英語の進行形って何?

英語だけ勉強していると気付かないのだが、他の言語を勉強していると、進行形が英語特有の動詞の表現方法であるを知り、驚いてしまう。少なくとも、フランス語などヨーロッパ系の言語には進行形という形は存在しない。

だからこそ、英語の進行形とは何なのか知りたくなってくるのだが、少し調べただけで、解説があまりにも複雑で、何が何だかわからなくなりそうになる。現在進行形は何となくわかるとしても、現在完了進行形って何だろう? それが未来完了進行形とか過去完了進行形とかになり、その細かな用法やニュアンスが説明されると、ますます混乱してしまう。

そこで、原点に戻って考えてみることにした。
いわゆる進行形と呼ばれるのは、be+動詞のing形

動詞のing形には、現在分詞と動名詞という二つの用法がある。

動名詞というのは、動詞を名詞的に使う用法。
例えば、« He is good at playing tennis. »
前置詞 at の後ろは名詞が来るため、動詞playにingを付けて名詞として扱う。

進行形の場合には、be+現在分詞
現在分詞は過去分詞と対比され、現在分詞は動詞を能動的な意味、過去分詞は受動的な意味にする。
opening (開く): opened(開かれた)
そして、be+現在分詞(ing)は進行形になり、be+過去分詞(ed)は受動態になる。

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愚か者だけが、確信し、決めてかかる(モンテーニュ)

自分が当たり前だと思っていることについて質問され、時に意表を突かれることがある。最近そうしたことが重なり、ふと、「愚か者だけが、確信し、決めてかかるのです。」というモンテーニュの言葉を思い出した。
(参照:モンテーニュ 子供の教育について Montaigne De l’Institution des enfants 判断力を養う


一つ目は、フランス語の鼻母音のリエゾンに関する質問。

« Ton souvenir en moi luit comme un ostensoir ! » (Baudelaire, « Harmonie du soir »)

不定冠詞のunは鼻母音で、発音記号で書けば、[ œ̃ ]になり、[ n ]の音はしない。しかし、ここでは後ろに続く単語 ostensoir が母音 [ o ]で始まるために、[ œ̃ no ]と[ n ]の音がする。カタナカで書いてしまうと「ノスタンソワール」。

この詩句を読んでいる時、「鼻母音でNの音はしないはずなのに、なぜ次にNの音でリエゾンするのか?」と問われ、その場で立ち往生してしまい、答えることができなかった。
自分では習慣的に [ no ]と読み、疑問に思ったことがなかったので、不意打ちを食らったという感じだった。

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ひとはなぜ戦争をするのか  アインシュタインとフロイトの書簡

第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれた1932年、国際連盟がアルベルト・アインシュタイン(1879-1955)に、今の文明の中で最も大切だと思われる事柄を取り上げ、一番意見を交わしたい相手と書簡を交換して欲しいと依頼した。

そこでアインシュタインは「人間はなぜ戦争をするのか」という問いを立て、対話の相手にジークムント・フロイト(1856-1939)を選択した。そして、フロイトがアインシュタインの要請に応え、一回限りだが、二人の間で書簡が交換されたのだった。

その日本語訳が、A・アインシュタイン、S・フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか』(浅見昇吾訳、講談社学術文庫)として出版されている。

20世紀はアインシュタインの相対性理論とフロイトの深層心理学に基づく精神分析学が大きな影響を持った時代であり、第一次世界大戦を経た時点で、二人の優れた学者が戦争について語り、どのようにしたら人類が戦争をなくしうるかという問いに対する答えを模索する往復書簡は、戦争を止めることのない人間という存在を考える上で大変に興味深い。

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岡倉天心 「茶の本」 お茶か刀か

岡倉天心の『茶の本』は、アメリカ・ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めていた天心が、1906年(明治39年)に英語で出版した書籍で、茶道の紹介だけではなく、日本の文化や美意識が説かれている。

その背景には次のような時代があった。
1868年の明治維新以降、日本は欧米に匹敵する列強になることを目指し国の近代化に努め、大陸政策を進展させ、1894(明治27)年には日清戦争、1904(明治37)年には日ロ戦争へと突き進んだ。そうした戦争の勝利の中で、日本が西欧に劣った国家ではなく、独自の文化を持った国であるという自覚と誇りが芽生え、各種の日本論が提出された。

『茶の本』もそうした日本論の一つだが、とりわけ21世紀の今、次の一節に目を止めたい。

一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、そでの下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮さつりくを行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

(青空文庫 :https://www.aozora.gr.jp/cards/000238/files/1276_31472.html

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ノーベル文学賞 次の日本人受賞者は宮崎駿監督?

大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した後、1994年10月17日に国際日本文化センターで行った講演「世界文学は日本文学たりうるか?」の中で、彼は日本文学に3つのラインを設定した。(『あいまいな日本の私』岩波新書所収)

(1)世界から孤立した、日本独自の文学。
代表は、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫。
(2)世界の文学、とりわけフランス文学、ドイツ文学、英米文学、ロシア文学から学んだ作家たちの文学。
代表は、大岡昇平、安部公房、大江健三郎自身。
(3)世界全体のサブカルチャーが一つになった時代の文学。
代表は、村上春樹、吉本ばなな。

(1)のラインでは川端康成が、(2)のラインでは大江健三郎が、ノーベル文学賞を受賞した。
残っているのは(3)のラインということになり、毎年10月頃になると、村上春樹が受賞するのではないかという話題が持ち上がる。

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「歴史」を知る難しさ イザナギ・イザナミ夫妻は円満?

8月15日は、日本にとっては第二次世界大戦の「終戦記念日」。
しかし、この日が終戦ではないという人もいるし、ポツダム宣言を受け入れたとしても「全面降伏」ではなかったという人もいる。原爆の投下についても様々な説が混在し、ソ連参戦の意味についても意見が分かれる。

学校教育の中で、明治維新以降の歴史にあまり触れないのは、日本人の一人一人が意識的・無意識的に持つイデオロギーと密接に関係しているからだろう。客観的に事実を辿るつもりでも、なかなかそのようにはできない。

そうしたことは現代史だけかと私は思っていたのだが、古代史についても起こるらしい。
最近、『古事記』や『日本書紀』で語られる日本の始まりについていろいろと考える中で、自分の無知を思い知ると同時に、それが私だけのことではないらしいこともわかってきた。

日本の国土の生成が伊弉諾(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の「国生み」によることは、「記紀」で共通している。
しかし、その後の展開は全くと言っていいほど異なっている。

『古事記』では、イザナミは火の神カグツチを産んだあと、火に焼かれて死に、黄泉の国へ行く。
イザナギは妻を追ってその国へ赴き、ウジ虫にたかられている妻の姿を見てしまうことで、妻に恥をかかせる。そのためイザナミは醜女(しこめ)や兵士たちに夫を追跡させ、最後は自らも追いかける。そして二人は黄泉比良坂(よもつひらさか)で言い争いをし、イザナギは生者の国に戻り、イザナミは死者の国に留まる。

それに対して、『日本書紀』の本文では、イザナミが命を落とすこともなく、したがって黄泉の国の挿話もない。二人は国生みの後、神々を生み、さらには自然の事物をも生む。

このように、「記紀」と一括して呼ばれることはあっても、二つの書物の中で二人の関係はまったく異なっている。

そんなことを知った後で、伊弉諾神社のある淡路島の観光ガイドのホームページを見ていたところ、面白いことに気づいた。

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現実の他に何があるのか? プラトンのイデア アリストテレスの形相 

「現実の他に何があるのか?」という問いは何か変な感じがするが、ヨーロッパ的な考え方を知るためには、こんな問いから始めるのがいいかもしれない。

(1)プラトンにおけるイデアと現実

古代ギリシアの哲学者プラトンは、現実の事物は時間が経てば消滅する儚い存在だと考え、そうした存在を超えて永遠に存在する確かなものはないかと問いかけた。
そして発見したのが、イデアだった。英語のideal(理想)の語源となる言葉。

プラトンにとっては、イデア界こそが真に実在するものであり、現実世界はイデア界のコピーあるいは影にすぎない。

もちろん、現代の私たちはプラトンの言うイデア界があるとは信じられない。アダムとイブの楽園や浦島太郎の竜宮城のように、空想の産物だと思うだろう。
というのも、私たちの世界観の基礎には科学的な思考があり、実験によって物理的に確認できないものが実在するとは認められないからだ。
目に見え、手で触れ、香りを嗅ぎといったように、五感で感じ取ることのできるものが、現実世界を構成する。

しかし、少し考え直してみると、感覚に騙されることがあったりもする。
同じ物を触ったとして、より熱い物の後だとそれほど熱く感じないし、冷たいものを触った後ではひどく熱く感じたりする。同じ長さのものでも形によって違う長さに見える。そうした心理学的な錯覚実験があるのもそのためだ。

そのように考えると、「現実とは何か?」という問題も、実際のところそれほど簡単ではないことがわかってくる。

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AI翻訳の活用法 Wikipediaの記事の翻訳

ある調査結果で、Wikipediaの信頼性は「ブリタニカ百科事典」と同等だとされたことがある。
ただし、それは英語版の調査であり、日本語のページに関しては、「秀逸」や「良質」のマークのついた記事もあるが、多くの場合、紙ベースの事典に匹敵するところまでいかないのが現実だろう。
また、外国の事象や人物の記述に関して、日本のページには項目がないものもある。
例えば、オランダの画家Jacobus Vrelについての記述は、日本版のWikipediaにはない。

そこで、英語版やフランス語版など、日本語以外の記述を参照することになる。
その際、現在では、AIの翻訳機能により、外国語を瞬時に日本語に翻訳することが可能で、理解をおおいに助けてくれる。

私の知る範囲では、ブラウザーでChromeを使っている場合、英語、ドイツ語、イタリア語などから日本語への翻訳が可能。しかし、フランス語から日本語への翻訳は、なぜかできない。

それに対して、ブラウザーでEdgeを使うと、フランス語から日本語への翻訳も可能になる。

また、フランス語→日本語の場合、翻訳が多少分かりづらく不正確なこともある。そうした場合には、多少面倒でも、ChatGPTを使い、フランス語→英語→日本語と、一度英語を通すと改善する例も見られる。

以下、WikipediaのJacobus Vrelの項目を使い、実際のところを見ていこう。

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サルトル 『言葉』 Sartre Les Mots 事物と概念 実存主義の基礎

ジャン・ポール・サルトルの自伝的作品『言葉(Les Mots)』(1963)の中で、日本人にとってはわかりにくい一つのテーマが扱われている。
それは、目に見え、手で触れることができる現実の「事物」と、その反対に、見ることも触れることもできない「概念」という、二つの異なった認識の次元に関わる問題。

例えば、猫に関して、ここにいる「一匹の猫」は存在するが、「猫一般」、あるいは「猫という概念」は存在しないとする立場と、逆に、概念そのものが実在するという立場がある。

普通、そんな違いを日本人は考えないので、わかりにくいし、どうでもいいようにも思われる。
ところが、サルトルが自分の幼い頃の思い出として語る一つのエピソードを読むと、私たちにとっては遠い世界の思考法がクリアーに理解できてくる。

その結果、サルトルの提示した哲学の根本的な土台が、「事物」と「概念」の関係をどのように考えるかということにあることがわかり、実存主義の理解にもつながる。
さらに、その二分法になじまない日本的な思考の特色も見えてくる。


『言葉』の中には、サルトルが小さな頃からお祖父さんの書斎に置かれた多くの本に囲まれて育ったが、その中でもとりわけ「ラルース大百科事典」に大きな興味を示したという思い出を語る部分がある。

Mais le Grand Larousse me tenait lieu de tout : j’en prenais un tome au hasard, derrière le bureau, sur l’avant-dernier rayon, A-Bello, Belloc-Ch ou Ci-D, Mele-Po ou Pr-Z (ces associations de syllabes étaient devenues des noms propres qui désignaient les secteurs du savoir universel : il y avait la région Ci-D, la région Pr-Z, avec leur faune et leur flore, leurs villes, leurs grands hommes et leurs batailles) ;

ところで、私にとって、「ラルース大百科事典」が(他の本)全ての代わりになっていた。適当に一巻を手に取る。机の後ろにある棚の、下から二番目の段にある、A-Belloの巻だったり、Belloc-Chの巻、Ci-Dの巻、Mele-Proの巻、Pr-Zの巻だったりする。(それらの音の組み合わせは固有名詞となり、普遍的な知識の分野を指し示していた。Ci-Dの地区、Pr-Zの地区があり、その中に、動物相や植物相、街があり、偉人がいて、彼らの戦があった。)

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議員は選挙民を「代表」するか? 柄谷行人 「代表するもの」は「代表されるもの」から束縛されない

政治は選挙によって選ばれた議員たちによって行われる。たとえ、政策の立案に関しては、選挙によって選ばれてはいない官僚によって行われるとしても、決定権は議会にある。
そして、その議会は、普通選挙によって「民意を得た」とされる代議士たちによって構成されるため、「民主主義」的な政治が行われると見なされる。

こうした仕組みは、「日本国憲法前文」で規定される基本的な考え方に基づいている。
「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、(後略)」。

しかし、政治家たちの発言や行動からは、彼らが本当に選挙で投票した人々の「代表」であるのかどうか疑われることがある。

柄谷行人は、投票する側と選ばれる側のつながりの曖昧さを指摘する。

真に代表議会制が成立するのは、普通選挙によってであり、さらに、無記名投票を採用した時点からである。秘密投票は、ひとが誰に投票したかを隠すことによって、人々を自由にする。しかし、同時に、それは誰かに投票したという証拠を消してしまう。そのとき、「代表するもの」と「代表されるもの」は根本的に切断され、恣意的な関係になる。したがって、秘密投票で選ばれた「代表するもの」は「代表されるもの」から束縛されない。(『トランスクリティーク』)

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