ボードレール「美」La Beauté

「美」« La Beauté »は、ソネを構成する十四の詩句全てを通して、美そのものが一人称で語っている。台座の上の女神の像が、下から見上げる人間に語り掛けているような印象。

ルーブル美術館に入ると、勝利の女神サモトラスのニケの像が大きな船の台座の上に君臨している。あのニケが私たちに語り掛ける姿を想像すると、この詩が実感できるだろう。

Je suis belle, ô mortels ! comme un rêve de pierre,
Et mon sein, où chacun s’est meurtri tour à tour,
Est fait pour inspirer au poète un amour
Éternel et muet ainsi que la matière.

私は美しい、おお、人間どもよ! 石の夢のように。
私の胸の上で、人々は代わる代わる傷ついてきた。
この胸が詩人に愛を吹き込む。
永遠で、無言の愛を。ちょうど物質がそうするように。

題名の« La Beauté »の最初の文字が大文字で書かれ、美という言葉が普通名詞から固有名詞に代わっている。つまり、ボテという唯一無二の存在になり、美の女神を指していると考えることができる。
ちょうど、ドラクロワの、「民衆を導く自由の女神La Liberté guidant le peuple」の La Libertéが大文字になり、女神と呼ばれるのと同じこと。ここでは、la Beautéを美神と呼ぶことにしよう。

美神を形作る石の彫刻は、たとえ人間の手で石から掘り出されたとしても、決して人間が作り出したものではない。美そのものが初めから石の中で姿を持ち、彫刻家はそれを単に掘り出したにすぎない。その美神の姿は、石の夢なのだ。(夏目漱石の『夢十夜』第六夜の運慶を思い起こすといいだろう。)

人々は美神に愛を捧げてきたが、決して報いられることはなかった。胸にすがりつこうとしては、常に跳ね返され、傷ついてきた。

その胸は石のように不動で、決して心を動かさない。それを知りながら、詩人は美神に魅惑され、愛を捧げる。
美と出会ったとき、言葉もなく立ちすくむ。その感動が愛に代わり、そして終わることのない賛美へと代わる。永遠の愛。そんな詩人に向かって、美神は言う。「私は美しい。」

Je trône dans l’azur comme un sphinx incompris ;
J’unis un cœur de neige à la blancheur des cygnes ;
Je hais le mouvement qui déplace les lignes,
Et jamais je ne pleure et jamais je ne ris.

私は蒼穹の玉座に座す。理解されないスフィンクスのように。
私は雪の心を白鳥の純白に加える。
私は動きを憎む。線をずらす動きを。
そして私は決して涙せず、そして私は決して笑わない。

ボードレールの詩の中で、詩人を苦しませる愛の対象は、女性、娼婦、猫、スフィンクスなどの姿を取る。ここではスフィンクスが美神の一つの側面を代表する。

その側面とは、謎。スフィンクスはオイディプスに謎をかけ、謎が解かれると、谷から身を投げて死んでしまう。しかし、美神というスフィンクスは決して理解されない、つまり謎は解かれないままだ。だからこそ、人間たちから投げかけられる愛は、永遠に続く。

大理石の白さがその永遠の象徴となる。心の白さは、愛に心を動かさない無慈悲さにもつながる。白い白鳥も、人間の手でいつまでも留めておくことはできず、季節と共に飛び去っていく。人間の手垢がつかないからこその純白。

美神が線をずらす動きを嫌うのには、2つの意味があるだろう。
一つは、不動を強調するため。
もう一つは、ギリシア彫刻の静かで調和が取れた姿を思い起こさせるため。

ラオコーンの苦悶に満ちた曲線が、人間的な動きだ。

その動きとは反対にあるのが、神の静かで穏やかな姿。
美神は決して詩人の苦しみに心を動かすことはなく、泣き笑いもしない。

十四行の詩句で構成されるソネでは、多くの場合、最初の二つの四行詩(quatrain)が一つのかたまりをなし、主体を提示する。次の三行詩で展開が行われ、最後の三行詩が結論になる。


Les poètes, devant mes grandes attitudes,
Que j’ai l’air d’emprunter aux plus fiers monuments,
Consumeront leurs jours en d’austères études ;

詩人達は、私の堂々とした姿勢を前にいる。
ひどく尊大な彫像から借りてきたような、その姿を前にして、
彼等は、厳めしい研究に日々を費やしているのだ。

二つの四行詩ではずっと「私」を主語とし、一人称で語ってきた美神が、最初の3行詩では、詩人たちを主語にして語り始める。

美神は、詩人達が彼女へ愛を捧げ、修行僧のように厳しい生活を送りながら、美の研究を続け、美を生み出すために日々を費やしていることを知っている。
そして、どんなに不動に見えても、実はその姿は、威厳のある彫像の姿からの借り物だと、ふと告白する。
「借りている様子(l’air d’emprunter)」という言葉は、美神の隠された心を明かしていると考えてもいいだろう。本当は詩人の愛に応えたくもある美神の心を。

Car j’ai, pour fasciner ces dociles amants,
De purs miroirs qui font toutes choses plus belles :
Mes yeux, mes larges yeux aux clartés éternelles !

なぜなら、私は、この御しやすい恋人たちを魅了するために、
曇りのない鏡をもっている。全てのものを美しくする鏡。
それは私の目。私の大きな目。その輝きは永遠!

最後の三行詩では、再び主語は「私」に戻る。そして、また台座の上で君臨する女神像に戻り、彼女を愛する者達を、扱いやすい恋人達と呼ぶ。
そして、その恋人たちを魅了するものが何か教える。それは彼女の目。

人間たちは美神の胸に殺到して傷ついたが、本当に彼等に愛を吹き込むのは、眼差しなのだ。確かに、ミロのヴィーナスの目の魅力には抗えない。その目を通して見た世界では、全てが美しく輝いているだろう。しかも色あせることなく、永遠に。

永遠の美は、この詩句の中で、« belles – éternelles »と、美と永遠が韻を踏んでいることで、形の上でも、音の上でも、押印を押されている。

美は永遠であり、美神に向けられた詩人の愛も永遠であることを、ボードレールは見事に詩句として定着する。
そして、その最後が、冒頭の« Je suis belle »(私は美しい)と響き合い、永遠の循環を生み出す。

ギリシア彫刻の女神を思わせる美神が一人語りする「美」というソネは、詩人に向けられた美の言葉であるが、その詩句自体が美を体現し、「美」の女神の姿を形作っている。

参考 : Commentaire du sonnet « La Beauté » par Laure Mangin

Léo Ferré

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