ある日、一人の人間が何の手掛かりもないまま、突然いなくなってしまう。それを単に失踪と見做すのであれば、現実的な出来事である。しかし、あまりの不思議さのために、神の仕業ではないかと考えれば、神隠しになる。

「千と千尋の神隠し」の主人公である千尋は、両親と一緒に引っ越す先の家に向かう途中、異次元の空間に入り込む。その空間は、神々が身を休めるお湯屋であり、非現実の世界。現実的な視点から見たら、千尋たち一家は神隠しにあったように見えるだろう。

両親の車の中でだだをこねていた千尋は、「油屋」で働く許可を得るとき、湯婆婆から名前を奪われ、「千」という名前を与えられる。

千の援助者であるハクも自分の本当の名前を忘れている。そして、竜の鱗が取れ人間の姿に戻るとき、ニギハヤミコハクヌシという名前を思い出す。
本当の名前のテーマは、宮崎監督が高く評価する『ゲド戦記』の中心的なテーマである。アースシーでは、全てのものが密かに真の名前を持っている。その名前を知れば、誰でも相手を自由に操ることができる。

「千と千尋の神隠し」では、本来の名前を奪い、新しい名前を与える行為は、湯屋の主、湯婆婆の絶対的な支配力を示している。
千は、こうした力を持った魔女と対峙し、援助者たちの助けを借り、試練を乗り越えて、最後は千尋という名前を取り戻す。
こうした展開は、「欠如—試練—充足」という三段階で構成される昔話の基本構造と対応している。
試練の前、試練の後
昔話の基本構造では、欠如した状態にいる主人公が、様々な試練を経て、最後は充足に至る。主人公は元の場所を離れ、未知の土地で敵と戦う。その時、多くの場合、援助者が出てくる。主人公は、援助者の助けを借りながら試練を乗り越え、宝を手にして元の場所に戻る。
千尋が異次元の空間で試練を乗り越え、失った真の名を取り戻す物語は、こうした昔話の基本構造に基づいている。湯婆婆という悪役もいるし、援助者の側にはリンや釜爺、ハクがいる。


千尋が試練を受ける異界へ入っていく様子は、映画の中で幾重にも暗示される。父の運転する車が林の中に迷い込んだ時、まず鳥居が目に入る。次に石の祠。不思議な地蔵様のようなものも見える。これらは異界への案内と考えてもいいだろう。

父の運転する車が林の中に迷い込んだ時、まず鳥居が目に入る。

次に石の祠。不思議な地蔵様のようなものも見える。これらは異界への案内と考えてもいいだろう。

次に、トンネルにある建物を越える。これも異次元への扉であり、くぐり抜けた先の草原を突ききると無人の歓楽街になる。そこで両親は豚の姿に変えられてしまう。
亡霊たちに囲まれた千尋は走り出し、あちこち彷徨っているうちに、水辺にやってくる。神々を乗せた船を見、体が透明になる。それを夢の世界だと思おうとするが、既に彼女には現実になってしまった

その時、最初の援助者ハクが現れ、彼の助けを借りて体が消えるのをくい止めくれる。
その後、川の上にかかる橋を渡ることになる。
トンネルを越え、さらに川を渡ることで、完全に異次元の空間に入ったことが、映像として示されるのである。
次に、試練の最後を確認しておこう。数多くの豚の中から両親を見分ける試練が課された千は、両親がいないことを見抜く。

その瞬間、契約書は消え去り、自由の身になることができる。そして、草原を越え、最初に通り越した建物に前にいる両親を発見する。
ここで注目しなければならないことがある。帰りのトンネルの中で、千尋は、行きと同じように、お母さんの腕にしがみついているように見える。そのために、試練の前後で彼女には成長の跡がないと見なされることがある。宮崎監督も、この映画が単純な試練と成長の物語に押し込められたくないとの思いからか、千尋は全く成長していないと言ったりすることもある。

しかし、彼女は決して「いやだ。」とか「帰りたい。」という弱音を吐かず、油屋の中で楽しそうに働き続けた。だからこそ、全ての試練を乗り越えた後の表情はとてもいきいきとしている。
監督の言葉を借りれば、「ぶちゃむくれのだるそうなキャラクターは、映画の大団円にはハッとするような魅力的な表情を持つようになる。」
車の中で横になってすねていた少女が、自分の力で生きる力を獲得したのだ。そこに千尋の成長の証があることに注目したい。
昔話の主人公は、試練の末に宝物を手にして、元の村に戻る。千尋の成長はその宝物なのだ。
試練における援助者の逆転
「千と千尋の神隠し」の最大の特色は、主人公と援助者の間で起こる逆転である。
一般的に言うと、昔話の面白さは、試練そのものや、そこに出てくるキャラクターによることが多い。「千と千尋の神隠し」のように、途中から主人公が援助者を助けるケースはまれである。
油屋での試練は、大きく二つに分けられる。前半はハクが千を助け、後半になると主人公が援助者を助ける。
まず、前半の展開を辿ってみよう。トンネルを抜けた一家は、草原を越え、誰もいない歓楽街に入り込む。そこで、父母は食べるのに夢中になり、豚の姿に変えられてしまう。

一方、千尋は浜辺でハクと出会い、体が消えそうになるのを防ぐため、彼の手から食べ物を食べさせてもらう。
その時に千尋は泣き虫で、自分からは何もできない状態でいる。
その後、ハクに導かれてお湯屋に向かい、橋を渡る試練を受ける。しかし、最後の瞬間にカエルを見てびっくりし、息をしたおかげで、人間であることがばれてしまう。このように、最初の試練は失敗に終わる。
しかたなくハクは千尋の手を取り、中庭まで連れて行き、これからの取るべき行動を指示する。
キーワードは、「働きたい」という言葉。

湯婆との契約を勝ち取り、お湯屋で働くことが、両親を助ける唯一の方法なのである。
千尋はボイラー室の主である釜爺のところに行き、働かせてくれるように頼む。しかし、不器用で石炭を運ぶ仕事がうまくできず、交渉に失敗する。
その後、湯女のリンが現れたとき、釜爺は千尋を自分の孫だと言い、二番目の援助者になってくれる。
最初は人間を保護することを拒否したリンも、他者と接するときの礼儀を教えてくれ、さらに千尋が湯婆婆の部屋まで上がっていくのを助けてくれる。
ここでの試練が成功したとは言えないが、「働かせてください。」という魔法の言葉によって、二人の援助者を得ることには成功する。

湯婆婆の部屋では、何を言われても「働かせてください。」という言葉を繰り返し、最終的には契約にサインすることに成功する。しかし、その代償として、荻野千尋という名前を失い、ただの千にされてしまう。
これは悪魔との契約のモチーフである。伝統的な物語では、悪魔との契約は主人公の破滅につながる。その意味で言えば、このエピソードでも、主人公が成功したとはいえない。
このように、最初の3つの段階では、千尋は名前を奪われ、失敗の連続を繰り返す。
それに対して、物語の後半になると、成功するエピソードが出てくる。

まず、巨大な汚物の塊のように見えるオクサレサマに対しては、湯船まで案内し、体に棘のように刺さっている自転車を、みんなの助けを借りながら、引き抜いてあげる。

すると、汚物に見えた塊は巨大な白い竜になり、飛び去っていく。有名な河の神様だったのだ。その時、千は、ニガダンゴを神様から与えられる。
この挿話の後から、物語の展開は二つに枝分かれする。一方は、カオナシとの戦い。もう一方は、ハクの救済。

千が客だと思って建物の中に導き入れていたカオナシが千を慕い、彼女を探し回る中で、お湯屋で働いている人々に金の粒をばらまき、お祭り騒ぎになる。最後には、巨大化し、凶暴になり、人を呑み込んで、大暴れする。

他方、白い竜の姿をしたハクは、銭婆から印鑑を盗み出したために追跡され、深く傷つき、油屋に戻ってくる。瀕死の状態のハク。千は血まみれのハクの命を助けるために全力を尽くす。
この二つのエピソードは、河の神からもらったニガダンゴによって解決する。ハクは千からダンゴの欠片を飲まされ、盗んだ印鑑と、それについた呪いの虫を吐き出す。
カオナシも千から渡されたニガダンゴを食べ、これまで溜め込んだ全てのものを吐き出す。最初の間はずっとハクに頼り切りだった主人公が、ここでは援助者を助け、それと同時に湯屋全体を救う役割を果たすようになったのである。
銭婆のところに印鑑を返しに行った後、ハクの背中に乗って湯屋に戻る途中、千尋とハクは過去の記憶を取り戻す。

ハクは、千尋が幼い頃溺れそうになった川、コハク川だった。千尋の思い出のおかげで、ハクも自分の本当の名前がニギハヤミコハクヌシであることを思い出す。
このエピソードは、主人公が援助者を助ける決定的な段階である。
真の名を取り戻したハクは、千尋が去った後、湯婆婆と交渉し、自由を手に入れることができるだろう。昔話では、受け身で弱虫だった主人公が、数多くの試練を乗り越え成長する。しかし、主人公が援助者を助けることはない。例えば、シンデレラが仙女を助ける挿話は想像できないだろう。それほど稀な展開を通して、「千と千尋の神隠し」では、主人公の少女が変化していく姿が浮き上がってくるのである。
キャラクターの二面性
ジブリ・アニメでは常に魅力的なキャラクターがたくさん出てくる。「千と千尋の神隠し」でも、主な登場人物以外にも、釜爺、リン、ススワタリ、お湯屋のお客である八百万の神々、湯婆婆の大切な坊や監視役の鳥が変身させられた小さなネズミやハエドリなど、見えていて楽しくなる。こうした小動物は、ディズニー・アニメの魅力的なキャラクターとしてしばしば登場する。

他方で、主な登場人物たちには共通する性質がある。彼等はみんな二面性を持っている。
湯婆婆と銭婆は双子の姉妹。双子というのがポイントで、一人の人物の二面性を表現している。

湯婆婆は資本主義(金)の象徴で、お湯屋全体がお金に毒されている。

それに対して、銭婆は、名前に反して、お湯屋の悪に対する解毒剤の役割を果たす。
面白いことに、宮崎監督が最初に考えた構想では、銭婆は湯婆婆よりももっと強力な敵であり、千は湯婆婆との戦いの後で、銭婆と戦うはずだったという。しかし、そうしてしまうと映画が長くなりすぎるので、いろいろと考えた末、最初は橋の上に佇んでいるだけだったカオナシに大きな役割を与えたと、監督は告白している。
「となりのトトロ」で、本来は一人だけだった女の子を、映画の時間を延ばすため、メイとさつきという二人にしたというのと同じことで、最初の構想とは違う展開にしても、映画として破綻しない例といえる。
そのような裏話があったとしても、銭婆を千の理解者とすることで、湯婆婆との対比が生まれ、姉妹の二面性が浮き彫りになっている。

湯婆婆の愛する坊は、湯婆婆のエゴイスティックな母性愛を引き出す存在であり、その愛によって自立を妨げられている。そのために、幼稚な体つきで描かれ、外が汚いから部屋の中に籠もっているのだと言い張る。
しかし、最後に銭婆によって姿を変えられ、心と等身大の体を持つ坊ネズミになると、自分で歩くようになる。
湯婆婆の愛が表面的でしかないことは、大切な坊がネズミに姿を変えると、彼を認識できないことからも見えてくる。
一方、ネズミの姿をした子どもは、銭婆の家に向かう途中、肩に乗せてあげるという千の申し出を無視し、自分で歩くことを選択する。坊の成長の証である。

ハクにも二面性がある。湯婆婆の手先となり、自己の利益を優先し、銭婆から印鑑を盗む側面。自己の利益のために魔法を学び、悪を厭わない。他方、千の援助者であり、彼女が川に溺れかけた時に助けてくれた神様でもある。
オクサレサマは、ヘドロのように醜く、臭い臭いをまき散らす。しかし、本来は河の神様で、ニガダンゴに象徴されるように、人々が貪欲に呑み込んだものを吐き出させ、浄化する役割を担っている。

最初、カオナシは、千尋がお湯屋の前の橋を渡る時ただ立っているだけの役割しかなかったという。それがメインキャラクターへと昇格し、映画が完成した時点で、「千と千尋の神隠し」は千尋とカオナシの映画だと言われるまでになる。それほどインパクトが強い。
ほとんど言葉を話せないカオナシは、呑み込んだ青蛙や番台に座っていた男の声でしか言葉を発することはできない。仮面の顔と他人の声、そして透き通りそうな体。ほとんど自分を持たないカオナシは、橋の隅に佇むだけだったり、油屋の中に入りたくても入れずにいた。
その一方で、お金の粒を手から出し、人を自由にできると思い込む側面も持っている。饗宴の主になると横暴になり、誰からかまわず呑み込んでしまう凶暴さを発揮する。そして、愛する千にさえ、言うことをきかなければ、襲いかかる。

彼は、1度だけ「淋しい」とつぶやき、ニガダンゴを呑み込んで全てを吐き出した後は、元の姿に戻り、声も失い、ただ千の後をついて銭婆の家にまで行く。
カオナシを精神分析的な視点から考察し、表面的には問題を起こさないようにしながら、人との深い関わりを避けるタイプと考えることも可能だろう。彼等は、他人とかかわることで呑み込まれるのではないかという不安があるために、かえって空想の中では貪欲で、何でもできるという全能感を持つ。(齋藤環「カオナシの心には誰がいるのか?」)こうした孤独と全能感が、ネット社会における現代人の心の一面かもしれない。カオナシは、「ない」という特色のために、静かにも凶暴にもなりうる逆接的な現代の人間像を象徴する。
「千と千尋の神隠し」に登場するキャラクター達に共通する性質は、二面性あるいは両義性である。同じ物が、善にも悪にもなる。美にも醜にも見える。
この両義性は、自然災害が起きるたびに、全ての人が経験する。普段は人間を養ってくれる豊穣の海や大地が、大災害を引き起こす凶器に変わる。
千はお湯屋で働き、そこで出会う両義的な存在との葛藤を通して、世界のあり方を知ったのである。そのあり方の原理は「水」である。
水 生きる力
宮崎駿監督は、映画の企画書の中で、「困難な世間で少女が生きる力を取り戻す」ことをメインテーマとして掲げている。いつも父や母から守られ、そのことに甘えている子どもたちは、ひ弱な自我を肥大化させ、困難に出会えばただパニックになって「うそーっ」と叫び、しゃがみこんでしまう。そんな子どもたちは、両親から引き離された状態、つまり千尋が置かれた状態では、すぐに消されるか、食べられてしまうだろう。「千尋が主人公である資格は、実は喰い尽くされない力にあるといえる。」(宮崎駿「不思議の町の千尋 この映画のねらい」)

この千尋の力の源泉がコハク川を流れる水であり、油屋のお湯であり、海であり、千尋のまぶたから流れ落ちる涙なのだ。

水は生も死も合わせ持ち、善の起源でも、悪の起源でもある。「天空のラピュタ」で、地底世界の石たちが天空の星たちと対応し、そこに全ての根源となる統一体があった。
「千と千尋の神隠し」の中では、トンネルを越える前の現実世界では、生は生、死は死であり、それらが一つであることはありえない。しかし、トンネルを越えた異次元の世界では、全てが二義的、多義的であり、逆転が可能である。
生命の根源である水が映画の中に満ちていることで、千尋の生きる力を観客である私たちも、強く感じることができる。「千と千尋の神隠し」を通して、私たちも「千尋の底」に身を浸すことができる。八百万の神々が、油屋の湯に浸かって、心と体を休めるように。

「いつも何度でも」
主題歌の「いつも何度でも」は、 作曲をした木村弓自身の透き通った歌声と、詩的な内容の歌詞(覚和歌子)が魅力的。
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心踊る 夢を見たい
悲しみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える
繰り返すあやまちの そのたびひとは
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう
悲しみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう
閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される
はじまりの朝 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから
フランスの教会で、日本語を知らない子どもたちが歌う映像があり、「千と千尋の神隠し」と同時に、「いつも何度でも」のメロディーの持つ力が伝わってくる。
なるほど、またまた勉強になりました。
(=^・^=)
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