新入生の描写が終わると、また物語が展開し始める。
On commença la récitation des leçons. Il les écouta de toutes ses oreilles, attentif comme au sermon, n’osant même croiser les cuisses, ni s’appuyer sur le coude, et, à deux heures, quand la cloche sonna, le maître d’études fut obligé de l’avertir, pour qu’il se mît avec nous dans les rangs.
教わったことの復唱が始まった。彼は耳を集中させてそれを聞いた。お説教を聞くみたいに注意をこらし、足を組みもせず、肘をつくこともなかった。2時になり、鐘が鳴った。その時、先生は、時間が来たことを知らせ、ぼくたちの並んでいる列に入るよう、促さないといけなかった。
復唱する主語として、フロベールは「ぼくたち」ではなく、一般的な人を指す« on »を使う。「ぼくたち」を使い続ける単調さを避けるためという理由もあるだろうが、先生が声を出して先導するという含みも持たせたと考えることもできる。
新入生も一緒に声を出したかもしれない。
その新入生は教室の雰囲気に馴染まず、緊張し続けている。みんなが声を出しているとき、彼は一生懸命に耳を傾ける。小声でもいいので声を出しているのか、それとも声も出せないのか、それは文章からだけではわからない。とにかく、ここでは、彼の生真面目さと同時に、不器用さが際立つ。
彼は周囲の空気がまったく読めない。時間になり、みんなが復習室から普通の教室に移動するために立ち上がっても、それに気づかない。
前の一節では描写によって少年の人柄や社会的な状況を読者に伝えたが、この一節は、行動をたどることで、同じ効果をもたらしている。
Nous avions l’habitude, en entrant en classe, de jeter nos casquettes par terre, afin d’avoir ensuite nos mains plus libres ; il fallait, dès le seuil de la porte, les lancer sous le banc, de façon à frapper contre la muraille en faisant beaucoup de poussière ; c’était là le genre.
教室に入る時、ぼくたちは帽子を床の方に向かって投げることにしていた。そうすれば、両手が自由に使えるようになる。ドアを入るとすぐ、横長の机の下に帽子を放り投げ、壁に当たって埃をたくさん立てるようにしないといけなかった。それが流行だった。
生徒たちの間では、教室(classe)の入り口から帽子を横長の机の下に投げ、壁に当てる遊びが流行っている。
しかし、机の下を帽子を通すのは難しい。それだからこそ面白いのだが、物理的に可能なのだろうか。
21世紀の日本の読者がこの部分を理解するためには、想像力を働かせるだけはなく、19世紀フランスの教室の様子を知る必要がある。
教室に置かれる机には、椅子と一緒になったもの(pupitre)もあったようだが、ベンチのような長い椅子(banc)だけの時もあったという。
椅子形式だと、膝の上に鞄を置き、それをテーブルの代わりに使ったという。


こうした机であれば、帽子を下に通して、壁まで飛ばすことが可能だろう。
フロベールは、復習室の最初で椅子付きの机(pupitre)に言及し、教室では« banc »という言葉を使う。このような単語の使い分けで、当時の学校の記述に、より大きな現実性を与えたのである。
これは現実性の効果(effet de réel)の一つの例だといえる。
帽子を投げる遊びに戻ると、19世紀の中頃の中学校でみんながしていた遊びかもしれない。あるいは、舞台となっているルーアンの中学だけの流行だったのかもしれない。とにかく、フロベールは、この行為を取り上げることで、二つの効果を狙ったに違いない。
一つは、新入生と他の生徒たちの違いの強調。がちがちに固まっている生徒が、みんなと同じように帽子を投げることなどできるはずがない。
もう一つは、帽子に焦点を当てることで、次の展開に続けること。実際、このエピソードの後、新入生の帽子の描写が続く。
シャルルの帽子の描写は、数多くの研究が提示され、『ボヴァリー夫人』も中で最も数多くの言及がなされる箇所の一つである。
Mais, soit qu’il n’eût pas remarqué cette manœuvre ou qu’il n’eût osé s’y soumettre, la prière était finie que le nouveau tenait encore sa casquette sur ses deux genoux. C’était une de ces coiffures d’ordre composite, où l’on retrouve les éléments du bonnet à poil, du chapska, du chapeau rond, de la casquette de loutre et du bonnet de coton, une de ces pauvres choses, enfin, dont la laideur muette a des profondeurs d’expression comme le visage d’un imbécile. Ovoïde et renflée de baleines, elle commençait par trois boudins circulaires ; puis s’alternaient, séparés par une bande rouge, des losanges de velours et de poils de lapin ; venait ensuite une façon de sac qui se terminait par un polygone cartonné, couvert d’une broderie en soutache compliquée, et d’où pendait, au bout d’un long cordon trop mince, un petit croisillon de fils d’or, en manière de gland. Elle était neuve ; la visière brillait.
しかし、そんなことをしているのに気づかなかったのか、みんなの行動に従う勇気がなかったのか、お祈りが終わっても、「新入生」はまだ帽子を膝の上に置いていた。その帽子には色々な要素が雑多に混ざっていた。皮の角帽、ポーランド兵風の帽子、丸帽、カワウソの皮の帽子、毛織物の帽子。要するに、よくあるみっともないものの一つで、醜さがすぐに目につくというより、深いところで表現されていた。頭の弱い奴の顔といったらいいだろうか。鯨骨の芯で膨らんだ卵型の帽子は、ソーセージのような形の丸いリボンが三本から始まっていた。次は、ビロードとウサギの毛でできたひし形模様が交差した飾りで、真ん中は赤い紐で分けられている。次は、袋のようなもの。下の方は多角形の厚紙が下にあり、飾り紐でできた複雑な刺繍で覆われていた。そこから細い紐が長くたれ、どんぐりのような形をした金糸の小さな十字飾りがぶらさがっていた。この帽子、新品で、ひさしが輝いていた。
一般的に、描写は、言葉によって映像を浮かび上がらせる働きをする。そして、描かれた対象が人物であれば、性格や社会的な身分、その時代の風俗など、様々な情報を読者に伝える。新入生の最初の描写は、そうした役割を果たしていた。
https://bohemegalante.com/2019/06/29/flaubert-madame-bovary-incipit-1/3/
それに対して、この帽子の描写は、何を読者に伝えているのだろう。
まず、描写がイメージを結ばない。
言葉は数多く重ねられるのだが、どんな帽子なのかイメージできない。
インターネット上では、様々な絵が提案されているが、描き出される帽子はばらばらである。






ここでフロベールは、意図的に像を結ばない描写をしているとしか考えられない。では、何を伝えようとしているのか。
1)言葉の自立性
帽子という言葉が文章の中で用いられるとき、普通は、現実の帽子を指していると考えられる。描写をする場合には、現実にある帽子、あるいは現実にある可能性のある帽子を思い描かせる。
それに対して、ここでの描写の目的は、帽子を描くことではない。
その様子を具体的に追ってみよう。
雑多な要素が入り交じった(d’ordre composite)帽子と規定された後、皮の角帽など五種類の帽子が列挙される。読者はそれぞれ一つづつの帽子のイメージは持っているだろうが、それらが合わさった帽子を想像するのは難しい。
次に具体的な要素が数え上げられる。その際には、3本のリボンから始まると出発点が示された後、次に、次に、という順番が明確に示され、ひし形模様の飾り、袋のようなもの、多角形の厚紙、金糸の小さな十字飾り等が、順番に数え上げられる。
ここでも、それぞれの要素は具体的に想像することはできるが、全部が集まると、あまりにも雑多で、一つの映像としてまとめることができない。
言葉が過剰に増殖し、描写が具体的な描写ではなく、言葉そのものとしてそこにあることになる。再現するものの代用ではなく、言葉が自立する。
(この点は、少し後の時代のアルチュール・ランボーの散文詩になると、より明確になる。)
2)作者
新入生のこの帽子を見ているのは、誰なのか。
クラスの同級生で、「ぼくたち」の一人である語り手が、これほど細かく帽子を見ているとは思えない。
もし見たとしても、こんなに詳細で、分析的に描写することなどできないに違いない。
帽子がつまらない物の一つだと記した後、それがどのようなものか説明するとき、意図的に抽象的な表現が用いられていることに注目しよう。
その無言の醜悪さが表現の深みを持つ。
la laideur muette a des profondeurs d’expression.
この言語のレベルは、ルーアンの中学校の生徒の目から見た帽子の描写には相応しくない。
フロベールは、小説における作者の役割について次のように記したことがある。
神が宇宙のいたるところにいるように、作者は作品の中に偏在しながら、どこにも姿を現さないようにしなければならない。(1852年12月9日、ルイーズ・コレ宛の手紙)
帽子の描写は、作者が姿を現さないまま、全ての細部まで生み出していることの実例だといえる。
作者は教室の中で生徒たちの一人としてではなく、作品の細部にまで偏在する見えない神のような存在として、描写の対象を選択し、言葉を使ってそれを描く。
帽子の像を結ばない描写は、見えない作者が、小説における言葉の役割を示す役割を持っているのである。
その役割とは、言葉は現実に依存するのではなく、現実から自立した存在であると告げることだと考えられる。