ネルヴァル 「黄金詩篇」  ピタゴラスと共に Nerval, « Vers dorés », avec Pythagore

ネルヴァルの「黄金詩篇」は、エピグラフにピタゴラスの詩句とされる言葉を挙げ、ピタゴラス教団の教えを唱えるお題目のような雰囲気を持っている。

ピタゴラスという名前を聞くと、ピタゴラスの定理を思いだし、数学者だと思うかもしれない。三角形の底辺の2乗は、他の2辺の2乗の和に等しいという、誰もが知る定理。

しかし、ピタゴラスは、万物は全て数で成り立つと唱えた古代ギリシアの哲学者で、秘儀的な宗教教団の中心人物でもあった。その教団は、ピタゴラス派と呼ばれる。
「黄金詩篇」はその教団の信条を詩句にしたもの。

ネルヴァルは、最初にこの詩を発表した時、「古代の思想(« Pensée antique »)」という題名を与えていた。この「古代」は「近代」と対立し、人間の思考の二つの型を連想させる。一方は合理的思考。もう一方は理性的理解を超えた思考。

Vers dorés

Eh quoi ! tout est sensible !
Pythagore


Homme, libre penseur ! te crois-tu seul pensant
Dans ce monde où la vie éclate en toute chose ?
Des forces que tu tiens ta liberté dispose,
Mais de tous tes conseils l’univers est absent.

黄金詩篇

             何! 全てのものが感じている!
                         ピタゴラス

人間よ、自由思想家よ! お前一人が思考していると思っているのか、
この世界、全てのものの中で、生命が輝いているというのに。
お前が手にする自由を、思うがままに使うがいい。
しかし、お前のどのような忠告も、宇宙には存在しない。

ピタゴラスの「黄金詩篇」には、「全てのものが感じている」という言葉はなく、18世紀の著述家、クロード・ドゥリール・ド・サル(1741−1816)の『自然哲学について』から取られた。
そのことは、ネルヴァルが、ソクラテス以前の自然哲学者たちを参照しながら、18世紀の自然に関する思索から直接影響を受けていることを示している。

18世紀フランスは、啓蒙の時代。百科全書に代表される普遍的な知識の光で、無知な闇を照らし、理性に基づいた思考によって、人間の生活に進歩をもたらそうとした。

詩の冒頭でネルヴァルが呼びかける人間、自由思想家は、神や教会の権威から自由になろうとした啓蒙思想家を指す。
ある者は、創造主としての神は認めるが、世界が創られた後からの神の介入は否定する理神論者。ある者は、唯物論を押し進め、人間機械論にまで行き着いた。
いずれにせよ、宗教的な権威から自由になり、理性の光で神秘の闇を照らし出そうとした。

そうした自由思想家は、物に命が宿ることなど絶対に認めない。生命と非生命の分割線は彼等にとっては自明のことだった。

ネルヴァルは、彼等に対して、自分だけが考えていると思っているのかと、嫌みを投げかける。思想家は考える人。としたら、こんな皮肉はないだろう。
考える自由を行使することは許すが、しかし、人間を超えた宇宙では、自由思想家の考えなど相手にされないと宣告する。
なぜなら、全てのものには生命が宿り、感覚を持ち、感じているからだ。

全てに命があるという感覚は、ヨーロッパ人にとってはなかなか受け入れられないだろう。
他方、日本的な感性だと、その考えはすとんと納得できる。
万葉集の時代から、私たちは、木々や草花、鳥や月に感情を託し、歌にしてきた。それは擬人法ではなく、人間と自然との共感を前提にしている。

ネルヴァルの自然観、全てに生命を感じる感性は、ヨーロッパの合理主義と対立し、日本的な自然観と親和性がある。

Respecte dans la bête un esprit agissant :
Chaque fleur est une âme à la Nature éclose ;
Un mystère d’amour dans le métal repose ;
« Tout est sensible ! » Et tout sur ton être est puissant.

尊べ、動物の中で動く精神を。
一本一本の花は、自然の中で開花する魂。
愛の神秘が金属の中に佇む。
「全てのものが感じている!」 全てがお前の存在に対して力を持つ。

ここでは、動物、植物、金属へと意識が移行していく。
この順番は、ルネサンス的世界観を反映している。
そこでは、万物の秩序が定まっていた。一番上は神。次に天使、その下に人間。以下、動物、植物、鉱物と下降していく。

動物に生命があるのは当たり前なので、ネルヴァルは動物に精神を付与する。
キリスト教の伝統では、人間と動物の間は明確な区分があるので、動物に精神があるという発想は、過去にはなかったはずである。

花は魂。« Chaque fleur est une âme à la Nature éclose »という詩句は、ネルヴァルの詩句の中でも、とりわけ美しい。
また、花に心を感じる日本的感性には、何の抵抗もなく理解できる。

宇宙の序列の最も下に位置する鉱物を、ネルヴァルは金属とする。そして、愛の神秘を結びつける。
その理由は、愛(amour)という言葉にある。
amourの動詞はaimer(愛すること)。それを現在分詞にすると、aimant. この言葉は、磁石という名詞と同じ形をしている。
愛も磁石も、何かを引きつける力を持つ。しかも、その力は目に見えない。
金属に磁力があり、愛のように人を引きつける力があるとしたら、誰もが神秘を感じるだろう。

このように見えてくると、「全てのものが感じている!」という言葉が、ルネサンス的宇宙観に即して展開されていることがわかってくる。

Delisle de Sales, Philosophie de la Nature, 1777.

自由思想家たちと正反対のこうした思考は、ネルヴァルだけのものではなく、ロマン主義時代の作家たちに共有されていた。
ヴィクトル・ユゴーも、ジョルジュ・サンドも、ラマルティーヌも、バルザックも、全ては生きていると考える思想の持ち主だった。
例えば、ユゴーは、「影の口(La bouche d’ombre)」の中で、「全てのものが口をきくだって? それは、すべてのものが生きているからだ。」「全てには魂が満ちている。」と記している。

こうした考え方は、古代ギリシアのソクラテス以前の自然哲学でも展開されたものであり、ピタゴラス教団の教えの中心でもあった。
そこでは、万物の起源は一であり、宇宙は生命を持つと説かれる。
そして、肉体という牢獄に閉じ込めらた神的存在の魂は、死後肉体を離れ、別の肉体に再び閉じ込められる。輪廻転生である。前生の記憶を想起するのは、魂の不滅に由来する。

ピタゴラス教の教えは、それ以前のオルフェウス教の教えを受け継いでいると言われるが、さらに小アジアの大地母神キュベレーやアッティスの信仰へと遡ることができるかもしれない。古代エジプトのオシリスとイシス信仰、古代ギリシアのエレウシスの秘儀等は、その流れを汲んでいると考えてもいいだろう。

西欧では、理性、知性に基づく思考が支配的であるが、その下には、非理性的な汎生命主義ともとれる思考が、裏の思想として連綿と続いていた。魔術、錬金術、タロットカード、フリーメーソン、降霊術、パンテイスム(汎神論)、オカルト等々、その流れは現在でも続いている。

ネルヴァルはこうした流れの中で、古代ギリシアのピタゴラス派の属する自然哲学の伝統に遡り、18世紀フランスの自然哲学を経由しながら、自己の信条を「黄金詩篇」の一箇条として表明したと考えてもいいだろう。

Crains, dans le mur aveugle, un regard qui t’épie :
À la matière même un verbe est attaché…
Ne la fais pas servir à quelque usage impie !

恐れよ、盲目の壁の中、お前を見張る視線を。
物質にさえ、言葉が繋がれている。
物質を、不信心な用途に使わせないこと!

壁に視線を感じることは、誰でも経験があるだろう。
ネルヴァルは、壁に「盲目な」という形容詞を付けることで、視線の存在が不可解であることを際立たせている。

余談になるが、「恐れよ、盲目の壁の中、お前を見張る視線を」という詩句は、一人の日本の詩人の印象に強く残り、彼は繰り返し口ずさんでいたという。
詩人の名前は富永太郎。
中原中也と小林秀雄の共通の友人で、二人を知り合わせたことでも知られている。

人から見られているという「気配」を感じることは、無性物まで含めた全てのものに生命が宿っているという世界観に通じる。「気配」によって、目のないところに目を感じ、人のいないところに人を感じる。こうしたおぼろげな存在感は、日本的感性にとって、ごく自然な感覚なのだろう。

物質に結びつく言葉(verbe)という意味は、キリスト教の知識がないと理解が難しい。
「ヨハネ福音書」は、「はじめに言葉ありき(Au commencement était le Verbe))」という表現から始まる。その言葉とは、天地創造が行われる「創世記」の冒頭で、神が「光あれ。」と言葉を指していると考えられる。
そして、神の言葉が発せられると、「光があった。」(Or, Dieu dit : Que la lumière soit faite ; et la lumière fut faite. )

ゲーテは『ファウスト』の中で、このエピソードを取り上げ、言葉(ロゴス)をどのようなドイツ語に訳すのか自問する。そして、最初は「意(こころ)」とし、次に「力(ちから)」、最後は「業(わざ)」とする。(森鴎外の訳による。)
ジョルジュ・サンドやネルヴァルによれば、ゲーテはパンテイスト(汎神論者)だった。従って、彼の訳のように、言葉を力や活動と考えることは、キリスト教から離れ、全てのものに生命があると考える世界観に基づいているといえる。

同様の視点から、ヴィクトル・ユゴーの影の口(la bouche d’ombre)は、神を「巨大な磁石(le grand aimant)」だと言う。このイメージは、「金属に愛の神秘(le mystère d’amour)が宿る」という詩句を連想させる。
愛すること(aimer)は二つの存在を引き寄せることであり、磁石の目に見えない力は神秘に属すると考えてもおかしくない。

物質に言葉が宿るということは、物質にも命が通っているということと等しい。その上で、言葉は神を連想させる。そのために、ネルヴァルは、一つの教えとして、物質を冒瀆な用途に使わないようにと命じる。

Souvent dans l’être obscur habite un Dieu caché ;
Et comme un œil naissant couvert par ses paupières,
Un pur esprit s’accroît sous l’écorce des pierres !

しばしば、ちっぽけな存在の中に、隠れた神が住んでいる。
まぶたで覆われていた目が、今まさに生まれ出ようとしているように、
一つの純粋な精神が、石の表皮の下で、大きくなろうとしている。

ここで神(Dieu)という単語の最初を大文字にしていることは、ネルヴァルがキリスト教の神を読者に連想させようとしたことを示している。
パスカルに従えば、失楽園によって象徴される堕落以来、人間が神を見ることはできない。言い換えれば、神は隠されている。もし人間が神を見ることができるとしたら、それは神の恩寵によるしかない。

そうしたキリスト教的な伝統を踏まえた上で、愛の神秘を感じ、教えの真理として提示する。
ネルヴァルは、些細なものにまで目に見えない磁力を感じ、神が住む「気配」を実感しているのだろう。そこには生命の営みがある。

生まれようとする(naissant)目は、生命の力の具体的なイメージである。

それは、光あれという言葉(verbe)であり、ゲーテであれば、動きの源泉と考えるものだろう。

目に見えず、気配を感じるしかない。が、確かにある。

ネルヴァルはその気配を、「石の表皮」という表現を使うことで、読者に伝えようとする。表皮(écorce)は植物の表面であり、鉱物の表面ではない。
ここでは、矛盾した言葉を重ねるオクシモロンによって、石に植物的な生命を付与するのである。その言葉によって、石は柔らかくなり、水分を含み、生きているように感じられる。

ピタゴラス派は、魂を肉体に閉じ込められた神的な存在と考えた。そして、肉体が死ぬと次の肉体に移る前に、一旦黄泉の国に行き、清められるという思想があった。そのために、地上でも、清浄な生活を送ることに努めたという。
純粋な精神とは、ピタゴラス派のそうした側面と対応していると考えられる。

動物の中で動く精神を敬うようにとすでに命じたが、そうした精神が鉱物にまで行き渡っている。しかも、その精神は浄化されている。


ネルヴァルの「黄金詩篇」は、ピタゴラスの後を継ぎ、19世紀のパンテイスム(汎神論)に基づきながら、全てのものに生命が宿り、純粋な精神が成長していることを定式化している。

イメージに富み、音楽的な詩句は、そうしたお説教を、心地よく読者の心に届けて続けている。

私たち、日本的な感性を持つ者には、西欧の読者よりも、ずっとわかりやすい詩だといってもいいだろう。

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