マラルメ YXのソネ 「純粋なその爪が・・・」  Mallarmé, Sonnet en YX  « Ses purs ongles … » マラルメの詩法(1/2)

マラルメの詩は難しくて、何を意味しているのかわからないことが多くある。
その一方で、声に出して読むと、大変に美しい。

この特色は、一つの視点から見ると、日本の書道に似ている。
しばしば書いてある文字が何を意味しているのか分からない。
しかし、文字の映像としては、とても美しい。

西本願寺本三十六人家集、源重之集

例えば、平安時代に流行した和歌集冊子「西本願寺本三十六人家集、源重之集」の一部を見てみよう。
四季の草花や風景を繊細に描いた文様を施された料紙に、仮名文字で和歌が綴れている。

えだわかぬ はるにあへども むもれ木は
もえもまさらで としへぬるかな

現代の私たちはこの仮名文字をほぼ読むことができないが、とても美しいと感じる。意味でははく、文字の造形性が、美を生み出している。

マラルメの詩句では、文字の映像ではなく、音楽性が美を生み出す主要な要素として機能する。

こうした美のあり方を前提にして、マラルメが自己の詩法を表現したと見做される、YX(イクス)のソネ「純粋なその爪が」の読解にトライしてみよう。

一般的に、言葉は意味を伝えるための道具、つまりコミュニケーション・ツールだと考えられる。その際に重要なのは、言葉の内容、つまり意味であり、どのように言うかよりも、何を言うかが問題になる。

しかし、言葉には、別の側面もある。意味が内容だとすると、文字や音声という表現の部分。言葉の造形的な美は文字表現によるし、音楽的な美は音声表現に関わる。

日常会話では、意味を伝えることが中心に考えられ、映像や音声は意味が伝われば忘れられてしまうし、それほど注意を引くことはない。
しかし、実際には、「どのように」伝えるかということが、「何を」伝えるかに深くかかわっている。伝え方で、言葉の内容に真実味があるかないか判断していることはよくある。

文学、とりわけ詩においては、意味と表現のバランスは重要であり、フランスでは散文でも声に出して読み、善し悪しを判断する。言葉の響きや音楽性が、意味と同様に重視される。
何を言うかという内容と同様に、言葉の響きの美しさが、詩の価値を判断する上で、重要な要素となる。

詩の美しさは、言葉の音の連なりが生み出す音楽性に多くを負っている。
普通の言語使用時には、意味を伝えることに重きが置かれ、表現は等閑にされる。
マラルメはその傾向を強く意識した上で、詩句の意味を伝わり難くし、表現面に注意を向けさせた。

意味は理性を中心にした知的な作用によって理解される。
19世紀後半にはそうした知的理解の限界を見通し、直感による事物の把握を推進する動きが強まった。その直感を刺激するのは音楽。
ボードレールも、ヴェルレーヌも、ランボーも、マラルメも、詩の音楽性を重視したのは、そのためである。

マラルメの特色は、知的な意味の理解を妨げるために、フランス語の文章の構文にまで踏み込み、非文法的な詩句を綴ったことにある。
言葉の錬金術を叫んだランボーでさえ、理解を妨げるのは言葉と言葉の意味の繋がりであり、構文を破壊することはなかった。一人マラルメだけが、構文に手を付けた。
そのために、彼の詩は、誰の詩句にもまして、理解が困難なものになっている。


1887年に発表された「純粋なその爪が」で始まる14行詩は、しばしばYXのソネと呼ばれる。その理由は、非常に特徴的な韻にある。

14行の詩句は、[yx]と[or]という二つの音だけで韻を踏んでいる。
しかも、4行詩(カトラン)と3行詩(テルセ)で韻の男女が入れ代わり、最初は男性韻だった[yx]が、後半では女性韻になる。[or]はその逆に、女性韻から男性韻にと変化する。
こうしたアクロバットのような押韻によって、「純粋なその爪が」には、意味以上に表現に注意を向けさせる仕組みが施されている。

意味よりも表現そのものという詩の性質を象徴するため、マラルメはフランス語には存在しない« ptyx »という言葉を創作した。
フランス語に存在しないということは、意味がないということである。
その一方で、« yx »の音と文字が読者の注意を引き、記憶に留まる。styxがエンブレムになり、この詩がYXのソネと呼ばれるのも、そのためである。

まず、2つのカトランを読んでみよう。

Ses purs ongles très haut dédiant leur onyx,
L’Angoisse, ce minuit, soutient, lampadophore,
Maint rêve vespéral brûlé par le Phénix
Que ne recueille pas de cinéraire amphore

Sur les crédences, au salon vide : nul ptyx,
Aboli bibelot d’inanité sonore,
(Car le Maître est allé puiser des pleurs au Styx
Avec ce seul objet dont le Néant s’honore.)

マラルメは、ptyxというフランス語に存在しない言葉を韻に使うことで、[yx]の韻にとりわけ注意が向くように仕組んだ。

onyx (瑪瑙)
Phénix (不死鳥)
ptyx (意味のない新語)
Styx (冥界の河)

ここでは[ i ]の鋭い音が響く。
単語の最後にeない男性韻であり、性差別的に感じられるかもしれないが、iの鋭さと男性性が対応していると言うこともできるだろう。

[ i ]の韻と対立するのが、[ 0 ]という丸みを帯びた音の韻。
単語の最後がeで終わる女性韻になっている。

lampadophore (ランプを持つ者): phoreは持つを意味する。
amphore (先の尖った古代の壺)
sonore (よく響く)
s’honore (誇る)

最後の二つは、綴りと意味は違うが、音は全く同じ。
s-o-rという三つの音が共通し、しかもoが反復される、とりわけ豊かな韻。

構文を見ると、第1カトランは、主語(l’Angoisse)、動詞(soutient)、目的語(maint rêve)で、「不安が多くの夢を支える」という文の構文はクリアーである。
しかし、いくつかの補語がその構文を不安定にし、意味を不透明にさせている。

さらに、第1カトランだけで文が収まらず、第2カトランにまで侵入する。詩節を超えた句またぎであり、伝統的な詩法に違反している。

こうした点を踏まえた上で、詩句の読解を試みよう。

マラルメは、ptyxという語に関して、意味はなく、脚韻のために発明したと、詩の執筆時期である1868年に、友人のアンリ・カザリス宛の手紙の中で書いている。
しかし、その言葉にもかかわらず、数え切れないほどの解釈が提示されてきた。
このことが意味するのは何か?
詩句の意味が不明であればあるほど、読者はその謎を解こうとして、詩句の罠に捉えられ、意味を探そうとする。意味がないと思われるところに、意味を探す。
意味が明確であれば、探す必要がないことを考えると、意味の理解を困難にすることの意義がわかってくる。永遠にたどり着かない宝探しの旅。
マラルメは、読者をその旅に誘い出す術を熟知した詩人なのだ。

純粋なその爪が、高く高く、瑪瑙を捧げる、
「不安」は、今宵の深夜、支えている、ランプを持つ者よ、
「不死鳥」によって焼かれた、多くの夕べの夢を。
骨壺がそれを納めはしない、

空のサロンの棚の上で。プティックスはない。
それは、廃棄され、空の、よく響く飾り。
(なぜなら、「師」は冥府の川スティックスに涙を汲みに行った、
たった一つのこの品、虚無が誇るこれを持ち。)

この8行の中心に置かれているのは、「不安(L’Angoisse)」。
文字の最初が大文字になっているので、固有名詞のように、形象化されている。
その「不安」は、美を熱望する詩人の創作上の不安と考えていい。
美を生み出そうとする詩人の戦いは、常に詩人の敗北に終わり、永遠の美に到達することはできない。
それはボードレールの「芸術家の告白」のテーマであり、マラルメも「蒼穹(L’Azur)」の中で、その苦悩、不安をすでに歌っていた。
https://bohemegalante.com/2019/06/20/mallarme-lazur/

詩人の不安の爪が、瑪瑙を捧げる。言い換えると、詩人は美に到達できないという不安に苛まれながら、瑪瑙に象徴される理想に心を向けている。

その姿は、ランプを持つ者(lampadophore)によって形象化される。

「不安」は、「不死鳥」によって燃やされた夢をまだ持っているのだ。
ここで燃やすというのは、燃えてなくなるのではなく、「不死鳥」という無限の存在によって活気づけられてきたということ。

今宵の深夜(ce minuit)という表現は、書き手の「今、ここ」を示す「直示」deictiqueであり、「不安」がこの詩を書きつつある詩人の今の状況であることを示している。

もし詩人が無限の彼方にある理想の美への探求を止めれば、不安に襲われることはなくなる。しかし、彼は夢を捨てず、夕べの夢(rêve vespéral)を深夜まで追い続ける。

従って、その夢は骨壺(cinéaire amphore)に収められてはいない。

「不安」は、詩人が夢を追い、美を追求する証しだといえる。

第2カトランの最初の2行は、第1カトランの続きだが、とりわけ空(vide)に力点が置かれる。

骨壺が置かれる棚(crédence)のあるサロンは、空だと言われる。(au salon vide)

ptyxには意味が欠けている上に、何もない(nul)と不在を示す言葉が付けられ、無が二重化している。

その上で、ptyxという音に対して、マラルメは同格表現を用いて、それが小さな飾り(bibelot)であると言う。そして、廃棄された(aboli)と空の(d’inanité)という形容が付加される。

Aboli bibelot d’inanité sonore

これは、yxのソネの中核をなすptyxを説明する同格表現であるが、意味以上に音が際立っている。
[ i ]と[ o ]の母音反復。詩全体の韻yxとoを凝縮している。
[ b ][ l ][ n ]の子音反復。aboli bibelot / inanité
最後の形容詞sonoreは、ptyxが意味ではなく、音に力点があることを示す。空であるが、響きはいい。

6行の詩句に続き、最後の2行で、苦悩が夢を支えている理由が説明される。

「師」とは詩人の師であり、地獄の河に下った者。とすれば、オルフェウスのことだろう。

Jean Baptiste Corot, Orphée ramenant Euridice des enfers

オルフェウスが地獄下りの際に携えていったものは、天空の音楽を奏でる竪琴。マラルメは、ここでそれを明示しせず、ただ一つのこの品(ce seul objet)と言う。
「この」品のこの(ce)は、今宵の夜中ce minuitと同じように、対象を現前化させ、今目のまえにそれがあるような印象を与える。

さらに、その品に、「虚無」le Néantが誇るという説明が付け加えられる。
ここで、詩を象徴する竪琴と虚無が結びつけられ、詩が虚無の場であることが暗示されるのである。

では、「虚無」とは何か?


Mais proche la croisée au nord vacante, un or
Agonise selon peut-être le décor
Des licornes ruant du feu contre une nixe,

Elle, défunte nue en le miroir, encor
Que, dans l’oubli fermé par le cadre, se fixe
De scintillations sitôt le septuor.

しかし、近く、北向きの窓は空。黄金が一つ、
消えかけている、たぶん、あの枠飾りのように、
一角獣たちが、一人の水の精に炎を投げつけている。

彼女は、鏡の中の、裸の死女。他方、
額縁に閉込められた忘却の中では、凝固する、
光の輝きが素早く形作る七重奏が。

ここでサロンの空を引き継ぐのは、北向きの窓。それが空(vacant)の状態にある。

では、近くにある北向きの窓が空であるとしたら、南を向いた遠くの窓は充満した状態にあるのだろうか。
そうした対比を考えると、次のような想定が可能になる。

一方にはイデア界があり、ギリシア彫刻のような美の理想がすでに実現している。アポロン的美の世界は、太陽の光で燦々と輝く。
その反対は、虚無、空の状態。黄金が消え去ろうとしている。一角獣たちが水の精に欲望の炎を投げつける映像は、ディオニソス的世界を思わせる。

ただし、黄金が消え去ろうとする光景と、一角獣たちが水の精に火を投げかける光景のつながりは明白ではない。
ここで詩人は、文法を無視した言葉の使い方をし、selon(・・・に従って)とle décor(窓飾り)の間にpeut-être(たぶん)という言葉を挟み込む。(selon peut-être le cadre).
この「たぶん」は、今宵の夜中(ce minuit)やこのただ一つの物(ce seul objet)のこの(ce)と同じように、詩句の中に詩人を現前させ、彼の声を直接伝える役割を果たしると考えていいだろう。
つまり、一角獣が投げかける炎と消え去る黄金の関係は、詩人自身にとっても、「たぶん」でしかない、ということになる。

他方、炎を投げかけられた水の精は、裸、つまり服がなく、死、つまり生が欠けた状態で、鏡に映る。
視点を変えれば、映像には実態がなく、虚無の存在である。

Jan van Eyck, Portrait dit “des époux Arnolfini, détail

この時、鏡は現実と虚像の対立を作り出すものではなく、合わせ鏡の中の像のように、全てが映像であり、自分自身を無限に反復して映し出していると考えた方がいいだろう。
そして、それこそ、マラルメの考える詩のイメージに他ならない。

詩句の意味は自己を参照することであり、詩の外部の世界を参照することはない。
その自己参照性を、68年のカザリス宛の手紙では、「無であるソネ、至るところでお互いを相互に映し出すソネ」と表現していた。
それが、詩の否定性であり、虚無に他ならない。

マラルメは、最後に、その自己参照性に基づき、「純粋なその爪が」という詩について、自らに語らせる。

7つの脚韻の詩は、七重奏(septuor)だ。
それを囲む枠組み(=額縁)が14行で組み立てられたソネであり、自己参照する言葉からは、外部への参照は忘れられている。
その額縁の中で、数多くの輝き(=言葉)が素早く凝固し、「純粋なその爪が」が出来上がる。
つまり、このソネ自体が自分について語っていることになる。

詩の「虚無」とは、詩のソトの世界を参照をするのではなく、合わせ鏡の世界のように、自己を映し出すことだと言える。

その自己参照性に基づく「虚無」のエムブレムが、styx。
意味がなく、押韻、つまり音のために作り出された言葉。

「純粋なその爪が」は、その詩自体について語る詩であり、内容は自己参照というにすぎない。
しかし、12音節の詩句が14行続けられ、音楽的な美を生み出している。
読者は、その美に導かれ、「yxのソネ」の中をのぞき込み、意味を見出す旅に出る。
その時に求める意味は、理性に基づく知的な理解ではなく、直感による発見によって生み出される。

マラルメの否定の詩学、あるいは虚無の詩は、そうした旅の入り口を指し示している。


1887年、マラルメは、自己を参照する音的な印として、自分の名前と7重奏という言葉を、詩の中に埋め込んだ。

詩の最後に、Septuorという言葉が置かれ、« Ses purs ongles, Très haut »で始まる詩のエンブレムになっている。
この二つの言葉を音にすると、SE(s) PUR O(ngles), T(r)É(s) (h) AT(t)という表現が、septuorと響き合っているることが耳を通して伝えられる。

Stéphane Mallarméという詩人の名前も、続く詩句から響いてくる。
(L’Angoisse, ce minuit), S(ou)T(ient), (l)AM(pado)PH(or)E,
M(aint rêve vesp)ÉRAL (b)R(u)LÉ (p)AR LE PHÉ(nix)

ここでは一つ一つの単語が解体され、音素となり、潜在的な結合を目指している。
言語体系の中で予め決定された意味を超えて、音の繋がりが、別の意味を喚起すると言ってもいいだろう。

マラルメはそうして生成するおぼろげだが詩的な印象を「虚構(Fiction)」と呼び、「文から語を介して文字へと至る」という言葉で表現した。
詩的言語が目指すものはその「虚構」であり、語と意味との常に新しい結合から生まれる美だと考えられる。

一つの詩の詩句全体がその詩を参照し、詩人の名前が紋章として密かに書き込まれた「純粋なその爪が」も、その詩法の下で実現されたソネである。

1892年に書かれた、アルフレッド・テニソンに向けられた追悼記事の中で、マラルメは次のように記す。

詩人の名前は、神秘的な仕方で、テクスト全体によって作り直される。そのテクストは、言葉がお互いの間で結合し、最後にはたった一つの言葉を形作ることになる。その言葉は、意味深く、魂全体を要約し、通行人に伝える。その言葉は、すでに虚しいものとなった(vain)書物の、大きく開かれたページから飛び立つ。

「純粋なその爪が」は、自己参照をする虚無の詩という自己語りをしながら、その詩の中に詩人の名前と全体のエンブレムを刻み込まれた、マラルメ的ソネの典型だといえる。

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