩句を、短編小説「葉」の巻頭に置かれる句として引用した。
そのことは、ヴェルレーヌの魂が日本的な美的感性と共鳴することの一つの証と考えてもいいかもしれない。

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