ランボー 「アマランサスの花の列」 Rimbaud « Plates-bandes d’amarantes… » 疾走する想像力と言葉の錬金術

1872年、ランボーはヴェルレーヌと二人、パリから逃れてベルギーに向かう。その旅の間に二人が見た物、感じたことは、ベルギーを対象にした二人の詩の中に定着されている。

ランボーの「アマランサスの花の列」(Plates-bandes d’amarantes…)は、そうした詩の中の一つ。
その詩には、大通りの様子らしいものが描かれているのだが、ランボーの詩の言葉は、現実から飛び立ち、疾走する。

詩としての出来栄えに関しては、それほど高く評価できるものではないかもしれない。しかし、ランボーの詩的想像力の動きを理解するためには、最適の詩だといえる。

「アマランサスの花の列」の最初に、「7月/ブリュッセル、レジャン大通り」と記されていて、実在する通りの描写として提示されている。
この詩のベースには現実があることになる。

レジャン大通りは、今でも存在する。

大きな公園や王宮に近く、かなり大きな通りらしい。

ランボーは最初、この通り沿いに植えられたアマランサスの花に目を留める。

Plates-bandes d’amarantes jusqu’à
L’agréable palais de Jupiter
− Je sais que c’est Toi, qui, dans ces lieux,
Mêles ton Bleu presque de Sahara !

アマランサスの花の列が、
ジュピターの心地よい宮殿まで続く。
ー ぼくは知っている。お前が、この場所で、
お前の「青」を混ぜ合わせているのを。サハラのと言ってもいい青を。

アマランサスの花が向こうの方まで連なっているのが目に入る。現実的な風景。

大通りには立派な建物があるし、近くには王宮もある。たぶんそこまで続いているのだろう。

ところが、ランボーは、建物にジュピターという名前を付け加える。そのようにして、神話を連想させる固有名詞を持ち出すことで、想像力が働き出す。

次に、街並み全体へと目を向け、大通りに向かい、「お前」と呼びかける。お前がここで青い色を混ぜ合わせている、と。
要するに、通りのあちこちに青い影のようなものが見えたのだろう。

その青い色に関して、ランボーはまた想像力を働かせ、ほとんどサハラ砂漠の青だと言う。
この時にはまだアフリカに足を踏み入れたことはなく、サハラ砂漠に関する知識は、当時の雑誌などから得られる限られたものだっただろう。
詩人にとって、正確な情報が前提となるのではなく、サハラという名称が引き起こすイメージが大切なのだ。

Puis, comme rose et sapin du soleil
Et liane ont ici leurs jeux enclos,
Cage de la petite veuve !…
                             Quelles
Troupes d’oiseaux, ô ia io, ia io !

次に現れるのは、陽に当たったバラやモミ、
ツタのようなものが、しっかりと絡まり合い、
夫を亡くした女の鳥かごだ!
           何という
鳥たちの群、オ イア イオ、イア イオ!

ランボーの目に入ったのは、家の窓辺に置かれた鳥かごだろう。
その周りにはバラや大きな木もあり、窓にはツタがからまっている。
ごく普通の光景。

その鳥かごから、ランボーは、持ち主が寡婦だと想像を巡らせる。
籠の中の鳥が実際に何羽いるのかわからないが、群でいるほど数多くいるように空想する。
想像力が活発に活動し始め、思わず鼻歌が出る。イアイオというオノマトペは、現実から離れ、気分が高揚しているしるしだろう。


− Calmes maisons, anciennes passions !
Kiosque de la Folle par affection.
Après les fesses des rosiers, balcon
Ombreux et très bas de la Juliette.

静かな家々よ、昔の情熱たちよ!
恋のために狂ってしまった娘のあずまや。
バラの茂みのケツの後ろにあるのは、
ジュリエット嬢の、低く暗いバルコニー。

いくつかの家が目に入ると、そこではかつて激しい恋愛が繰り広げられたのではないかと想像する。

あずまやを見ると、恋のために気が狂った娘を思い描く。オフェーリアでもいいのだが、ここではジュリエットを想像する。
あずまやのように見える家の庭にバラが見え、その少し上にはバルコニーが見える。バルコニーと恋する娘とくれば、誰しもがジュリエットを思い浮かべるだろう。

ランボーらしいのは、バラの茂みの後ろを指すのに、「ケツ (fesses)」という下品な言葉を使うこと。詩には相応しくない言葉をあえて使うことで、高貴であった詩的世界と日常世界の境目を取り払ってしまう。

現実と想像世界の境目がないだけではなく、言葉のレベルでも高尚と日常の区別をしない。
彼は、この時、18才になるかならないくらい。新婚のヴェルレーヌを奥さんから奪い取り、イギリスに渡ろうとしていた。
彼には、詩作も普段の会話の一部だったことだろう。平気で汚い言葉を使い、易々と詩を書いてしまう。
小林秀雄の表現を借りると、ランボーが吐き出したら「泥でも輝く」、ということになる。

− La Juliette, ça rappelle l’Henriette,
Charmante station du chemin de fer,
Au cœur d’un mont, comme au fond d’un verger
Où mille diables bleus dansent dans l’air !

ジュリエットちゃん、そいつはアンリエットちゃんを思い出させる。
鉄道の魅力的な駅。
山の真ん中にある。果樹園の奥にあるように。
そこでは、幾千もの青い悪魔が空中で踊っている。

音による言葉遊びはランボーの得意技だ。
ジュリエットとアンリエットは何の関係もない。ただ、リエットという音が共通するにすぎない。そこに特別な意味はない。
ランボーのすごいところは、語呂合わせや音のつながりから、多くの読者が自由な連想をして、特別な意味を作り出すことにある。
ランボーは適当なことを言っているのに、読者の方で勝手に意味を見つけ出し、彼の詩句を素晴らしいものと思い込む。それだけ読者を高揚させ、彼の詩的世界に誘い込む魅力を持っている。

アンリエットに関しても、ランボーの想像力は疾走する。鉄道の駅の名前で、駅が山の中にあるというのは、現実とは関係がない、言葉の羅列。
山の真ん中から果樹園の奥というイメージが導き出され、悪魔の踊りへと、空想が飛躍する。

悪魔の青は、大通りの青と共鳴している。大通りの青い影を目にして、悪魔の姿を思い描く。もしかすると、隣にいるヴェルレーヌに、あれは悪魔に違いないなどと言っていたかもしれない。
現実から空想への切れ目は、ランボーにはない。


Banc vert où chante au paradis d’orage
Sur la guitare, la blanche Irlandaise.
Puis de la salle à manger guyanaise,
Bavardage des enfants et des cages.

緑のベンチ。嵐の楽園で、
ギターの伴奏に合わせ、アイルランドの白い娘が歌っている。
次に、ギアナの台所から聞こえる、
子どもたちと籠たちのおしゃべり。

そこで実際に見えたり、聞こえたりしている可能性のあるのは、娘の歌。もしかすると、ギターの伴奏があったのかもしれない。
それから、子どもたちの声や籠の中の鳥たちの鳴き声。

他方で、アイルランドやギアナがなぜ出てきたのか、わからない。現実に一人の娘がベンチで歌を歌っているにしても、国籍などはわからない。
台所のギアナにしても同様である。
ここでランボーが何をイメージしていたのか、限定する要素があまりにも少なすぎる。例えば、当時の資料を調べて、レジャン大通りの21番地には少女たちが入る寄宿舎があったことを突き止めたとしても、詩句の理解にはまったく繋がらない。
ランボーが何を本当に目にしていて、どこからが想像力の産物なのか、境界線を引くことはできない。

詩句の勢い、リズム、音楽性を感じていくのが、詩人の言葉をたどるための最良の方向となる。

この詩節で、一カ所、従来の詩的言語の用法を少年詩人が使っている場所がある。
「嵐の楽園」
二つの矛盾する要素を結合させるオクシモロン的表現だ。
歌っている女性のおかげで辺りが楽園のような幸福感に包まれているのか、あるいは彼女自身が幸せな気分を味わっているのか。嵐は楽園の雰囲気を壊すものではなく、高める役割を果たしている。

Fenêtre du duc qui fais que je pense
Au poison des escargots et du buis
Qui dort ici-bas au soleil. Et puis
C’est trop beau ! trop ! Gardons notre silence.

公爵の窓。それを見てぼくが考えるのは、
カタツムリとツゲの毒。
ツゲは、下の方で、日に照らされている。
それから次は、
とにかくキレイすぎる。キレイすぎる。ぼくたちは黙っていよう。

今度は、立派な屋敷の窓が目に入る。その下の方にはツゲがあるのかもしれない。
その窓を見ながら、少年詩人は、毒を思う。カタツムリにも、ツゲにも、毒はない。だから、毒は彼の想像力の中の存在。

最後に「ぼくたち」の沈黙とあり、彼が一人ではないことが明かされる。伝記的事実からすると、一緒にいるのはヴェルレーヌ。

二人は、通りを見て、空想にふけり、目に入るもの全てに美を見出す。
「キレイすぎる!」という感嘆は、二人の共通の気持ちだろう。
ヴェルレーヌも、ブリュッセルを歌った詩の中で、美を見出し、回転木馬の上で頭がクラクラするほど、幸福を感じている。

ランボーが想像する毒は、死をもたらすものというよりも、人工楽園に導くハッシッシやアヘンと考えてもいいだろう。
それを飲むと、通りがキレイすぎ、何も言わずに見とれていたくなる。


− Boulevard sans mouvement ni commerce,
Muet, tout drame et toute comédie,
Réunion des scènes infinie,
Je te connais et t’admire en silence.

ー 何も動かず、人通りも途絶えた、大通り。
音もしない。あらゆるドラマとあらゆるコメディー、
いろいろな情景が、限りなく集まっている。
ぼくはお前を知っている。お前に見とれている。静かに。

最後に、ランボーはレジェン大通りから生命観を抜き去る。本当に人通りが途絶え、馬車の音もせず、鳥たちの声も聞こえず、風が物音を立てることもなく、静まりかえっていたのかどうか、それはわからない。
現実を前にして、疾走する想像力は、様々な情景を生みだしていく。その数は「無限(infini)」。留まるところを知らない。

そうしていると、隣にいるであろうヴェルレーヌのことも忘れ、無言で空想に浸ることになる。静かに、通りの前にいる。
ヴェルレーヌには、それはただの通りに留まっているかもしれない。あるいは、彼のランボーの同伴者として、別の空想にふけっているかもしれない。

ランボーが賞賛するのは、現実の大通りの街並みが素晴らしいというだけではない。その大通りが想像力をかき立て、次から次へと情景が浮かぶ。そのようにして、現実が空想と混ざり合い、無限に広がる。ランボーにはその全てが見える。だからこそ、「キレイすぎる」と感じ、沈黙して見とれる。

ランボーは、見えるものと、そこから出発して想像力が現前させるものを区別しない。それら全てが同じように見えているのだろう。彼は自分を幻視者(voyant)だと言う理由は、そこにある。

ランボーという幻視者にとって、現実を模倣し、再現するという芸術観は、全く意味を持たなくなっている。その意味で、彼の詩は、非再現性の芸術に属するということができる。
言葉が描き出すものが実際に存在するのかしないのか、問題ではない。言葉はそれだけで成り立ち、自立した世界を生み出す。

それが「言葉の錬金術」に他ならない。ランボーの詩を形成する言葉から、黄金が生まれる。
その黄金が、『地獄の季節』や『イリュミナシオン』に集められた詩の言葉だ。


Youtubeで探しても、「アマランサスの花の列」(Plates-bandes d’amarantes…)に関しては、朗読がなく、メロディーを付けて歌われているものしかない。

一般的に言って、詩の音楽性は朗読で感じるのが一番。メロディーを付けて歌うと、雰囲気が変わってしまう。

ランボー 「アマランサスの花の列」 Rimbaud « Plates-bandes d’amarantes… » 疾走する想像力と言葉の錬金術」への5件のフィードバック

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