ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » その7(最終) 未来の活力

「酔いどれ船」の最後の4つの詩節の中で、「ぼく=酔いどれ船」は、長い航海をもう一度振り返り、最後に、「もうできない」と諦めの声を上げる。
その声をどのように受け止めたらいいのだろうか?

ノーベル賞作家であるル・クレジオと、文学ジャーナリストのオーギュスタン・トラップナーが、この4節を交互に暗唱している映像がある。
二人の様子を見ていると、詩句を口にする喜びが直に伝わってくる。
C’est quelque chose.

永遠(理想)から逃れ、過去(束縛)を懐かしむ。そんな気持ちをふともらした後、第22詩節では、再び航海中に目にしたものを喚起する。

J’ai vu des archipels sidéraux ! et des îles
Dont les cieux délirants sont ouverts au vogueur :
– Est-ce en ces nuits sans fonds que tu dors et t’exiles,
Million d’oiseaux d’or, ô future Vigueur ? –

ぼくは見た。星の群島を。島々を。
その空は、錯乱し、航海する者に開かれている。
ー こんな底なしの夜の中に、お前は眠り、隠れ住んでいるのか?
数知れぬ黄金の鳥たちよ。おお 未来の「活力」よ。ー

群島は島の集まり。まず星の光に照らされた集合体を出現させ、次に、一つ一つの島に注意を向ける。
その島々の上に広がる空は、錯乱している。
ランボーにとって、錯乱(délire)という言葉は否定的な意味を持つのではなく、今までの慣習や規則を壊し、新しいものを生み出す上で重要な役割を果たす言葉。
1871年の「見者」に書き記された「全ての感覚の規則性を混乱させる」につながり、『地獄の季節』の中心には「錯乱(délires)」と名付けられた章が置かれている。

3行目ででいきなり出てくる「お前」とは、4行目に出てくる「未来の活力」future Vigueurへの呼びかけ。
このVigueurは大文字で始められているので、普通名詞ではなく、固有名詞的な働きをしている。
「ぼく=酔いどれ船」は、長く厳しい試練の旅の後、今は疲れ果て、古いヨーロッパを懐かしく思っているかもしれない。
しかし、疲れの中でも、次に新しい世界に踏み出すための活力や生気を思い、それに対して呼びかけているのである。

その未来の活力は、無数の鳥たちという具体的なイメージとして具象化されている。
それらの鳥は黄金(or)。錬金術で生み出す目的が付与されている。

Dali, Port de Caduques (nuit)

今、「活力」は、底なしの夜の中に潜み、現前化していない。
しかし、夜に「底がない」ことは、「無限」を暗示している。

「無限」や「永遠」は、限りのある現実世界では到達できないが、それだからこそ理想を内包している。

休みながらも、「ぼく=酔いどれ船」はすでに未来を念頭に置いている。
このように考えると、第22詩節は決して悲観的な内容ではない。
星sidéral、錯乱délirant、底なしの夜nuits sans fond、金の鳥oiseaux d’orなど、錬金術において肯定的な言葉がちりばめられた上で、「活力」に対する呼びかけがなされる。

「活力」Vigueurは生命そのものともいえ、「航海する者」vogueurが活動する力の源となり、涸渇することはないだろう。

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