ランボー 最も高い塔の歌 Rimbaud « Chanson de la plus haute tour » 

ランボーの『地獄の季節(Une saison en enfer)』の中心には、「錯乱2 言葉の錬金術(Délires II Alchimie du verbe)」という章があり、その後半に「最も高い塔の歌(Chanson de la plus haute tour)」が置かれている。

シャンソン(chanson)という題名が示すように、この詩は、リフレインー詩節ーリフレインー詩節ーリフレインという構成から成り立ち、シャンソンの原形に基づいている。

最も高い塔というのは、詩人が立て籠もる象牙の塔(tour d’ivoire)を思わせ、世界から孤立した場所を連想させる。
実際、『地獄の季節』では、この詩の直前に、次の様な前書きが書き付けられている。

Je finis par trouver sacré le désordre de mon esprit. J’étais oisif, en proie à une lourde fièvre : j’enviais la félicité des bêtes, — les chenilles, qui représentent l’innocence des limbes, les taupes, le sommeil de la virginité !
Mon caractère s’aigrissait. Je disais adieu au monde dans d’espèces de romances :

 ぼくは精神の混乱を神聖だと思うようになった。何もすることがなく、ひどい熱に捉えられていた。動物たちの幸福が妬ましかった。ーー毛虫たちは辺獄の無邪気さを表し、モグラたちは純潔の眠りを表す。
ぼくの性格は気難しくなっていた。ぼくは世界にさらばと言った、感傷的な歌のようなもので。

(55分09秒から)

「最も高い塔の歌」は、そうした世界に別れを告げる歌の一つだ。

何事もすることがない中で、熱にうかされ、錯乱した状態で歌われる「最も高い塔の歌」は、素晴らしくスタイリッシュなリフレインから始まる。

Qu’il vienne, qu’il vienne,
Le temps dont on s’éprenne.

時よ来い、時よ来い、
陶酔の時よ、来い。

人が夢中になる時(le temps dont on s’éprenne)というのは、ニルヴァナあるいはエクスターズの時。
主体と客体が溶け合い、時間が消滅し、今の瞬間が永遠になる。

精神が錯乱する中、若い詩人がその時に呼びかけるのは、世界から最も遠いところにある塔の中。
世界に別れを告げ、彼は塔に身を潜め、「時よ来い」と念じる。

では、なぜ彼は塔に籠もるのか?

J’ai tant fait patience
Qu’à jamais j’oublie.
Craintes et souffrances
Aux cieux sont parties.
Et la soif malsaine
Obscurcit mes veines.

Qu’il vienne, qu’il vienne,
Le temps dont on s’éprenne.

これほど我慢したんだ。
だから、永遠に忘れてやる。
恐れも、苦しみも、
空に飛んでいった。
不健全な渇きが、
ぼくの血管を暗くする。

時よ来い、時よ来い、
陶酔の時よ、来い。

ランボーの詩らしく、具体的なことは何もわからない。
彼は言葉をまき散らし、その言葉が素晴らしく音楽的で、新鮮で、若々しい勢いに満ちた詩句になっていく。

小林秀雄は、「ランボオ程、己を語ってどもらなかった作家はない。」と書いている。「痛烈に告白し、告白は、朗々として歌となった。吐いた泥までがきらめく。」(「ランボオ II」)

この詩が書かれた時、彼はヴェルレーヌと一緒にブリュッセルやロンドンで、常識的な視点から見れば、錯乱状態の生活を送っていた。
その時の様子は、デカプリオが主演した映画「太陽と月に背いて(Total Eclipse)」に描かれている。

この生活の中で、ランボーが何かを辛抱したようには見えない。とんでもなく我が儘で、乱暴な少年。振りまわされるヴェルレーヌの苦しみの方がはるかに大きそう。
しかし、ランボーとしては、苦しみ、辛抱したのだろう。
そして、これだけ辛抱したのだから、もう全て忘れてしまいたいと言う。

だが、他方で、まだ何かを望む気持ち=渇きも残っている。
全て忘れようという時、そんな気持ちは不健全だ。
血液を汚し、暗いものにする。

そんな思いの中で、再び、リフレインが繰り替えされる。
「時よ来い、時よ来い、陶酔の時よ、来い。」

Telle la prairie
À l’oubli livrée,
Grandie, et fleurie
D’encens et d’ivraies,
Au bourdon farouche
Des sales mouches.

Qu’il vienne, qu’il vienne,
Le temps dont on s’éprenne.

草原はこんなだ。
忘却に委ねられ、
大きくなり、花開く、
香や毒麦で、
荒々しい羽音の中、
汚いハエたちの。

時よ来い、時よ来い、
陶酔の時よ、来い。

Berthe Morisot, Dans les blés

次に、詩人は、忘却に委ねられた自己の姿を、草原として描き出す。

その際、いつものように、具体的な何かが示されるわけではない。
ここでは、草原(prairie)に含まれる[ i ]の音に導かれて、oubli, livrée, grandie, fleurie, ivraiesという言葉が、連ねられていく。
そして、そうした単語たちが生み出す音楽に導かれて、花開き、香りのいい草原のイメージが浮かび上がる。

しかし、その草原には、美しいばかりではなく、ランボーの詩らしく、毒麦(ivraie)も配置される。

また、ブンブンとうなる音(bourdon)の[ ou ]の音が主音となり、ハエ(mouches)が、荒々しい(farouches)しく飛び回る様子が描き出される。

草原は決して平穏で、全てが忘れられた存在ではなく、毒麦や汚いハエがうるさく飛び回っている。

だからこそ、再び、リフレインが繰り返される。
「時よ来い、時よ来い、陶酔の時よ、来い。」

Marc Chagall, Calvary 

詩人は、苦しみも、恐れも全て空に飛び去ったと言う。しかし、渇望は残り、血液は汚れ、彼を心の反映でもある草原には汚いハエがブンブンと音を立てている。それは決して平穏な状態ではない。

だからこそ、彼は、陶酔の時に呼びかけ、我を忘れることができる時が来くることを望む。
その忘我の高揚(extase)が得られるのは、最も高い塔の中。
ランボーは、忘我の願いをリフレインに込め、「最も高い塔の歌」を口ずさむ。
その間だけは、エクスターズに達しただろう。

そして、読者である我々も、この詩を口ずさみながら、詩句の音楽に酔い、思わず我を忘れる。そして、エクスターズの時を過ごす。

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