ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 3/5

「最も高い塔の歌(Chanson de la plus haute tour)」で世界に別れを告げたというランボー。

その韻文詩は、非常にスタイリッシュなリフレインで始まる。

Qu’il vienne, qu’il vienne
Le temps dont on s’eprenne !

時よ来い、時よ来い
陶酔の時よ、来い!

その後に続く詩句は、何か現実を反映しているというよりも、苦しみ、恐れ、渇き、忘却といった言葉が疾走し、花開く草原に汚いハエたちの荒々しい羽音がする。
https://bohemegalante.com/2019/11/22/rimbaud-chanson-de-la-plus-haute-tour/
連続する詩句は、具体的なものを描写する言葉ではない。
言葉たちが幻覚(hallucination)を生み出しているようでさえある。

この歌で世界に別れを告げた後、詩人は再び「ぼく」の経験を語り始める。

J’aimai le désert, les vergers brûlés, les boutiques fanées, les boissons tiédies. Je me traînais dans les ruelles puantes et, les yeux fermés, je m’offrais au soleil, dieu de feu.

ぼくは愛した。砂漠を、焼けた果樹園を、古びた店を、生ぬるくなった飲み物を。ぼくは、臭い小径をぶらぶらと歩いた。目を閉じて、炎の神、太陽に身を捧げた。

「ぼく」の愛したものは、価値が低下したもの。
果樹園(vergers)は焼け(brûlés)、店(boutiques)は古びて色あせ(fanés)、飲み物(boissons)は生ぬるい(tiédies)。
そして、砂漠(désert)。砂漠には水がなく、太陽が照りつける過酷な場所。

「ぼく」は、不衛生で、ひどい臭いのする(pusantes)細い道(ruelles)を辿り(je me trainais)、砂漠に行き着く。
そして、太陽(soleil)を火の神(dieu de feu)だと見なし、自分の身を捧げる(je m’offrais)。つまり、目を閉じて(les yeux fermés)、灼熱の太陽の下に身をさらす。

そして、太陽に向かい、「将軍(Général)よ」と呼びかける。

« Général, s’il reste un vieux canon sur tes remparts en ruines, bombarde-nous avec des blocs de terre sèche. Aux glaces des magasins splendides ! dans les salons ! Fais manger sa poussière à la ville. Oxyde les gargouilles. Emplis les boudoirs de poudre de rubis brûlante… »

「将軍よ、もし廃墟になった城壁の上に古い大砲が残っているなら、乾燥した土を固め、ぼくたちを砲撃しろ。輝く店のウインドーを狙え! サロンの中を狙え! 町に埃を食わせろ。ガーゴイルを錆びつかせろ。閨房をルビーの燃える粉で埋め尽くせ・・・。」

「ぼく」は常に相手に対して、高圧的な態度を取る。
『地獄の季節』の冒頭では、美(la Beauté)を膝の上に乗せ、苦い(amère)とみなし、罵倒した(injurier)。
「錯乱 I」に出てくる連れ合いの狂女(la vierge folle)からは、「地獄の夫(l’époux infernal)」と呼ばれるほど、彼女を手荒に扱う。
「錯乱 II」でも、将軍である太陽に向かい、様々な命令をする。

その命令は、全てを焼き尽くす砂漠の太陽の下では、普通に起こること。
町(ville)は埃(poussière)で覆われ、教会の雨樋に付けられたガルグーユ(gargouilles)は酸化して錆びつく(oxyder)。
室内の閨房(boudoirs)でさえ、太陽で赤く焼けた土で埃(poudre)まみれになる。その赤をランボーはルビー(rubs)という言葉で連想させる。

その時、「ぼく」は太陽の側にいるのではなく、町の中に身を置き、日の光を浴びている。
その状況を見れば、「ぼく」は日差しを受ける受動的な立場にいる。
しかし「ぼく」は立場を逆転させ、自分を主体的な立場に落ち、太陽に命令を下す。
この強気な姿勢こそランボー的だといえる。

次にランボーの意識は、宿屋の便器の上にいるハエに向かう。

Oh ! le moucheron enivré à la pissotière de l’auberge, amoureux de la bourrache, et que dissout un rayon ! 

おお! 宿屋の便器に酔いしれる小さなハエよ。ルリジサの花に恋し、一筋の日の光で溶けてしまう!

この一節は、ランボーの散文詩の典型だと言ってもいい。

描かれているイメージや、使われる単語は、詩に相応しくないと見なされるもの。
とりわけ、便器を意味するpissotière。
pisserは小便をするという意味で、pissotièreは、男性が立って用をたす便器。
そこに、小さなハエ(moucheron)がとまっている。

ランボーはそのハエの様子を、酔いしれる(enivré)という単語で示す。
「酔う」はボードレールの詩の中心的なコンセプト「恍惚(extase)」と同様の意味を持ち、ポエジーの美が作り出す最大の効果に他ならない。
古典的な詩では、便器にとまるハエなどというイメージは決して使われないし、そのハエが恍惚として酔いしれることなどありえない。

便器にハエがとまっている光景は、誰にとってもごく日常の光景だっただろう。
しかし、ランボーは、ハエの様子を「酔う」という言葉で表現する。
(ボードレールの散文詩「酔いたまえ(Enivrez-vous)」を思い出してもいいだろう。 https://bohemegalante.com/2019/07/15/baudelaire-enivrez-vous/
すると、言葉を始発点として、言葉たちが合理的な思考を超えて疾走し、幻覚を生み出すことになる。

ハエは、ルリジサの花(bourrache)に恋している(amoureux)。
そして、光が一筋(un rayon)当たると、溶けてしまう(dissout)。

これらの言葉は、一般的な感性には、便器にとまるハエに相応しいとは言えない。

しかし、次々に繰り出される言葉の連なりは、情に絡みつく要素がないだけにカラッとしていて、スタイリッシュ。
音に出して読むと、とても気持ちがいい。

Oh (1) ! / le moucheron (4) / enivré (3) / à la pissotière de l’auberge (9)/ , amoureux de la bourrache (7), / et que dissout un rayon (7) ! /

ヴェルレーヌによれば、フランス語の詩句の中で、偶数音節の詩句は安定しているが、奇数音節は不安定で、空気の中に溶け込んでいく印象を生み出す。
https://bohemegalante.com/2019/06/16/verlaine-art-poetique/
ここでは、4音節のハエ(le moucheron)という存在だけが安定し、後の要素は奇数音節で、空気の中に蒸発していくような感じがする。
ハエの酔いしれる便器も、花への愛も、一筋の光で溶けていくという言葉通り、消え去っていく印象を与える。

この詩句は、まさにランボー的散文詩。散文のポエジーなのだ。
とりたてて言うべき意味はない。現実に便器にハエがとまり、それを描写しているのではない。そのハエに何らかの象徴性を付与して、思想を語るわけでもない。
ただ言葉の幻覚(hallucination des mots)が起こり、ポエジーを感じさせる散文が成立しているだけ。
ランボーの生み出した新しい詩とは、こうしたものだと考えられる。

読者は散文詩の美を感じ、次の段階で、何らかの意味を読み取る自由が与えられている。
詩人が意味を決めるのではなく、意味を探すのは読者の役目だと言い換えてもいいだろう。

この散文詩の後、再び二つの韻文詩が引用される。(続く)

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