ボードレールの美学 想像力と現前性

シャルル・ボードレール曰く、
「美は常に奇妙なもの」。Le Beau est toujours bizarre.
「美は常に人を驚かせるもの」。Le Beau est toujours étonnant.

奇矯なものというのは、1855年の万国博覧会での美術展の批評での表現。
驚かせるというのは、1859年のサロンの美術批評の中で使われた言葉。

こうした美意識を持ったボードレールの美学とは、どのようなものなのだろうか?

再現から作品そのものへ

ボードレールが芸術作品の創造に関して抱いている基本的な構図は、古典主義的である。
まずモデルとなる対象があり、その対象を再現したものが作品。

古典主義的な考えでは、美しい対象を選び、美しく描き出すことが芸術作品と考えられた。
例えば、18世紀ロココ絵画の傑作、フランソワ・ブーシェが描いたポンパドゥール夫人の肖像画。

François Boucher, Madame de Pompadour

美しい女性、豪華な家具やドレスが、現実そのままと思われるほどの質感を伴って再現されている。

ボードレールも、こうした再現芸術の構図に基づいて作品の創造を考えている。
実際、絵画制作に関して、対象を見ずに空想だけで描くことには反対の立場を取る。もし空想だけに頼ると、先入観によって予め作られている型にはまったものしか生み出せなくなってしまうから、というのがその理由。

しかし、現実の対象をあるがままに写し取ることを目的と考えてもいない。
作品はそれ自体で価値を持ち、現実のコピーではない。
例え肖像画であろうと、モデルに「似ている」ことが重要ではなく、肖像画としての価値は絵画そのものの質にある。

ボードレールの美学は、その意味で、芸術至上主義と言ってもいい。

対象

a. 対象=素材

ボードレールは、芸術創造において、現実にある事物が原点であるとみなす。その意味で、現実の対象が作品の原点である。
しかし、それを再現することが目的ではないと考える。

その点について、彼は「辞書」を例に取って説明する。
作家は辞書に掲載されている言葉を使い、小説や詩を書く。しかし、決して、辞書そのものを再現することはない。
辞書は素材となる言葉を提供するものであり、作家はそれらの言葉を組み合わせて作品を作り出す。

同じ考え方が、絵画にも適用される。自然の事物や人物は、様々なイメージや符号の貯蔵庫であり、画家はそれらを組み合わせて絵画を描く。

ここで注意したいことは、ボードレールはあくまでも、現実に存在する事物を対象とし、目に見える世界を客観的に観察することを前提にしていることである。
空想だけで作品創造をすることは、ボードレールの芸術観にはない。

b. 想像力

現実の対象を素材に分解する役割を果たすのが、「想像力」である。
「1859年のサロン」の中で、ボードレールは、想像力の役割として、「分析(analyse)」と「総合(synthèe)」を挙げる。
分析は、対象を様々な要素に分解(décomposer)する。

その分解作業の中で、対象の「色」や「輪郭」、「音」、「香り」等を取り出すのだが、単にそれらを切り分けるのではなく、それらの「精神的な意味(sens moral)」を取り出すことが重要である。

例えば、色に関して言えば、黄色、オレンジ、赤は、喜び、豊かさ、栄光、愛の概念を表すとボードレールは言う。

もちろん、そうした感じ方は、普遍的なものではなく、一人一人で違っている。同じ対象から取り出される要素も、取り出す人間によって違うものとなる。
また、それぞれの要素の「精神的な意味」も、各人によって異なったものになる。

c. 醜、苦痛、官能

ボードレール的想像力を活発に働かせる酵母となるのは、醜く、激しい苦痛を生みだし、官能(volupté)を刺激するもの。『悪の華』の悪が、それらを象徴している。

醜い物の代表は、道端に転がっている屍(une charogne)。
https://bohemegalante.com/2019/10/05/baudelaire-une-charogne-poeme-amour-insolite/
そのおぞましい姿が、想像力をかき立て、対象を分析、分解するきっかけとなる。

社会の底辺にうごめく人々、老婆や売春婦、浮浪者たちを対象するのも、同じ理由による。

Henri de Toulouse-Lautrec, Femme à sa toilette

現実世界の倦怠(ennui)を離れ、別の次元に向かう時には、飛び込む先の深淵が「地獄であろうと、天であろうとどちらでもいい」と叫び、地上的な価値観を廃止し、この世からの旅立ちだけを求める。
https://bohemegalante.com/2019/11/01/baudelaire-le-voyage-7-fin/

醜い現実やそこからの逃走を作品の対象とすることは、激しい苦痛を伴う。
それにもかかわらず、なぜボードレールはあえて美ではなく、醜を選ぶのか?

『人工楽園』(1860年)の序文の中で、彼はこう書く。
「人間は、苦痛、大惨事、宿命からさえ、新しく繊細な喜びを取り出すことができる特権を持っている。」

ボードレールの発見は、美よりも醜の方が官能性(volupté)の強度が強く、想像力を活発に働かせる可能性があるということ。
フランス革命の後、急速に都市化が進み、貧困が蔓延したパリの町に、醜の素材は増加するばかりだった。

美が奇妙であり、驚くべきものであることの理由がここにある。

Honoré Daumier, Le Wagon de troisième classe 

しかし、醜い対象をそのまま描いたとしても、官能は生まれない。
対象をそのまま再現するのは単なるコピーであり、芸術にはならない。
彼は、レアリスト(写実主義者)の主張を次のように揶揄した。
「私は事物をありがままに再現する。その際、私という存在はないことにしている。」(「1859年のサロン」)

ボードレールにとって、「客観的な対象」と「私の存在」の融合が、新たな芸術への鍵となる。

外と内の融合

a. ルソー的夢想:自己と自然の一体化

対象から官能的な刺激を受けた芸術家は、想像力を働かせて対象を分析し、総合する。(「1859年のサロン」)
こうボードレールが書くとき、いかにも、私という主体が客体に対して、科学的で客観的、知的な働きかけをするように読めるが、しかし彼の思考はまったく違う方向に働く。

対象を様々な要素に分解するとき、彼が注目するのは、「精神的な意味(sens moral)」。精神は、対象ではなく、主体の側に由来する。
従って、ボードレール的想像力は、主体と客体を融合し、一体化する方向に動くことになる。

主体と客体の一体化を彼が語るとき、頭にあるのは、ジャン・ジャック・ルソーの夢想である。
孤独な散歩者ルソーは、スイスの湖の畔で夢想に浸っている時、自分の心臓の鼓動と波の打ち寄せる音が一つに感じされ、自己と自然が一体化する感じを味わう。それは至福の時であり、彼は地上では決して得られない恍惚(extase)に達した。
https://bohemegalante.com/2019/04/21/rousseau-reveries-extase/

ボードレールは、このルソーの体験を思い起こさせる記述をすることがある。

1860年の『人工楽園』の序文では、「暗く孤独な散歩者」を「群衆のうごめく波」の中に見出す。スイスの自然をパリの群衆に置き換え、ルソーの体験を19世紀パリへ移行させる意図を、そのことによって示したといえる。

1862年の「芸術家の告白」では、海と空の境が消え去った無限を前にして、芸術家は「夢想の偉大さの中で自己を失う」。
https://bohemegalante.com/2019/02/20/baudelairle-confiteor-de-lartiste/2/

ルソーの夢想への参照は、自己と自然の一体化体験を彼の芸術観の基盤としていることを、こっそりと明かしている。

b. 人工楽園

対象と主体の一体化は、『人工楽園』の中で、ハシシ(hashish)と呼ばれる大麻による幻覚体験の中で、明瞭に描かれる。

Salvator Dali, The Persistence of Memory

幻覚が始まると、物の形がひどく変形し、これまで見たことのない姿を取り、そして幻覚者の中に入り込んでくる。あるいは幻覚を見ている者が、自然の事物の中に入り込む。

1851年の記述では、ボードレールはその時の様子を、音に色がつき、色が音楽を奏でると言う。これは五感が相互に関連し合う「共感覚」の世界に他ならない。

そこでは物も私も要素に分解され、相互に浸透し、どちらがどちらかわからなくなる。「あなたは座り、煙草を吸っている。と、パイプの中にいるように思われる。パイプがあなたを吸い、あなたは青っぽい雲の形をして蒸気になる。」

1860年になると、パイプ以外にも、木や鳥の例が出される。
木を見つめていると数秒のうちに木になり、木々のざわめきがあなたの呻きになる。
青空の彼方を飛ぶ鳥は、空を飛びたいというあなたの欲望を表現していて、鳥を見ているあなた自身がすでに鳥になっている。

こうした主体と客体の一体化を、ボードレールは、客観性(objectivité)の異常な増大と考える。
「客観性があなたの中で異常に発展すると、外部の事物をじっと眺める時あなたは自己の存在を忘れ、外部の事物と混ざり合うようになる。」

c. 思い出と生命

薬物による幻想(hallucination)はある意味で特殊なものであり、ボードレールの時代には、それが精神病患者の体験する狂気の状態と比較されたりもした。

しかし、より身近な例を考えることもできる。それは「思い出」。
思い出の中の出来事は、かつて現実に存在したと思われていること。それを思い出すのは現在であり、思い出す時には存在していない。
とすれば、思い出の映像は、現実の事象と私の内的な世界が混ざり合ったイメージだといえる。

さらに言えば、自然の事物は物理的には無性物なこともあるが、思い出のイメージには「私」という人間の生命が息づいている。
その意味で、自己と世界の混合体は、常に生命を宿している。

『悪の華』に収められたスキャンダラスな韻文詩「屍」の中で、散歩者は街角で屍を見る。それを客体として外から見れば、生命がなく、醜悪な存在でしかない。
しかし、死体にたかるハエの羽音やウジ虫たちのうごめきをながめ、五感で捉えていると、その動きが死体に生命を与えているように感じられる。
その描写は、醜悪でありながら、しかし生命を感じさせる。

蠅たちがブンブンうなっていた、腐った腹の上で。
そこからウジ虫の黒い大群が湧き出、
濃い液体のように流れていた、
生命あるボロ着に沿って。

https://bohemegalante.com/2019/10/05/baudelaire-une-charogne-poeme-amour-insolite/3/

この詩句の最後にあるように、死体に生命が与えられる。
醜い死体をながめるこの視線が生み出すイメージは、自己と自然が一体化し、客観性が異常に増大して主観性と一つになる世界像と並行関係にある。

d. 暗示

主客が一体化した世界は、別の視点からすると、一つの世界がもう一つの世界を暗示するということでもある。

ボードレールの世界観によれば、現実そのものであるかのように思い込まれている地上の事物の存在は、それほどしっかりしたものではない。むしろ、「本当の現実」は夢の中にある。

自然の世界は精神の世界の中に入り込み、精神世界の「糧(pâture)」になり、言葉で言い表せない混合体(amalgame indéfinissable)を作り出す。
その混合体をボードレールは個性(individualité)であると見做す。
一人一人の個性は、物質的な存在と心的な存在が入り交じっていることになる。

こうした世界観の中で、官能を強く呼び覚まし、想像力を作動させる「女性」は、夢に巨大な闇や光を投げかけ、自分とは別の生を生きる存在であると、ボードレールは言う。
そこで、「女性」は現実に生きながら、夢の世界を絶えず喚起する暗示的(suggestive)存在でもある。

こうした女性のあり方は、想像力の働きを教えてくれる。
「1859年のサロン」で、想像力は世界の始まりの時、類似(analogie)と暗喩(métaphore)を作り出したと記されている。

類似が成立するためには、二つの存在が前提になる。
例えば、一方には赤い色があり、他方にはパラの香りがあるとする。類似は、赤と香りをつなげる。このつながりは感覚的な対応(correspondance)といえる。

隠喩も二つの存在が前提になりるが、一方の項目は隠れている。
隠れているのが精神的な存在だとすると、地上的なものが精神的なものを指し示すと考えられる。
例えば、絵画の中では、白い鳩(見える物)が精霊(見えない物)を象徴しています。

このように考えると、類似も隠喩も、「暗示」に基づいていることがわかる。

こうした世界観は特殊であるかのように見えるが、実はごく普通のことである。
私たちがあるものを見、その後でそれを思い出すとき、見た対象は私たちの中に取り込まれ、主観性を帯びている。それは客観と主観の融合物である。
そのために、同じものを見たとしても、人によってイメージは違っている。
芸術家は、そのイメージを表出し、作品を制作する。

表出

a. 規則

芸術家は、現実世界にある対象と自己の内的世界の「定義できない混合物(amalgame indéfinissable)」を、作品として表出する。

ボードレールはその際にも想像力の働きを考える。
想像力は分析と同時に総合もする。
分析した要素を総合することが、作品の制作となる。
そして、総合する際にも、分析の時と同じように、魂の最も奥にある各人の起源となる「規則」に従って行われる。

ボードレールにとって規則は自由を束縛するものではなく、むしろ独創性を産み出すものだと考えられる。というのも、規則は、心的な組織の要請によって作り出されたもので、個々の芸術家のオリジナリティが開花するのを助けるものだといえるからである。

b. スピード感と統一感

それぞれの芸術家固有の気質に基づいた規則に従い、「定義できない混合体」を作品として実現するためには、はっきりと表出することが重要だとボードレールは考える。
「1859年のサロン」では、「夢の言語がはっきりと(très nettement)翻訳されるためには、非常にはっきりとした仕上げ(exécution très nette)が必要」と記している。

では、はっきりとした仕上げとはどのようなものだろう。

まずは、スピード感。
夢の言語(作品のコンセプト)に付随する特別な印象が失われないためには、素早く描くことが必要だという。
このスピード感は、ウージェーヌ・ブーダンや印象派の画家達の手法を思わせる。

Eugène Boudin, Les jetées marée haute, Trouville
Claude Monet, Le Port de Trouville

この二枚の絵画は、古典主義的絵画と比較すると、細部が等閑にされ、素描にしか見えないだろう。

スピード感は、全体の統一感ともつながる。
その統一感は、支配的な色彩によって生み出される。

一つの画布は一つの支配的な色で統一され、色の混在になってはいけない。そのため、大きな画布では大きなタッチで描くことが必要で、タッチが混ざることは避ける必要がある。
そして、支配的な色彩がはっきりしていれば、絵画にエネルギーと新鮮さがもたらされると、ボードレールは言う。

近くから見ると絵具の塊にしか見えないが、一定の距離を置いてみると芸術家のコンセプトをしっかりと捉えることができる。それもまた印象派絵画の特色である。

Claude Monet, Nymphéas, 1907

c. 「新たなるもの」の創造

こうして生み出される作品は、モデルとなった現実の事物や事象の再現ではなく、「新たなるもの」として存在する。

こう言ってよければ、対象を眺め、その対象を自分の中に取り込み、イメージとする。そのイメージを芸術家固有の規則に従って表出することで、「新たなるもの」が生み出されるのである。

その創造の原理は想像力にある。
想像力は、「新しい世界」を作り出し、「新たなるもの」の感覚を生み出す。

そのようにして生み出されたものは、モデルである自然と芸術家の内的世界の混合物(思い出)が表現されたものであり、それ自体として価値を持つ。
このボードレールの芸術観から、芸術の原理が再現性ではなく、作品そのものの現前性へと変化したことが理解できる。

具体的な一つの例を取り上げてみよう。

モーリス・ユトリロの母親、シュザンヌ・ヴァラドンは多くの画家達のモデルであり、彼女自身も画家だった。

シュザンヌの写真、シュザンヌによる自画像、ロートレックの描く肖像画、ルノワールの作品を見ていこう。

Suzanne Valadon, autoportrait
Lautrec, Portrait de Suzanne Valadon
Auguste Renoir, Portrait de Suzanne Valadon

これらの肖像画は、同じ女性を描いたとは思えないほど、画家の個性が際立っている。
モデルであるヴァラドンを再現することが主眼でははく、それぞれの肖像画そのものが一人一人の女性を表していて、それぞれが独自の価値を持っていることを実感できるのではないだろうか。

Edourad Manet, Olympia

「新たるもの(le nouveau, le neuf)」とは、この1枚1枚の絵画に描かれた女性であり、絵画が生み出す感覚(sensation)のことを指す。

その「新たなるもに」に「美」を見出す。
モデルの美醜ではなく、作品そのものが生み出す「美」。それが問題なのだ。

ボードレールの美学は、テーマを同時代の社会の醜や悪に定めながら、再現性の芸術観から現前性の芸術観への展開をもたらしたのだと言うことができる。

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