印象派と浮世絵

19世紀後半、ヨーロッパでは、ルネサンス以来続いてきた芸術観が大転換を迎えた。
現実にあるもの(la nature)を模倣(imiter)、あるいは再現する(représenter)ことを止め、新たな美を生み出そうという動きが始まる。
まさにその時期、浮世絵が知られるようになり、とりわけフランスの絵画に大きな影響を及ぼした。

他方で、私たちは21世紀になった現在でも、伝統的な芸術観に多くを負っている。ルネサンスに生み出された遠近法に基づき、3次元空間を前提にした物の見方をしているといえる。そのため、19世紀に戸外に出て自然をスケッチしたバルビゾン派の絵画(ただし、制作はアトリエの中)と、印象派の絵画の断絶があまりわからない見方をしてしまっている。

Théodore Rousseau, Les Chênes d’Apremont
Alfred Sisley, La Seine à Bougival

テオドール・ルソー(バルビゾン派)もアルフレッド・シスレー(印象派)も、風景をそのまま写生した絵画だと思い込んでいないだろうか。
もしそうだとしたら、印象派絵画の革新性も、浮世絵が何をもたらしたのか、わからないことになってしまう。

スージー・ホッジは『印象派の画家のように描く』(Peindre à la manière des Impressionnistes, Eyrolles, 2004)の中で、ジャポニスムの影響を受けている絵画として、次の3点を最初に挙げている。

Degas, Femme se coiffant
Van Gogh, Portrait du père Tanguy
Manet, Terrasse à Sainte Adresse

ゴッホに関しては、日本風に描くという項目が設定され、次の2点が取り上げられている。

Van Gogh, Autoportrait à l’oreille bandée
Terrasse de café, la nuit

これらの絵画が日本的に描かれていると言われても、よくわからない。浮世絵の影響があるとしたら、どのようなところなのだろうか?

印象派絵画は、次の点で伝統的な芸術様式と異なっている。
1)色彩
2)線(デッサン)
3)構図
4)テーマ
5)効果:本当らしさの減少、装飾的(グラフィティアート的)印象

これらの点を順番に見ていこう。

色彩について

印象派の絵画の技術的な側面で、すぐに目に飛び込んでくるのは、色彩の明るさ。最初に比較した、テオドール・ルソーとシスレーの絵画を見ると、一方は暗く、他方の明るさが際立っている。

伝統的な絵画では、パレットの上で絵具を混ぜ、微妙な色彩のニュアンスを作り出していた。絵具を混ぜると、色は暗くなる。
印象派の画家たちは、パレット上で絵具を混ぜることをせず、原色をそのまま画面に置くという手法を用いた。そのために、色彩はとても鮮やかになった。
その印象派の色彩感覚は、浮世絵の色彩と対応している。

モネの「ラ・ジャポネーズ」。真っ赤な打掛を着、団扇を手にして舞うのは、妻のカミーユ。打ち掛けの刺繍の柄は武将の姿をした役者だと思われ、後ろの壁にかかる団扇にも浮世絵らしい絵が描かれている。そうした日本的な題材だけではなく、色の使い方もヨーロッパの伝統的な技法とは違う要素が見られる。

Monet, La Japonaise

最初の浮世絵師といわれる菱川師宣の「見返り美人図」をモネは見ていたのだろうか。

菱川師宣「見返り美人図」

「見返り美人図」では明暗法が使われず、色彩のグラデーションがない。そのために、色と色が隣接している。こうした描き方は、ヨーロッパの伝統的な絵画の技法にはなかったものである。

モネは、若い画家たちに、自分たちが知っていることではなく、目に見えるままのものを描くように、アドヴァイスしたという。
光に照らされた緑の木があるとする。
知っていることというのは、見えてくるものが木だということ。そして、木の葉は緑だということ。
そこでは、物にはそれぞれ固有の色がある、という考え方がベースになっている。
では、知っていることを通さないと、木はどのように見えるのだろうか。
光に照らされた部分は白っぽい楕円形のかたまり、影の部分は深い緑色の三角形等といったように、色の集合体として目に入る。
同じ緑でも、赤い色の横にある時と、白っぽい光に照らされた部分で、違って見える。
物の色は、隣接する色との関係で変化するという考え方がベースになっている。モネは、この視点に立って、光の変化によって瞬間毎に変化する、目に見えるままの世界を捉えようとした。

そのような現象を画布の上に定着させるための手段として、原色を用いると同時に、補色の理論が適用されたといわれている。
19世紀は色彩学が発展した時代。その中でも、シュヴルール(Michel-Eugène Chevreul)による「色彩の同時対比の法則(la loi du contraste simultané)」は影響力が大きかった。その中心には色相環がある。

Chercle chromatique

輪の反対に位置する色が、補色。
赤ー緑:オレンジーブルー:黄色ー紫
ブルー系の色は、冷たく、対象を遠くに見せる。
赤系の色は、暖かく、対象を近くに見せる。
補色の組み合わせは、互いの色を引き立て合う相乗効果があると考えられている。

印象派の画家たちは、こうした色彩の理論に基づき、光のスペクトルの7色をそのまま用い、それらを隣接させることで、目に見えるままの世界を捉えようとした。
ただし、光のプリズムでは7色を混ぜると白くなるが、絵の具ではその逆に、色を混ぜると彩度が落ち、暗くなる。そこで、明るい光を表現することを目指した画家たちは、パレットの上で絵の具を混ぜず、画布の上に原色をそのまま並べた。この画法が「筆触分割」と呼ばれている。

ルノワールの「編み物をする女性」では、絵具の元の色がそのままキャンバスの上に置かれ、少女の上にさしかかる光が明るく輝いて見える。

Auguste Renoir, Femme au crochet

モネの「アルジャントゥイユのひなげし」では、赤と緑が隣接し、色彩の作り出す調和が見事に表現されている。

Monet, Coquelicots à Argenteuil

色彩に関して、もう一つ注目したいことは、白と黒についての考え。
白は、全ての色彩を含み、赤、緑、青の3つの光を混合することで実現できる。
それに対して、黒は色彩のない状態で、自然には存在しない考えられる。
従って、黒はわずかなアクセントを付け加える時にしか用いられてこなかった。

影や闇などにも必ず何らかの色があると考え、影に色を見出した最初の画家といわれているのが、ウージェーヌ・ドラクロワ。
印象派の画家たちにとりわけ高く評価されている。

Femmes d’Alger(部分)

右上の窓から入る光に照らされた部分は、光と影のコントラストが見事に表現されている。影になった部分も決して黒ではなく、光の当たる部分とは別の色彩で、模様が描かれている。
窓の下に座る女性の左腕に当たる光は、驚くほど精密に描き分けられている。強い光、弱い光。影も同じように濃かったり、薄かったりする。
ドラクロワは、影は黒ではないことを発見し、目に映ったままの色彩を用いた。
ただし、明暗法が使用され、繊細な色彩のグラデーションが見事な効果を発揮していいることも確かである。

他方、印象派の画家たちは、ドラクロワとは異なり、明暗法を用いない技法を開発した。色彩のグラデーションを犠牲にし、補色調和の理論に基づき、原色をそのまま用いることにしたのだった。
その結果、画布の上で色と色が衝突し、なめらかさはなくなった。しかし、その代償として、色の強度が強まり、絵画全体の明るさが得られた。

明暗法による微妙な色彩のグラデーションの例として、ラファエロを見てみよう。女性の肌の自然さや、右側の肩と腕の盛り上がった感じには、明暗法の効果が最大限に発揮されている。

ラファエロ、ラ・フォルナリーナ

ラファエロの絵画は、モデルその人がそこにいるかのように見える。
この絵画では、背景は暗い葉で覆われ、その前に座る女性は明るい色彩で描かれている。そのコントラストが、女性を背景から浮かび上がらせ、立体感を与えている。
左からは光が当たり、明暗が徐々に変化し、その見事なグラデーションが、女性の自然な量感を産み出している。

ラファエロの自然な印象を与える絵画を見た後で、ゴッホを見ると、絵具のかたまりがそのまま塗りつけられているような印象を受ける。

Van Gogh, Autoportrait à l’oreille bandée

顔を形作る色のかたまりの使い方は、後ろの壁の浮世絵と対応している。
ゴッホは、自分の画法のインスピレーションの起源をこのようにして示したのではないだろうか。
ちなみに、この浮世絵は、佐藤虎清の『芸者』に近いと言われている。

佐藤虎清『芸者』

『芸者』には明暗法は使われず、それぞれの色が独立している。
伝統的な絵画を見慣れたゴッホの目には、そこでの色の使い方は、色のかたまりの集合と見えたに違いない。
その技法を用い、自分の顔もマントも描けば、いかにもゴッホ的な絵画になる。

19世紀の後半、印象派の画家たちは、伝統的な絵画の刷新を目指して創作活動を行っていた。その時、当時の色彩の理論に基づくだけではなく、日本から入って来た浮世絵が斬新な美として広く受け入れられた。
その影響の下、色彩の面では、明暗法を放棄し、原色を隣接させるという技法が生み出されることになった。

線(デッサン)について

印象派絵画は、伝統的な絵画を刷新するために、色彩だけではなく、デッサンに関しても、浮世絵からインスピレーションを得た。

浮世絵の歴史の中で比較的初期に位置する懐月堂安度(かいげつどう あんど)の「立姿美人図」。人物の顔や手足、着物の柄が、簡潔な筆線で描かれている。その中で、顔や、とりわけ着物を縁取る黒く太い輪郭線は印象的である。

懐月堂安度、立姿美人図

喜多川歌麿の「更衣美人図」になると、顔の輪郭線はなくなる。その一方で、ゆるやかな輪郭線が、無地の背景の上に、柔和な女性の体が浮かび上がらせている。

喜多川歌麿、更衣美人図

このように、多くの浮世絵では輪郭線がはっきりと描かれているのがわかる。浮世絵を見慣れた目から見ると、そこに不自然さは感じない。

では、マネの「笛を吹く少年」はどうだろう。
輪郭線の強調、背景の無地。この絵画は西洋の伝統を逸脱している。
そして、日本の浮世絵と類似している。

Manet, Le Joueur de fifre

黒い上着を縁取る線は同じ黒が使われ、それほど目立つとはいえない。しかし、茶色系のズボンを囲む輪郭線は黒く、そして太い。マネはあえて輪郭線を強調していると考えてもいいだろう。しかも、背景は無地。

ヨーロッパ絵画の伝統の中で、輪郭線の果たした役割は大きい。絵画は対象を画布の上に再現する芸術であり、色彩よりもデッサンに重要性が置かれていた。
その伝統に反抗したドラクロワが、デッサンよりも色彩を重視し、輪郭線を用いないことが一つの革命だったという事実は、逆接的に、輪郭線の重要性を示している。
しかし、マネのように、不自然なまでに輪郭線を強調することはなかった。フランソワ・ブーシェの「ポンパドゥール夫人」は、細部まで描き込まれ、質感が見事なロココ絵画の傑作。

François Boucher, Madame de Pompadour

細部になればなるほど、デッサンが重要になり、線によってものの形を明確に描き出さないといけない。しかし、輪郭線の存在は感じられず、全てが自然に感じられる。
「笛を吹く少年」で輪郭線が不自然に強調されているのとはまったく異なっている。逆に言えば、マネはあえて西洋絵画の伝統に反した画法を用いていることが理解できる。

勝川春英の役者絵「三代目市川八百蔵」は、柔和な線が使われ、役者の動きを活き活きと描き出している。

勝川春英、三代目市川八百蔵

デッサンの面白さを最大限に示したのは、東洲斎写楽だろう。写楽は、顔と体の特色を誇張し、戯画化して表現する。そのことで、役者の本性に迫ることが問題だったといわれている。

写楽、中山富三郎の筑波御前

写楽は、この一枚で、寄る年波のために衰えの見える人間の姿を暴いたといえる。
この皮肉な戯画は、ロートレックのデッサンに通じている。

Toulouse-lautrec, Yvette Guilbert

このように、デッサンや輪郭線の扱いという側面でも、浮世絵が印象派の画家たちにインスピレーションを与えたことが確認できる。

構図(遠近法)について

私たちはすでに印象派以降の絵画を見慣れた目を持っているために、モネが描いた睡蓮の連作を見ても、ロートレックのポスターを見ても、驚くことはない。しかし、19世紀後半には、彼等の絵画は革新的なものだった。
そのことは構図の面からも確認できる。

Monet, Nymphéas
Lautrec, Divan japonais

モネの睡蓮には焦点となるものがなく、全てが平面的で均等に配置されている。ロートレックの「ディヴァン・ジャポネ」では、空間の中央がカウンターによって区切られ、画面が完全に2分割されている。
こうした構図は、ヨーロッパ絵画の伝統から逸脱している。

ヨーロッパの伝統的な絵画は、ルネサンス以来、二次元の画布に三次元の空間を再現することが基本であり、擬似的な現実空間を作り出すために明暗法や遠近法等が用いられた。

透視図法(perspective)に基づいた構図は、人間の視点から眺めた奥行きのある光景を画面の上に作り出す。その際、画面上の平行線は遠くに伸びていくに従って消失点に近づく。その消失点が構図の中心になる。

こうした構図を見事に用いた例を、クロード・ロランの絵画で見てみよう。

Claude Lorrain, Ulysse remet Chryséis à son père

この「ユリシーズがクリューセーイスを父の元に送り届ける」では、画面の中央を占める大きな船の後ろに消失点がある。その消失点が、画面上に拡散する光の光源である。そして、その太陽を描かないところに、この絵画の神秘性が隠されている。

遠近法に基づく構図が基本であった時代、モネの睡蓮を前にして、観客はどこを中心に見ていいのか戸惑ったことだろう。全てがベタに並べられていて、中心がないように見える。

実は、こうした構図は日本の絵画の伝統である。平安時代に生み出された大和絵には、中心がない。

山川屏風

浮世絵の起源とされる室町時代後期や江戸時代初期の風俗画にしても同じことである。例えば、狩野長信の「花下遊楽図屏風」。

狩野長信、花下遊楽図屏風

こうした絵画では、左右は非対照的で、バランスが悪いと感じられるかもしれない。中心と非中心の区別がなく、密と粗(le plein et le vide)の区別もないように感じられる。視点を消失点に導くことがなく、どこに絵画のポイントがあるのか指定されていないからである。逆に言うと、中心がないために、全ての部分に目がいくことになる。

歌川広重の「亀戸梅屋舗」は、しばしば「ディヴァン・ジャポネ」の構図の元になっているといわれる。大きな木の枝が画面を中央で分断し、透視画像的な遠近感はない。

歌川広重、亀戸梅屋舗

葛飾北斎の「鶯と垂桜」は現代のグラフィック・アードのようであり、奥行きはなく、装飾性が強く打ち出されている。

葛飾北斎「鶯と垂桜」

ただし、浮世絵に遠近法が使われないということはない。1716年から始まった享保の改革で西洋の学術が解禁になった。そして、18世紀の終わり頃、蘭学者の杉田玄白たちによる『解体新書』の翻訳が刊行されたのと同じ時代、司馬江漢たちは、平賀源内を通じて西洋画法(遠近法、明暗法、油彩等)を学び、日本で最初期の洋画を描くようになっていた。

司馬江漢、三囲景

洋画だけではなく、浮世絵の方でも遠近法が用いられたことは、奥村政信や北尾政美の版画からも見て取ることができる。

奥村政信、芝居狂言浮絵根元
北尾政美、浮絵 仮名手本忠臣蔵十段目

葛飾北斎の「かうつけ佐野ふなはしの古づ」では、遠近法に基づいた構図が用いられ、奥行きの表現が素晴らしい。
画面の中央を蛇行する橋は、遠くまで伸びている。手前の松は、彼方の山との対比によって奥行きを作り出すだけではなく、橋の先端と交差し、山の端の消失点を示している。
北斎の浮世絵は、西洋画の技法を用いながら、日本的でもあるために、多くのフランス人を惹きつけたのかもしれない。

葛飾北斎、かうつけ佐野ふなはしの古づ

浮世絵の構図に遠近法が用いられているものがあることは、19世紀後半のヨーロッパで、浮世絵が伝統的な日本の絵画よりも広く受け入れられた要素の一つではないだろうか。もし西洋絵画と全く異なった描き方をした大和絵的なものだけが輸入されたのであれば、ジャポニスムの波は起きなかった可能性がある。同じものの基盤があったからこそ、異質なものが奇抜さ、斬新さとして受け入れられたのではないか。

そうした視点で、ゴッホの「夜のテラス」を見ていこう。

van Gogh, Terrasse du café le soir

この絵画でも、遠近法が用いられ、視線は奥に伸びいく。
しかし、左手に置かれた黄色のカフェテラスは垂直の線で特徴付けられる一方、右手にある家並みは、ブルー系の色彩が支配的で、窓のオレンジ色が水平に視線を導く。こうした非対照的な構図は、ゴッホの「夜のカフェテラス」の特色の一つでもあり、浮世絵からインスピレーションを得た可能性がある。

この絵画は、アルルにあるカフェの夜の風景を描いているという意味では、現実を再現する写生と考えられなくもない。しかし、ゴッホの意識は再現にはなく、非対照的な構図に則り、新しい時代の絵画技法を試みることだったに違いない。浮世絵の構図は、そうした意識を持った画家たちにヒントを与えたと考えられる。

テーマについて

フランスでは19世紀に入り、芸術観が大きく変化した。それまでの古典主義に対してロマン主義の運動が起こり、世紀の後半になるとさらに大きな変革が行われた。
日本の絵画や陶芸品が熱狂的に迎えられ、ジャポニスムと呼ばれる流行が起こったのは、まさにその時代だった。
浮世絵に関しては、色彩、デッサン、構図だけではなく、描かれるテーマに関しても、当時のフランスの芸術観に適合していた。

古典主義美学では、絵画はテーマに応じて優劣が決まっていた。宗教や神話を描いた歴史画は上位に位置し、肖像画、風俗画、静物画、風景画は低いジャンルと見なされた。そのジャンル分けに応じて、使用される画布の大きさが決まるほど、その伝統は強いものだった。
19世紀前半のロマン主義は、そうした古典主義美学に反対する運動として始まった。新しい時代にはその時代の社会風俗をテーマにすべきという思想に基づき、ルイ・ド・ボナルドは、「文学は社会の表現である」と主張。スタンダールも、『ラシーヌとシェークスピア』というロマン主義宣言の中で、現代の観客には現代をテーマにした芝居を提供すべきだと論じた。

絵画のテーマでも、同時代の出来事が扱われるようになる。ロマン主義絵画の先駆けとされるジェリコの「メデューズ号の筏」は、1816年に起こった実際の海難事故を描いている。ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」は、1830年の7月革命をテーマとした巨大な絵画である。

 Géricault, Le Radeau de la Méduse
Delacroix, La Liberté guidant le peuple

さらに、身近な庶民生活を描く画家も現れる。例えば、オノレ・ドーミエ。彼の「三等客車」は、貧しい人々の様子を飾るところなく描き出している。

Daumier, Le Wagon de troisième classe

こうした流れの中で、19世紀の中頃から、シャルル・ボードレールはパリの庶民生活を対象にした詩を描き始め、モデルニテという美学を主張するようになる。時代によって移り変わる生活情景をテーマすること。その一方で、永遠を捉えること。「モデルニテとは、一時的なもの、儚いもの、偶発的なものであり、それが芸術の一つの面。他の面は、永遠で、不動のもの。」(「現代生活の画家」)そうした画家の代表として、コンスタンタン・ギースを挙げる。

Guys,Femme espagnole

移ろいやすい同時代の生活情景とは、貧しい庶民の生活であり、パリの街の暗黒の側面にほかならない。実際、ボードレールは、犯罪者や娼婦などを主題にした詩を書き、「美は常に奇妙なものである。」(« Le Beau est toujours bizarre. »)と宣言する。

神話や宗教が高貴な主題だった時代から、悪所がテーマになる時代へ。
こうした芸術観の変化の中で、浮世絵がとりわけフランスで受け入れられ、評価されることになった。

「うきよ」とは、元来、「憂世」と書かれていた。人間が救われるのは来世であり、この世は苦しみに満ちた憂いの場という、厭世的な人生観を反映してのことだった。それに対して、近世になると、現実は儚く辛いからこそ、楽しく浮き浮きと暮らそうという人生観に変化した。そこで、「うきよ」は、憂世ではなく、浮世と書かれるようになる。

浮世絵が描く浮世の代表は、当時の二大悪所であった遊理と芝居町であり、そこで描かれるのは美人画と役者絵だった。(後は名所絵。)
こうした絵画は、庶民感覚にあふれ、規範の道徳からはずれたところに美を見出す傾向があった。

歌川国貞、難有御代賀界図
歌麿、あわび取り

歌川国貞の「難有御代賀界図」が描き出す、淋しげな女の後ろ姿。喜多川歌麿の三枚続きの「あわび取り」で描かれる、肌を露出した女たちの姿。時代の生活情景を捉えたこれらの姿は、ドガのバレリーナやロートレックの描く場末の女たちを連想させる。

Degas, Femme se coiffant
Lautrec, la toilette

これらの絵画では、憂世を生きる庶民の姿を美化せずに描き出し、それだからこそ現代的な美を生み出している。
印象派の画家たちも、浮世絵師たちも、ボードレール的に言えば、現代生活の画家なのだ。

効果について:装飾的印象、再現性の減少

19世紀後半における芸術観の大変革で最も大きな問題は、「再現性」。
ルネサンス以来、絵画は三次元の現実(la nature)を二次元の画布上に再現することが基本になった。その錯覚を可能にするのが、遠近法や明暗法(キアロスクーロ)等の技法。描かれた事物は立体的で、色彩もなめらかに変化し、いかにも自然らしく見えるようになる。

19世紀後半に生まれつつあった芸術観は、そうした模倣芸術であることをやめようとした。そのために、遠近法的な構図を壊し、原色をそのまま隣接させることで色彩そのものの効果を生み出そうとした。自然さの破壊を狙ったといっていいだろう。

ところが、反「再現性」はなかなか理解されない。
印象派の絵画にしても、物の形ではなく、光を捉えようとしたとしばしば言われるが、しかし、物が描かれている限り、再現と見てしまう習慣ができあがっているからだ。実際、『江戸芸術論』の中で、永井荷風は、「浮世絵と西洋画とは共に写生を主とする点において相似なる所あり。」と書いている。写生とは現実の再現である。

ジャポニスムの流行した時代、日本絵画の本流である狩野派等ではなく、浮世絵が圧倒的に受け入れられた理由も、そのことと関係している。

マネの描くエミール・ゾラの肖像画を見ると、背後には2枚の日本画が見られる。

Manet, Portrait d’Émile Zola

1枚は浮世絵。初代歌川国明による『大鳴門灘右ヱ門』。(これまで二代目歌川国明とされてきましたが、初代だという。)
もう1枚は琳派らしき屏風画。西洋画の伝統とは対極に位置する絵画だといえる。
屏風画の存在は、浮世絵だけではなく、大和絵の伝統を継ぐ日本の絵画も、19世紀後半のヨーロッパに伝えられていたことを物語っている。

初代歌川国明、大鳴門灘右ヱ門
尾形光琳、竹梅図屏風

江戸時代の中期には西洋からの文物が解禁され、日本でも18世紀の終わりには洋画が描かれるようになっていた。その影響の下で、遠近法を用いた浮世絵も描かれた。そうした要素があったために、ヨーロッパで浮世絵が受け入れられやすかったに違いない。

その上で、浮世絵には、ヨーロッパ絵画の伝統とは違う部分がある。絵画的な効果の面から言えば、立体感が乏しく、色彩は自然であるよりも、装飾的。物の姿が自然に描かれているというよりも、色彩や構図の効果を狙った絵という印象を与える。

こうした点は、印象派に続く時代の表現によりはっきりと現れることになる。例えば、アルフォンス・ミュシャのポスター。

Mucha, Printemps

春の女神を忠実に再現するのはなく、描き出された女性や花々の美的効果が、このポスターの目的である。

ピカソになると、再現性はほぼ放棄される。

印象派の画家たちが浮世絵から吸収した、色彩の分離、輪郭線、構図等の技法が極端にまで押し進められると、こうした絵画ができあがることになる。
ピカソの1枚が示すのは、19世紀後半における芸術観の大変革の一つの終着点だといえる。

浮世絵を通して見る印象派絵画

ゴッホの「タンギー爺さん」の背景は、浮世絵で埋め尽くされている。この作品から、印象派絵画の見方について考えていこう。

Van Gogh, Père Tanguy

ここに描かれているのは、モンマルトルで画材屋を営んでいたジュリアン・フランソワ・タンギー(1825-1894)。彼は売れない画家たちの絵を引き取る代わりに絵具を提供したり、医師ポール・ガシェ達との仲介役をしていた。
そのタンギー爺さんをモデルとしてゴッホが描いた肖像画の1枚が、この絵画である。肖像画というからには、モデルを再現し、似ていることが一つのポイントになる。実際、その顔は写真の顔を彷彿とさせる。

では、ゴッホは、従来通りの肖像画を描こうとしたのだろうか。

その答えのヒントが、背景を浮世絵で埋め尽くした構図等に秘められている。
画面の中央に真正面から描かれている人物のすぐ後ろに置かれた6枚の浮世絵は、背後の空間の奥行きをなくし、絵画に平面的な印象を与えている。
原色の使用、色のコントラスト等は、人物も浮世絵も同じ色彩感覚で描かれている。

左右に花魁の絵が二枚。
左は歌川豊国の「三浦屋の髙尾」。

歌川豊国、三浦屋の髙尾

右は渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」。この絵は、1886年5月発行の『パリ・イリュストレ』誌の日本特集の表紙を飾った。その際、左右が反転していた。ゴッホは雑誌の表紙と同じ方向で女性を描いていることから、雑誌の表紙に従ったと考えられる。

雲龍打掛の花魁

後の4枚は、日本の美意識の中心的な概念である四季を描いた絵。
左下にあるのが、「東京名所 いり屋」を描いたちりめん絵(クレポン)で、朝顔の夏。
左上は、雪景色の冬。対応する浮世絵は見つかっていないが、歌川広重の「吉原日本堤」か渓斎英泉の「吉原の夜雨」に、ゴッホが雪を降らせたのではないかと考えられている。

入谷
歌川広重、吉原日本堤
渓斎英泉、吉原の夜雨

中央の上部に置かれた富士山は、歌川広重の「富士三十六景 さがみ川」で、秋の風景。
右上は、同じ広重の「五十三次名所図会」四十五番目、「石薬師 義経さくら範頼の祠」。題名の通り、春の絵。

広重、さがみ川
広重、義経さくら範頼の祠

ゴッホは、浮世絵からある学びを得たという。その学びとは、以下の言葉に集約される。
「一茎の草が、やがて、ありとあらゆる植物を、ついで四季を、風景の大きな景観を、最後に動物、そして人物を素描させることになる。(中略)あたかも自分自身が花であるかのごとく、自然のなかに生きる日本人がわれわれに教えてくれることは、ほとんど新しい宗教といえるほどだ。」

こうした言葉から、「タンギー爺さん」の背景を浮世絵で埋め尽くした理由を推測することができる。ゴッホは異国の絵画技法を取り入れ、日本的自然観を絵画に注入しようとした。それは人も動植物も山や川も一つの生命体と捉える世界観といってもいいだろう。浮世絵がそうした世界観の表現であるかどうかは別にして、ゴッホが読み取ったのはそうしたことだった。

絵画が現実の再現を目指すのをやめ、新たな芸術観へと向かおうとしていた19世紀後半、日本の芸術が一つのヒントを与えたことになる。そのことが、ジャポニスムのブームを生み出したといえる。

絵画の描き出す世界が疑似現実ではなく、まったく新しい世界であるという認識。それは、文学の世界では、ボードレールやランボーが「未知なるもの」を美として産み出そうとした試みと繋がる。
見る者の側から言えば、一枚一枚の絵画をその都度「未知なるもの」として見ること。それが新しい芸術観になる。

Monet.Terrasse à Sainte Adresse

モネのこの1枚を単なる風景画として見ないこと。構図や色彩そのものを見つめ、新たな美を見出すとき、私たちも伝統に縛られない絵画の見方を身につけたことになる。

印象派絵画における再現性について

印象派の画家たちには、現実にある物の形を再現しようという意図はなかった。しかし、その一方で、アトリエを離れ、野外で制作を行い、外光派を呼ばれることもあり、写生を連想させる可能性もあった。彼等が捉えようとしたものが形ではなく光だったとしても、彼等の描いた映像が擬似的な現実に見えることも多い。

クロード・モネが晩年を過ごしたジヴェルニーの庭には、睡蓮のモデルになった実際の風景が残っているとされ、庭には日本風の橋まである。一般には、モネがその情景を写生した一つの証だと考えられることもある。

睡蓮とジヴェルニーの庭

風景の再現だとすれば、細部まで描き混まれていず、描きかけのまま、あるいは習作という印象を与えることもあるだろう。他方で、再現を意図しないとすれば、現実に似すぎている。こうした曖昧さが、19世紀後半に批判の対象となることがあった。

『居酒屋』等の小説で知られ、美術批評も手がけたエミール・ゾラは、印象派絵画の再現性の低さを問題にし、1879年に次のような批判を展開した。

印象派の画家たちは、時間や天気の数え切れない状況に応じて、自然の変化の様相を研究する。つまり、光を分解し、動く大気、色彩のニュアンス、光と影の偶然の変化等を通して、自然を分析しているといえる。しかし、技巧的に貧弱で、長い時間をかけて、堅固な形体を持つ作品を作り出してはいない。

ゾラにとって、構図やデッサン(線)によって現実を再現することが芸術作品の基本だった。従って、色彩中心で構図への配慮が低い印象派の絵画を、技巧的に貧弱だと断じた。

他方、目に見える物に目に見えない根源的なイデーをまとわせることを趣旨とする象徴主義からは、外形を再現している絵画と見なされる。オディル・ルドンによれば、印象派は、戸外で対象物の外観を再現するたには、適切な絵画技法である。言い換えると、外的な世界で起こる現象のみを対象とする。
他方、ルドンが表現しようとするものは、内なる声、瞑想する人間の内部で鼓動するもの。人間は思考する生物である。光がどんな役割を演じようと、人間の内面の活動を捉えなければ、芸術の意味はない。
結局、人間内部の主観を象徴的に描き出すことを目指すルドンからすると、印象派は外観を再現する流派ということになる。

Odile.Redon, Esprit de la forêt.jpg

ルドンと同じように、ポール・ゴーギャンも、印象派が目指したと彼が考える外観の再現性を批判した。彼にとって、印象派は、色彩の装飾的な効果を研究し、目に見える世界像を再現したにすぎなかった。そして、印象派の画家たちには再現性という足かせがかかっていたので、本当の意味での自由がないと見なした。

Paul Gauguin, La vision après le sermon

ルドンとゴーギャンの絵を見れば、印象派絵画との違いは一目瞭然である。彼等にとって、印象派絵画は対象の再現を目指すという点で、伝統的絵画と同一線上にあった。

しかし、別の視点も可能である。例えば、モスクワで初めてモネの「積みわら」を見たワリシー・カンディンスキーは全く異なった理解を示した。

Claude Monet. Meules, milieu du jour

モネは積みわらを前にして、光の効果が絶えず変化していることを発見し、積みわらの連作を描く決心をしたという。絶えず変化する自然の様相の印象を定着させるためには、一つの効果が変化する度にその絵を中止し、次のキャンバスに向かった。そのようにして、「瞬間性」に到達しようとしたのだった。

「積みわら」を見たカンディンスキーは、このモネの姿勢を直感したのだろう。彼は、今まで見てきた絵画は写実的なものだったが、この時初めて「絵」を見たと感じたという。何が描かれているのかわからないし、画家はこれ以上不明瞭に描く権利はないと思えるほど、この絵から対象が失われている。しかし見る者は印象に包み込まれ、その印象が記憶に刻み込まれる。
カンディンスキー自身の中に潜んでいた色彩の力が明瞭になり、絵画にとって対象が必要不可欠ではないことが理解できたというのだった。

ゾラであれば、モネの「積みわら」は再現性が欠如していると批判しただろう。ルドンやゴーギャンであれば、再現性が強すぎると言っただろう。他方、カンディンスキーは再現性を問題にせず、色彩によって瞬間の印象を定着させるというモネの意図を読み取ったのだった。

カンディンスキーの絵画の変化は、再現性の消滅をはっきりと示している。

Kandinsky, Femme avec un éventail
Vassily Kandinsky La Vache

「扇子を持った女性」では、女性の姿も、手に持った扇子も、それりに見分けることができる。次の「雌牛」と題された絵画になると、どこに雌牛がいるのだろう。形は不明で、色しかない。しかし、何が描かれているのかわからなくて、色彩の力が発揮され、見る者に強い印象を残すことは確かである。

カンディンスキーのコメントと、ゾラ、ルドン、ゴーギャンのコメントを比較すると、印象派の絵画に関して、再現性をめぐって二つの見方が対立していることがわかる。
一方では自然(の外観)を再現しているという見方があり、他方では、対象を再現することを意図しないという見方がある。印象派絵画は、二つの見方をどちらも可能にする。

面白いことに、モネの一つの積みわらは、葛飾北斎の赤富士との関連が指摘されている。

Monet, Meules. soleil couchant
葛飾北斎、冨嶽三十六景 凱風快晴

浮世絵における再現性も、いつか問い直してみる価値のある問題である。

浮世絵の影響の範囲

印象派の画家たちが実際に浮世絵を所有し、多くのインスピレーションを得たことは確かである。しかし、浮世絵が印象派を生み出したと考えるのは、あまりにも日本に偏った視点と言わざるをえない。

印象派絵画は、フランス絵画の歴史の中の一つの時代を画するものであり、アカデミスムが支配的だったサロンに入選できない画家たちの戦いから始まっている。その時期が明治維新前後と重なり、日本から流失した絵画や工芸品がアメリカやヨーロッパで広く知られるようになったのだった。

サロンに対する不満は、19世紀前半のドラクロワ、その後のバルビゾン派、レアリスムの代表であるクールベなど、ずっと続いていた。とくにクールベは1855年の万国博覧会の展示に落選したとき、博覧会場のすぐ横で、自分一人の展覧会を開催した。それが世界で始めた開催された個展だと言われている。
1863年のサロンでは、カバネスの「ヴィーナスの誕生」が高く評価される一方で、前の「草上の昼食」は拒否され、それが落選者展につながった。

Alexandre Cabanel Naissance de Vénus
Manet, Le Déjeuner sur l’herbe

1874年の第一回印象派展が開かれる前年にも、サロンで落選した画家たちが落選者展を開催していた。

アカデミスムに従う画家たちと、新しい美を模索する画家たちの違いは、両者を比べてみるとすぐにわかる。2枚の裸体画の上はサロン入選作。下はルノワール。

William Adolphe Bouguereau. Naissance de Vénus
Renoir. Baigneuse

神話の登場人物、オルフェウスを描いた二枚。

Jules-Louis.Machard.Orphée aux enfers
Gustave Moreau. Orphée

サロンに入選する絵画は、私たちから見ると型にはまり、新鮮さに欠けるように感じられる。一方、ルノワールもモローにも斬新さを感じる。

しかし、マネは決してサロンでの入選を諦めず、印象派展には参加しなかった。また、サロンでも、素晴らしい絵画が展示されることもあった。

Edouard Dantan, Un Coin du Salon en 1880

例えば、1880年のサロンで受理されたルイ・ポワトーヴァンの1枚。

Louis le Poittevin, Les Patenostres du seigneur de Gurzon 

印象派の絵画が、こうした伝統とのせめぎ合いの中から生まれてきたことを忘れてはならない。
そこで問題になるのは、アカデミーの伝統である遠近法、明暗法、構図などに違反しながら、どのような美を生み出し得るのかということだっただろう。その時、浮世絵が一つのモデルになった。大胆な構図、人物も不自然なまでにデフォルメされ、色と色のぶつかり合いがあっても美を表現する異国の絵画。それが浮世絵だった。

歌川広重、深川洲崎十万坪
東洲斎写楽、江戸兵衛

しかし、モデルとなったのは浮世絵に限ったことではなく、スペインの絵画も、イタリアやギリシアの絵画も視野に含まれていた。

さらに、フランスの18世紀美術の復権も忘れてはいけない。
浮世絵のコレクターとして重要な位置を占めるゴンクールは、18世紀フランスの風俗や絵画を中心的なテーマとしていた。実は、19世紀の前半にロココ美術は時代遅れなものと見なされ、ほとんど忘れ去られていた。そのロココを1830年代から再び評価したのが、アルセーヌ・ウセーやネルヴァルたちであり、ゴンクール兄弟はその動きに続いたのだった。

フラゴーナルの「ぶらんこ」はロココの典型であり、アカデミーの伝統に従って描かれている。

Fragonard.Les Hasards heureux de l’escarpolette

遠近法に基づくバランスの取れた構図。色彩のグラデーションの自然さ。同時代の服を着た男女の横にキューピットの像が立ち、神話的な彩りを添えている。
古典主義絵画が型にはまり、凡庸で、退屈だなどということは決してない。

印象派の画家たちは、単にアカデミーの伝統に反抗したのではなく、その硬直に対抗するために、新たな様式を模索したのだ。ルノワールの「ぶらんこ」はその成果の一つである

Renoir.La Balançoire

少女の服の上には白い斑点があり、輪郭もおぼろげになっている。その白い斑点は、光の当たっている部分。私たちは普段、色を自動的に補正しているので、こうした瞬間的な光の効果に気づかない。しかし、実際には、光はこうして事物を照らしている。

彫刻の上に当たっている光は、ルノワールの目が捉えた白い光と同じ。その光の明るさを絵具で表現するのが「筆触分割」と呼ばれる技法で、印象派絵画の特色の一つとなっている。絵具をパレットの上で混ぜて目的の色を作り出すのではなく、絵具をそのままキャンバスの上に置き、明るさを保ったままにする。
浮世絵でも色と色の隣接はあるが、補色理論に基づいた「筆触分割」は使われない。そのことは、浮世絵の影響が限定的であることを示している。

ジャポニスムは、19世紀後半のヨーロッパで日本の文化が評価され、様々な形で受容されたという意味で、日本にとって大変に大きな出来事である。しかし、その動きは、奈良・平安時代の仏教伝来や、明治維新における西洋文明の流入といった巨大な渦とはレベルが異なることも認識しておく必要があるだろう
冷静な視点で事実を確認していくことが、より正確な理解に近づく道となる。

印象派と浮世絵」への3件のフィードバック

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