マラルメ 「それ自身の寓意的ソネ」 Mallarmé « Sonnet allégorique de lui-même » マラルメの詩法(2/2)

1887年に出版された「純粋なその爪が」(«Ses purs ongles»)には、それ以前に書かれた原形の存在が知られている。
1868年7月、友人のアンリ・カザリスに宛てて送られた、「それ自身の寓意的ソネ」(« Sonnet allégorique de lui-même »)である。

実際、二つの詩の間では共通の単語が用いられ、構文が類似している詩句もある。しかし、その一方で、違いも大きい。
マラルメの初期の時代の詩法を知り、後期の詩法との違いを知ることは、19世紀後半のフランス詩全体の動きを知る上でも興味深い。

幸い、1867年の詩に関しては、マラルメのいくつかの証言が残されている。それに基づきながら、彼が何を考え、どのように表現したのか、探っていこう。

マラルメの証言

1)ixの韻のソネ
1868年5月にウージェーヌ・ルフェビュールに宛てた手紙の中で、マラルメは次のように語っている。

ハンモックに揺られ、オリーブの木にインスピレーションを受けながら、ixの韻を持つソネを書くことができる。
ただし、ixで可能な韻は3つしかない。そこで、ptyxという言葉を生み出した。
そんな単語はどの国の言葉にもないと思うし、自分としては「韻の魔術」によって発明したと思いたい。

2)銅版画(エッチング)を喚起するための詩
68年頃、ルメール書店による銅版画と詩を組み合わせた詩・版画集の企画があり、マラルメはカザリスに依頼されて、「それ自身の寓意的ソネ」を書いた。
そのカザリス宛の手紙の中で、次のような告白をしている。

この詩はあまり造形的ではない。しかし、可能な限り白黒で、「夢」と「空無」に満ちた銅版画には向くと思える。

3)意味の欠如
同じ手紙の中では、意味に関する言及もある。

この詩は、「言葉(Parole)」の研究から抜き出した。
そして、もし詩に意味があるとしたら、言葉自体に内在する錯覚作用によって喚起される。
しかし、意味がなくてもいい。というのも、この詩は十分にポエジー(詩性)を含んでいるように思えるからである。そこで、何度も口に出して読んでみると、難解だけれど神秘的な(cabalistique)感覚を感じる。

4)自己を映し出す詩

この詩は、「無であるソネ sonnet nul」であり、様々な方法で自分自身を映し出す se réfléchissant de toutes les façons。

5)完璧な構築物

この詩の中で、「宇宙 l’Univers」に対して持つ印象が完璧に階層化され、表現されている。そのために、どんな要素も取り去ることはできない。

マラルメは、カザリスにこうしたことを書いた理由として、この詩が変わっている(bizarrerie)という非難を受けないためとしている。
その言葉は、彼自身が、「それ自身の寓意的ソネ」の特異性を意識していたことを示している。


「それ自身の寓意的ソネ」は、題名が明確に示しているように、ソネとは何かを語るソネであり、68年当時のマラルメの詩法を明かしてくれる。

Sonnet allégorique de lui-même

La Nuit approbatrice allume les onyx 
De ses ongles au pur Crime, lampadophore, 
Du Soir aboli par le vespéral Phoenix 
De qui la cendre n’a de cinéraire amphore 

Sur des consoles, en le noir Salon : nul ptyx
Insolite vaisseau d’inanité sonore, 
Car le Maître est allé puiser de l’eau du Styx.
Avec tous ses objets dont le Rêve s’honore. 

Et selon la croisée au Nord vacante, un or 
Néfaste incite pour son beau cadre une rixe 
Faite d’un dieu que croit emporter une nixe 

En l’obscurcissement de la glace, décor 
De l’absence, sinon que sur la glace encor 
De scintillations le septuor se fixe.

マラルメにとって、この詩はまず第一に、ixの韻が最も重要である。
なぜその韻を使うかと言えば、その音で終わる語尾を持つ言葉の数が少ないからだろう。当時の韻辞典(Dictionnaire des rimes)を見ても、ixあるいはixeで終わる単語の数は限られている。

ラノー(P. A. de Lanneau、1829年)はわざわさ、ixで終わる言葉はほとんど固有名詞だと断り、Erix, Félix等の名前から始める。それ以外の単語としては、Onix(yではくiであるのは珍しい), Phénix, Styxなど少数が挙げられている。

ナポレオン・ランデ(Napoléon Landais、1864年)だと、ixで終わる単語は18個、ixeは6個。後者の中には、fixe, rixeが含まれている。

リシュレ(Richelet, 1751年)の場合、取り上げた単語の次に、意味が書かれている。
Onyx, pierre précieuse. 宝石
Phénix, oiseau. 鳥
Styx, fleuve des Enfers. 地獄の河

Il fixe, stabile efficit,

3つの辞書を比べてみると、取り上げられている単語は必ずしも同じではない。マラルメはいくつかの辞書を参照し、onyx, Phœnix, Styx, rixe, se fixeを使用したのだろう。

ちなみに、どの韻辞書にも取り上げられていない、nixeは水の精の意味としては、ドイツ語由来の言葉であり、フランス語ではondineにあたるとリトレ辞典は記している。
フランス語でnixeを使用する場合には、必ず、dieux nixesという表現になり、出産に立ち会う神々の一人だとされる。(アカデミーの辞書・補遺版、1843年による。)

こうした状況の中で、マラルメはptyxという新語を発明したと言う。
そして、意味を持たず、韻のためだけの言葉を使うことで、「それ自身の寓意的ソネ」を象徴しようとした。
無であるソネ(sonnet nul)。つまり、意味のない詩。しかし、音は連なり、その音が「宇宙」を表象する(représenter)。

ちなみに、Ptyxという単語に関しては、1859年に出版されるヴィクトル・ユゴーの『諸世紀の伝説』の「サチュロス(半神半獣の精霊あるいは牧神)」と名付けられた章の中で、« Ptyx qu’on appelle Janicule »とされている。ジャニキュルはローマの丘の名前。
マラルメがこの詩を読んでいないとは考えにくいことから、意味のない言葉で韻のために発明したという手紙の内容は、現実を反映しているのではなく、Ptyxに彼自身が与えたかった解釈だと考えた方がいいだろう。

とにかく、2つの四行詩(カトラン)では、onyx-Phœnix (Phénix)-ptyx-Styxと繋がり、この音の連鎖は、87年の「純粋なその爪が」でも変更されない。

他方、2つの三行詩(テルセ)になると、68年のrixe-nixe-fixeの連鎖が、87年にはnixe-fixeとなり、rixeは消えることになる。
この変更は、68年の方が、ix(e)の韻に力点がより強く置かれていてことを示している。

このように、韻を確認することで、「それ自身の寓意的ソネ」が、「ixの韻を持つソネ」として成立していることが理解できる。


詩の意味に関して、マラルメの言うことは、かなり矛盾しているように聞こえる。

原則的には、意味はない。しかし、何度も声に出していると、神秘的な印象を受ける。それが彼にとっては、ポエジー性ということになる。

他方で、「同意する夜」で始まる詩は、白黒で、夢と空無に満ちた版画をイメージさせる。宇宙を表象し、完璧に構築されている。
しかも、それ自身を映し出す鏡の働きもする。

こうしたマラルメの詩のコンセプトを知るためには、どうしてもソネの意味を探求しなければならない。

Sonnet allégorique de lui-même

La Nuit approbatrice allume les onyx 
De ses ongles au pur Crime, lampadophore, 
Du Soir aboli par le vespéral Phœnix 
De qui la cendre n’a de cinéraire amphore 

Sur des consoles, en le noir Salon : nul ptyx,
Insolite vaisseau d’inanité sonore, 
Car le Maître est allé puiser de l’eau du Styx
Avec tous ses objets dont le Rêve s’honore.

それ自身の寓意的なソネ

同意する「夜」が、その爪の瑪瑙に火をつける、
純粋な「罪」に向けて、ランプを持つ者よ、
夕暮れの「不死鳥」が廃れさせた「夕べ」の罪。
不死鳥の灰を入れる骨壺はない、

黒い「サロン」の、テーブルの上に。プティックスはない。
奇妙で、生気のない、よく響く容器。
なぜなら、「師」は「冥界の河スティックス」の水を汲みに行ったのだ。
全ての品を持ち。「夢」が誇る品々を。

まず、題名に含まれる詩の寓意の意味について考えてみよう。
詩句の中で、多くの普通名詞の先頭が大文字にされ、固有名化されている。擬人化といってもいいだろう。

Nuit, Crime, Soir, Phœnix, Salon, Maître, Rêve.

これらの単語は、舞台の上で演技する登場人物のように、個体として振る舞う印象を与える。
例えば、「夜」が火を灯すと言うとき、普通名詞の夜ではなく、夜を表す人物が自分の指の爪に火を灯すことをイメージすると、寓意の意味がはっきりとする。

詩法としては、まず、1866年に発表された「蒼穹」(L’Azur)を思いだそう。
その中で、マラルメは、美の理想に取り憑かれ、逃走を試みるがどうしても永遠を求めてしまう、無力な詩人の姿を描いた。
https://bohemegalante.com/2019/06/20/mallarme-lazur/

68年になると、「夜 la Nuit」は同意する(approbatrice)存在と見做され、「罪 le Crime」も純粋(pur)だとされる。
罪とは、永遠の美を探求する詩作行為であり、夕べを犠牲にして行われる。
永遠を象徴する「不死鳥」に夕べの(vespéral)という形容がなされ、その鳥が夕べ(le Soir)を廃れさせる(aboli)。それは、詩作という罪が、夕べになされることを示している。

その罪に対して、夜は同意を与え、自分の爪の瑪瑙に火をともす。
「ランプを持つ者よ」という呼びかけは、従って、夜に向けられたものだと考えられる。夜はランプを灯し、夕べに感じた詩人の苦悩を慰めてくれる。

その時、もしかすると不死鳥は灰になっているかもしれない。しかし、不死鳥は死んだとしても、再び甦る。従って、灰を入れる骨壺はない。

ところが、その不在の骨壺は、それを置くテーブルを喚起し、そのテーブルがある黒いサロンを連想させる。
ないといいながら、不在のものを現前化させる、詩的技法である。

黒い「サロン」に関しては、この詩が版画を作成するインスピレーションを生み出すことを期待されて書かれ、白黒の版画に相応しいとマラルメが考えていることを思い出そう。その版画は、「夢」と「空無」に満ちているという。
そして、描かれるべき版画の一つの例を描いている。

Console

例えば、開かれた夜の窓。二枚の鎧戸がしっかりと留めてある。中に誰もいない寝室。しっかり止まった鎧戸のおかげで空気は動かない。夜は、不在と問いから出来ている。家具はない。ただし、テーブルらしきものの影がおぼろげに描き出されている。

この不在の骨壺に、ptyxという新語が並置される。
すでに記したように、この言葉は韻の音のためだけに作られていて、意味はない。
その新語に、同格表現で、説明が加えられる。

Insolite vaisseau d’inanité sonore

奇妙で、生気のない、よく響く容器

87年の説明は、次のように変更される。

Aboli bibelot d’inanité sonore

廃棄され、空の、よく響く飾り

insolite vaisseauからaboli bibelotの違いは、意味的なものよりも、音が大きい。
87年の表現は、母音反復(o, i )、子音反復(b, l )が素晴らしい。
従って、音の効果を狙ったstyxの説明としては、後者の方が優れているといっていいだろう。
他方、意味としては、空虚で、意味はないが、よく響くもので、それほど変わりはない。

次に続く、地獄の河に下った「師」は、ギリシア神話のオルフェウスを連想させる。彼は竪琴の名手であり、ヨーロッパの詩人たちの始祖と見做される。

Gustave Doré, La traversée du Styx


68年の詩では、「師」は手に全ての品(tous ses objets)を持ったとあるが、87年には、「この唯一の品(ce seul objet)」に変更される。
オルフェウスと音楽を繋ぐのは竪琴であり、その楽器に焦点を当てるとしたら、単数の方が相応しい。
また、この(ce)という指示形容詞を使うことで、手にするものが今、ここにあるような雰囲気を生み出すことになる。

さらに重要な変更は、その品を誇りに思うのが、68年は「夢(Rêve)」。87年は「虚無(Néant)」に変更される。
この手直しは、詩に意味を付与する際に、決定的な重要性を持つ。

「それ自身の寓意的ソネ」からインスピレーションを受けて描かれうる版画に、マラルメは、「夢」と「空無」という二つの側面を見ていた。
68年から87年へと進む中で、その二つの比重が夢から無へと移行する。詩句の変更から、その変化を推定することができる。

実は、すでに出てきた黒い「サロン(noir Salon)」も、87年には「空のサロン( salon vide)」へと変更される。

第1テルセの最初に出てくる「北向きの空の窓」は二つの詩で共通しており、そこで示される「空」という概念が、68年では突然出てくるのに対して、87年ではすでに取り上げられ、詩の中心的な意味として表現されることになる。

68年の時点では、夜は同意を示す存在であり、詩人の持ち物は「夢」が誇るものである。たとえ、styxという器(vaisseau)が生気を欠いている(d’inanité)としても、響きは豊かだ。その器とは、詩の比喩であり、詩には瑪瑙の燃える輝きが秘められている。


2つのテルセでは、誰もいない黒いサロンの様子が描かれる。

Et selon la croisée au Nord vacante, un or 
Néfaste incite pour son beau cadre une rixe 
Faite d’un dieu que croit emporter une nixe 

En l’obscurcissement de la glace, décor 
De l’absence, sinon que sur la glace encor 
De scintillations le septuor se fixe.

虚空に開かれた北向きの窓に沿って、一つの不吉な黄金が
美しい窓枠のために、争いを引き起こす、
一人の神の争い。その神を連れ去ろうとする一人の水の精、

鏡が暗くなっていく中で。
不在の飾り。ただし、鏡の表面では、また、
光の輝きの七重奏が形作られる。

北に向いた窓、その美しい枠。その窓と対面する鏡。その鏡には光の輝きが映っている。
ここからマラルメは、次のような版画を思い描く。

部屋の奥には鏡が掛かっている。その枠は好戦的で、死の苦悶を感じさせる。鏡に映る星は、はっきりとはわからないが、大熊座だろう。その星座は、世界から見捨て去られたこの部屋と空とを繋いでいる。

カザリスに宛てられたこの記述から、「光の輝きの七重奏」という言葉によって大熊座を連想させようとしたマラルメの意図を読み取ることが出来る。というのも、大熊座の尾から腰は、7つの明るい星によって描かれるからである。

ちなみに、フランスではその7つの星の列を「巨大な鍋Grande Casserole」と呼ぶが、日本では「北斗七星」と名付けている。

大熊座にまつわる神話では、ニンフのカリストが、ゼウスの妻ヘーラーから嫉妬され、熊の姿に変えられ、天に昇り大熊座になったとされている。
マラルメが、部屋と天を繋ぐと大熊座と記した時、この神話が頭にあった可能性もある。

黒い「サロン」の窓が北に向いているのは、大熊座が北半球の星座であることと関係しているためだろう。
詩句の中で、「北(Nord)」の最初が大文字になり、固有名詞化されている。それは、普通名詞として一般的な北を意味するのではなく、北半球を暗示するためだと考えることもできる。

北向きの窓の向こうは虚空(vacant)で、何もない。その窓に向き合う鏡は、何も写さないはずである。しかし、鏡の表面には光の七重奏が描かれる。
この不在と存在の戯れが、マラルメの考えるポエジーの核を形成している。

ポエジーの目指すものは美そのものであるが、決して到達することはできない。詩人は美への探求という不毛な行いから逃れようとするが、美は彼から取り憑いて離れない。
虚無の彼方には目に見えない黄金(or)がある。その黄金は、不可能な旅へ詩人を否応なく引き込む不吉なもの。
第1テルセの2行目で、不吉(Néfaste)が、一行目の黄金(or)から切り離され(rejet)、目立つ位置に置かれているのは、不吉さを強調するため。

Henri Fantin-Latour, La Nuit

その黄金が仕向ける(inciter)のは、一人の神と水の精との戦い。奇妙なことに、神がニンフを襲うのではなく、ニンフが神を連れ去ろうと考えている。

神とは詩人のことであり、ニンフが美であると仮定すると、逃げようとする詩人と追いかける美という構図が見えてくる。

そして、その構図に基づいて、窓枠(cadre)が美しく飾られる。

ところが、神と水の精との争いは、直接見られるわけではなく、鏡に暗く映った映像として浮かび上がる。だからこそ、それは実在ではなく、不在の飾り(décor de l’absence)なのだ。

詩句の中では、ここでも、不在(l’absence)が、飾り(décor)と切り離され、次の行の先頭に置かれ、強調されている。
そのような語句の配置から、北向きの窓の虚空と同じように、虚無がマラルメの詩の根本にあることが、再度確認される。

そうした中で、詩人は美にさらわれ、詩句を綴り、ソネを構成する。
14行のソネの韻の数は、7つ。とすれば、鏡の表面に再び凝固する光の七重奏は、ソネに他ならない。
再び(encore)というのは、ソネは一度ならず描き出され、今回は、「それ自身の寓意的ソネ」として凝固することを意味している。

「それ自身の寓意的ソネ」は、題名の通り、自らを参照し、ソトの世界を参照してはいない。マラルメはそれを逆に捉え、世界から見捨てられた部屋と言う。
しかし、7つの星によって認識される大熊座が空と繋がるように、虚無の彼方の黄金の美を、ソネという鏡の表面に描き出すことを期待されている。
そして、そこに描き出されるのが、よく響く(sonore)styxに導かれた「光の輝きの七重奏」。

詩の最初に置かれた言葉が、「同意する夜」であることは、68年のマラルメの詩学が、否定に傾くのではなく、肯定的な詩学であったことを暗示している。
光と音が織りなす七重奏は、詩の外部の世界を参照せず、自己完結的で、無意味と思われるかもしれない。しかし、美しい音を奏でる。
マラルメが発明した新語ptyxに導かれた「それ自身の寓意的ソネ」は、そうした七重奏の一つの現れに他ならない。


68年の詩法から87年の詩法へ

1887年に発表された「純粋なその爪が」が、68年の「それ自身の寓意的ソネ」に基づいてることは確かである。しかし、68年の詩を87年の異文(ヴァリアント)と考えるとしたら、あまりにも違いが大きい。

第1カトラン
68年の詩句から保たれているのは、6つの単語のみ。
onyx(瑪瑙)、ongles(爪)、lampadophore(ランプを持つ者)、vespéral(夕べの)、Phœnix(不死鳥)、cinéraire amphore(骨壺)。
そのうちの4つは、韻と関係している。
onyx-Phœnix、lampadophore-amphore

第2カトラン
二つの興味深い点がある。
一つは、変更された単語。
noir Salon – salon vide
Rêve – Néant
黒と夢が、空と虚無へと変わり、87年には無に対する意識がより強くなっていることがわかる。

二つ目は、散文的な詩句の存在。
「師」が地獄の河の水を汲むという一文(2詩句)は、散文と言ってもいいほどで、他の詩句から際立っている。
それが87年にもほぼ同じ形で保たれていることは、マラルメが地獄下りと詩の関係を明確に読者に伝えようとした結果だと考えたい。

第1テルセ
単語のレベルでも、内容のレベルでも、ほぼ全てが変えられている。
その典型は、この詩の中核をなすixeの韻を持つ単語の消去であり、rixe-nixe-fixeからrixeが削られ、87年にはnixe-fixeだけになる。yxのソネと呼ばれることもある詩から、一つのixeが減らされたことは、詩の力点がixeという韻から、別のところに移ったことの現れだと考えてもいいだろう。

二つの詩で共通する単語の数は少ない。
la croisée au nord, vacante, un or, une nixe, selon.
87年には、韻に使われたrixeがなくなり、décorがorと韻を踏む言葉として登場する。
décorは、68年の詩では、第2テルセで使われていた。

描かれる情景もまったく変わり、不吉な黄金が神と水の精の戦いを引き起こす場面から、黄金は消え去ろうとし、一角獣たちが水の精に火を投げかける場面へと変えられる。
68年の一人の神が詩人を暗示すると考えると、87年には詩人の姿が消え、黄金も消えようとしていることから、不在の観念がより強く表現されていることがわかる。

第2テルセ
scintillationsとseptuorを中心に構成される表現は、ほぼそのままで保たれる。
それ以外に詩句で残るのは、se fixeとencor(e)だけ。
新たに登場したcadreは、第3詩節から移動したもの。

ここで最も注目したいのは、orの韻。
68年は、décor-encorであったものが、87年には、encor-septuorとなる。
詩の中の最も重要な単語であるseptuorが韻として用いられ、詩の最後に置かれているという点で、この手直しは成功であったといえる。

詩句の意味を考えると、光輝く七重奏が素早く凝固するイメージは共通するが、それ以外の点では、大きな違いが見られる。
68年は、鏡(glace)という言葉が2度使われ、鏡に映る映像という点にスポットが当たっている。
87年には、死んだ女(defunte)、裸(nue)、忘却(oubli)が、不在(l’Absence)という言葉以上に、虚無的な印象を強く表出する。

Edouard Manet, Portrait de Stéphane Mallarmé, 1867

以上のような字句的な変更を確認するだけで、87年の「純粋なその爪が」が、「単に絶対へ接近する道ではなく、虚無と不在の場である。」(ベルトラン・マルシャル)ということが理解できる。

87年には、68年にあった「肯定する夜(la Nuit approbatrice)」はもうない。
逆に言えば、68年の方が、まだ「不安(l’Angoisse)」が少なかったといえる。

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