非再現性の時代

19世紀の後半から、芸術は非再現性の時代に入る。
なにやら難しそうだけれど、要するに、芸術の目的がモデルとなる対象を模倣・再現することではなくなり、作品そのものになる、ということを意味する。

画家兼モデルだったシュザンヌ・ヴァラドンの肖像画を見ると、肖像画でさえモデルの再現を目指さない時代が来たことが理解できる。

19世紀の前半に発明された写真は、モデルを再現するのに適した機械。
その写真機が撮したヴァラドンの肖像画。

ヴァラドンの自画像と比べてみよう。

Suzanne Valadon, Autoportrait

この絵を見るときに問題になるのが、自分の顔を忠実に再現しているかではなく、彼女の絵画的なセンスや感性であり、表現の技術、そして作品としての質であることがわかるだろう。

ルノワールにとってヴァラドンはお気に入りのモデルだったようで、何枚かの絵を描いている。次の肖像画はルノワールらしく、非常に愛らしい。

Auguste Renoir, Suzanne Valadon

この可憐な女性をロートレックが描くと、まったく違う女性になる。「二日酔い」という絵の題名に相応しい女性像。

Lautrec, Gueule de bois

テオフィル・スタンランの肖像画の上のヴァラドンも、また別の女性にしか見えない。

Théophile Alexandre Steinlen. Suzanne Valadon

シュザンヌを愛したと言われているピアニスト、エリック・サティの描いたデッサン。

一人の女性をモデルとしながら、画家によって違う女性像が浮かび上がってくる。その違いこそ、一つ一つの作品の価値である。

モデルを再現し、似ていることに価値が置かれる時代は、19世紀半ばで終わりになる。
それ以降は、作品が現実から自立して、作品自体で価値を持つ。


20世紀の画家、アメデオ・モディリアーニの描くジャンヌ像も、非再現性を実感させてくれる。

彼が描いた女性は、独特の表情をしていて、似ていることよりも、画家自身表現の方に重きが置かれた絵画である。

モディリアーニが、恋人のジャンヌ・エビュテルヌをモデルにしながら、彼女に似た女性像を描こうとしていなかったことは、後の時代に発見された彼女の写真を比較すると明らかになる。

再現についての補足

再現芸術の時代に関して、補足が必要かもしれない。

現実のモデルを模倣・再現すると言うと、現代の理解では、本当にそこにいる人や風景を忠実に再現することを考える。

しかし、再現芸術の時代は古典主義芸術の時代とも対応し、例えば風景であれば、目の前の景色ではなく、理想の風景を模倣・再現することが目的だった。

神話や歴史の場面であれば、実際に見ることはできないのだから、そのことが容易に理解できる。

17世紀の画家、クロード・ロランの描いた「タルスに上陸するクレオパトラのいる風景」。誰もこの場面を見ることはできないのだから、モデルは画家が頭の中で作り上げた理想の風景であることがわかる。

Claude Lorrain, Le Débarquement de Cléopâtre à Tarse

現実に存在している場所を対象としても、理想化が施されている。
https://bohemegalante.com/2019/03/14/le-paysage-au-19e-siecle/
ユベール・ロベールが描いたローマ近郊の風景画。

Hubert Robert, Temple de Vesta à Tivoli

実際に存在するティヴォリ、丘の上の神殿、その下の滝。それだけ揃っていると実在の風景の写生のように思われるが、実はこの風景は画家が組み立てた理想の風景である。

実際の風景では、滝と神殿は一緒に見えない。

再現というのが現実のモデルを写し取るのではなく、理想化したイメージの再現であることがわかると、ジェノヴァの港の風景も違って見えてくる。

Claude Lorrain, Port de Gênes, vue de la mer

ジェノヴァの港が描かれているこの風景画も、古典主義時代の絵画であることがわかれば、現実の再現ではなく、理想の風景の模倣であることが理解できる。

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