ヴェルレーヌ 「忘れられたアリエッタ その1」  Verlaine « Ariettes oubliées I » 日本的感性とヴェルレーヌの詩心

「忘れられたアリエッタ その1」は、ヴェルレーヌの詩の精髄がそのままの形で詩になっている。この詩を理解することで、「ヴェルレーヌ的」とは何か、そしてなぜ彼の詩が日本でこれほど愛されているのか、理解することができる。

「忘れられたアリエッタ」と題された9つの小さな詩は、『言葉なきロマンス(Romances sans paroles)』に収録され、1874年に出版された。

1874年は、第一回印象派展が開催され、モネの「印象・日の出」から、印象派という名称が生まれた年。
印象派の画家たちからの直接的な影響はないとしても、同時代的な表現法の類似が、ヴェルレーヌの詩との間に見出されることは確かである。

ヴェルレーヌの生涯でいえば、ランボーとのイギリスでの生活が破綻し、ブリュッセルのホテルで彼の手を銃で撃ち、監獄に入れられていた時期。
その頃の詩作はランボーとの相互的な影響作用で、音楽性がもっとも強く打ち出されていた。「何よりも先に音楽を」と歌った「詩法」が書かれたのも、1874年。
https://bohemegalante.com/2019/06/16/verlaine-art-poetique/

「詩法」の中で、詩句を音楽的にするためには奇数の音節数が大切だとしている。「忘れられたアリエッタ その1」は、全て7音節の詩句からなり、奇数音節が実践されている。

日本で最もよく知られているヴェルレーヌの詩の一つは、「巷に雨の降るごとく
/わが心にも涙降る」という詩句で始まる「忘れられたアリエッタ その3」。
物憂げな悲しさ、理由のないやるせなさが、日本的感性と共鳴する。

「忘れられた小曲 その1」を歌い始める前に、ヴェルレーヌは18世紀の芝居のセリフから取られた二行の詩を、プロローグとして引用する。

Le vent dans la plaine
Suspend son haleine.
(Favart.)

風が野原で
その呼吸を止めている。
     (ファヴァール)

何でもないセリフだが、ここにはヴェルレーヌと日本的な感性を繋ぐ糸がある。それは、自然現象と人間の内面が一体化した状態である。

日本では古事記や万葉集の時代から、花鳥風月に人の心を託して、歌が作られてきた。
私たちは、人間と自然は切り離された存在ではなく、人間は自然とともに、自然の中で生きている、という気持ちをずっと持ち続けている。花を歌うことで心を表現する伝統は、今も保たれている。

ファヴァールのセリフでも、野原(pleine)や風(vent)という自然と、人間の内的な動きである呼吸(haleine)が、一つになっている。自然と人間が一つになったこの感覚が、ヴェルレーヌ的感性の根本にある。

そのような状態では、人間が自然に働きかけるという、主体対客体の分離はない。全てが一つの状態。風が吹き、呼吸する。それが歌であり、詩である。

ちなみに、この2つの詩句は5音節。奇数音節が音楽性を生み出すという主張に沿っていて、次に続くヴェルレーヌ自身の7音節の詩句を予告している。

第一詩節では、ヴェルレーヌの詩の原初的な状態が、生のまま表現される。

C’est l’extase langoureuse,
C’est la fatigue amoureuse,
C’est tous les frissons des bois
Parmi l’étreinte des brises,
C’est, vers les ramures grises,
Le choeur des petites voix.

それは、物憂い恍惚感。
それは、愛の倦怠感。
それは、森の全ての震え、
そよ風の抱擁の間を抜ける。
それは、灰色の梢に向かう
小さな声の合唱。

youtubeにはドビュシーが曲を付けた歌しかアップされていない。ここでは、バーバラ・ヘンドリックスの歌を聞いてみよう。

6行のうち4行は、「それは(C’est)」で始まる。
冒頭の語句の反復(アナフォール)がこれほど繰り返されるのは珍しいが、そのことで、一つのことが特徴的に示される。
ファヴァールの詩句でも触れたように、動作の主体となるものがあり、それが客体に対して働きかけることで、何かが生まれるのではない。能動的な動きがあるのではなく、すでにあるものがある。全ては最初からそこにある。

存在が動作主体よりも先にあると感じる感性は、対立に基づく西洋的なものとは異質である。そして、日本的だと言える。

『古事記』の冒頭での創造神話にそのことがよく現れている。

「天と地が初めて発した時、高天原に成った神の名は」

成るというのは、何かが神に成るのであって、無から出現するのでもなく、誰かが能動的に作り出すのでもない。自発的に、自然に出来てくるのが、「成る」である。
ここでは、主体と客体の分離はなく、ある物、ある運動(エネルギー)が形を取り、自ずから出来上がり、自発的に連続していく。
そこにあるのは、他動詞的な働きかけではなく、自動詞的な成り行きである。
https://bohemegalante.com/2019/02/26/genese-de-la-beaute-japonaise/5/

ヴェルレーヌの詩句でも、C’estの動詞はêtre(ある)であり、その後に続く4つの要素は、自然にできあがっているもの。

最初の2つの詩句では、まだ何もなく、感覚だけがある。
「物憂い恍惚感」と「愛の倦怠感」。
それぞれの最後に置かれた単語 langoureuse / amoureuseは、音的に ourueseが同じであり、非常に豊かな韻を形作っている。

また、extaseの[a]の音が、次の行ではla, fatigue, amoureuseの中で繰り返され(アソナンス)、音楽的なリズムを生み出している。

3行目のc’estの後ろの単語は複数形(frissons)であり、文法的にはce sontと複数形でないと、誤りと考えられるかもしれない。しかし、単数に置かれていることで、frissonsでなく、c’estに注意を引きつける効果がある。

3行目から6行目では、木、枝、そよ風という自然の事物に言及される。そして、ファヴァールの詩句と同様に、風の抱擁、梢の間の声という表現が、自然と人間の分離していない世界を示す。
風に吹かれて木々が震え、枝の音が声となり、歌が歌われる。

ヴェルレーヌの詩とは、こうした小さな声の合唱なのだ。

第2詩節では、原初の歌が様々な表現に展開する。

O le frêle et frais murmure !
Cela gazouille et susurre,
Cela ressemble au cri doux
Que l’herbe agitée expire…
Tu dirais, sous l’eau qui vire,
Le roulis sourd des cailloux.

ああ、か弱く新鮮なつぶやき!
それは、ピーチク歌い、ヒューと鳴く。
それは、優しい叫びに似ている、
揺れた草が最後に発する叫び。
君なら言うかも知れない、くねりながら流れる水の下で、
小石たちが音を立てず揺れている、と。

小さな声の合唱が、生まれたばかりで、ひっそりとしたささやき声だと言い換えられる。そして、次々に具体的なイメージを与えられていく。

第2詩句と第3詩句の最初に、Celaが先頭で反復され、アナフォールになっている。このCelaは前節のC’estを置き換えたものだが、状態から動きへの進展を促している。
C’estの動詞はêtreで状態を示していた。Celaは代名詞であり、動詞を必要とする。実際、gazouiller, susurrer, ressemblerという動詞が続き、動きが与えられ、具体化されていく。

gazouillerは鳥の鳴き声を思わせる。ここでは、鳥を連想させるためにピーチクというオノマトペを入れた訳語にした。
susurrerは、口笛のような小さく高い音を思わせる。
掘口大學の訳では、「虫のごと忍び泣く」となっている。彼はgazouillerを「鳥のごとささ鳴きし」としているので、虫のイメージを付け足したかったのだろう。ただし、susurrerは高い音なので、ひそかな忍び泣きとは違う音だろう。

次にCelaがもう一度繰り返され、草が揺れて立てる音を喚起する。expirerは息が絶えるという意味なので、風に吹かれ始めたときではなく、風が止み、草の動きが止まりそうになった時の、小さな音なのだろう。
その際、叫び声criと穏やかなdouxという言葉が重ね合わされ、ちょっとしたオクシモロン(矛盾する言葉の組み合わせ)が使われている。

5行目の詩節の最初に、いきなり君tuが出てくる。それが誰なのか、どこにも記されていない。誰だかわからないのだが、とにかく、話しかける相手が意識化されていることはわかる。

この詩を書いた時期、ヴェルレーヌの同伴者といえばランボーだった。そこで、ランボーに向かって、「君ならこう言うだろうね。」とヴェルレーヌが言ったのか、あるいは言うことを想像していると考えることも可能だろう。

「君」なら、密かな歌は、小川の底にある小石たちが、何かの拍子に揺れて立てた音だと言うかもしれない。
このイメージは、それまでの自然な発想とは違い、かなり無理がある。水が流れて石が揺れたとしても、ぶつかる音は聞こえない。音が聞こえるとしたら、視覚のイメージが聴覚を刺激し、音のイメージを生みだしたことになる。五感の一つが別の感覚と連動する共感覚だ。
ヴェルレーヌもランボーも、ボードレールに続き、詩の原理として共感覚を用いた。しかし、水中の中の石の音は現実的ではなく、その意味で、こうしたことを言うのは、ランボーの方が相応しいと考えることもできる。

このようにして、第2詩節では、原初的なつぶやきが、鳥や草や小石などの音として展開された。それら全てがヴェルレーヌのアリエッタの表現である。

第3詩節では、自他が分離する始まりが描かれる。

Cette âme qui se lamente
En cette plainte dormante
C’est la nôtre, n’est-ce pas ?
La mienne, dis, et la tienne,
Dont s’exhale l’humble antienne
Par ce tiède soir, tout bas ?

この魂が嘆きの声を上げている、
まどろむ草原で。
それは、私たちの魂ではないだろうか?
私の魂? 君の魂?
慎ましやかな祈りが漏れ出している、
この生暖かい夕べ、ごく小さな声で。

第3詩節は、「この魂」から始まる。
第1詩節では、主体と客体の分離が行われていず、全てが一つの状態としてあった。C’estの状態。
「この魂」という言葉は、その状態から主体が分離し始め、魂を外から見、「この」と名指していることを暗に示している。

しかし、まだ完全に目覚めた状態ではなく、うつらうつらとまどろんだ状態。そこで、なぜかわからないが、嘆きの声を発する。
「巷に雨の降るごとく」で始める「忘れられたアリエッタ その3」の中では、自分の心は苦しんでいるが、その理由がわからないと歌われる。
それと同じように、なぜかわからない。理由がわからないからこそ、けだるく、物憂い悲しみはいつまでも続き、収まることがない。

悲しみは、どこから生まれるのか?
ヴェルレーヌは最初、「私たちの魂なのか」と言い、次に、「私の魂なのか、君の魂なのか」と自問する。こうして、「私」という存在が、原初の状態から分離し、「私たち」からも分割される。

最初に「私」が存在し、他に働きかけるのが西欧的な思考のあり方だとすると、ヴェルレーヌは非西欧的な魂の持ち主だということになる。
そのあり方は、自己が共同体から明確に分離しない状態を原点とする日本的なあり方と似ている。
小雨が降るとき、外の世界の客観的な状況としてではなく、心の内にも感じ、シトシトとオノマトペで表現する世界。
https://bohemegalante.com/2019/04/26/japonais-onomatopee/
ヴェルレーヌの詩心は、しっとりとしたウチの世界を歌にする。

彼は最後に自分の詩を、慎ましやかな祈りl’humble antienneと表現する。
慎ましいという形容詞は、華やかさではなく、ひっそりと佇む美を評価する日本的な感性を思わせる。
祈りの密やかな声や夕べの生暖かさも、はっきりとせず、おぼろげな雰囲気を愛する日本的な美意識と対応する。

西欧的な思考では、まず最初に主体と客体が個として存在し、主体が客体に働きかけることで、物事が生み出される。最初にあるのは、個の自立と対立の構図である。
それに対して、日本的な思考では、全てが渾然一体の状態で存在し、個の発生はその後から行われると考えられる。対立ではなく、和が根本としてある。

ヴェルレーヌ的感性は、対立ではなく和をベースにし、朗らかさよりもしっとり感を好む。とすれば、彼はフランスに生まれながら、なぜか日本的なセンスを持った詩人といえるだろう。

「忘れられたアリエッタ その1」は、「物憂い恍惚感」というヴェルレーヌの詩心の根本的な状態を最初に提示し、彼の詩が「慎ましやかな祈り」であると明かすことで終わる。この小さな詩の中で、詩の原理全体がささやかれているのである。耳をそばだてて詩の言葉に耳を傾けると、その息吹が感じられる。

「忘れられたアリエッタ その1」を通して、ヴェルレーヌは自分の詩がどのようなものであるかを歌っている。

1)慎ましやかな祈り(Antienne)は、魂(âme)から湧き出してくる。

2)魂は愛のまどろみの中で、物憂い状態にある。
その状態は、extase, fatigue, qui se lamente dans cette plaine dormanteで示される。

3)魂から湧き出してくる歌は、マイナー(短調)で、非常に微妙な響きを持つ。それが以下の単語で示される。
frissons, brises, chœur des petites voix,
murmure, cri doux,
gazouiller, susurrer, expirer
tout bas

4)歌われる世界は、聴覚と視覚、触覚が互いに対応している世界。
frissons des bois, ramures grises,
le frêle et frais murmure, l’herbe agitée
l’eau qui vire, le roulis sourds des cailloux
tiède soir,

5)そこでは、私やあなた、木々や小川が独立してあるのではなく、すべてが一つ(無=全)の状態にある。
そして、そこから徐々に、ce – nous – je – tuへと分離していく。

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