日本的な美には、平安時代に成立した壮麗で装飾的な美(やまと絵)と、室町時代に形作られた簡素な美(漢画)という二系統の美があり、それが室町時代の後期から安土桃山時代、江戸時代の初期にかけて、徐々に融合していった。
二系統の美については、フランスの作家で日本に外交官として滞在したポール・クローデルも、彼の優れた日本文化論の中で指摘している。
https://bohemegalante.com/2019/08/30/paul-claudel-et-la-beaute-japonaise/
やまと絵の装飾性と漢画(水墨画)の構図力を融合させた最初の例は、室町時代の画家、狩野元信の「四季花鳥図」などに見られる。

華やかな美は、平等院鳳凰堂や日光東照宮を見れば、すぐに感じ取ることができるだろう。


こうした美が生み出された背景には、日常の過酷な生活が存在していた。人生は苦しみが多く、苦の娑婆だという思いが強かっただろう。一時栄えたとしても、全ては滅びていく。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。(『平家物語』)
こうした生の苦悩は、「食糞餓鬼図」や「地獄草紙」等の中で実感を込めて描き出されている。


過酷の現実の中で人々が願うのは、来世の極楽浄土と同時に、現世の利益だった。
そして、その両者が一つになれば、現世に浄土を願うことになる。
大貴族達は、「善を尽くし美を尽くし」、この世に浄土を実現しようとした。
平等院は、その最も完成した建造物だといえる。

寺社に奉納する写経も、金の箔や砂子で美しく装飾され、現世の財宝がすでに仏の世界の象徴となっている。


こうした華やかな美と対極にあるように見えるのが、鎌倉時代以降、禅とともにもたらされた簡素な美。
枯山水や茶室は、飾りのない精神を感じさせる。


桂離宮は、平安時代の王朝美へのあこがれに基づくとはいえ、簡素な佇まいは省略の美、余白の美を静かに伝えている。

日本の水墨画の手本となったのは、牧谿(もっけい)を初めとした南宋の水墨画家たち。

彼等に続いて、日本人の水墨画家たちが優れた作品の残している。


これら水墨画とやまと絵の大きな違いは、色彩の有無だけではなく、構図にもある。水墨画には堅固な構図があり、余白の美を感じさせる画面構成がなされている。
室町時代から安土桃山時代にかけて、飾りと無という二系列の美が融合していくことになる。
狩野元信(1476?ー1559)は、漢画の堅固な画面構成と、やまと絵の画題である絵巻物や金碧画を融合させた。
先に見た「四季花鳥図」が代表作であるが、その他に「禅宗祖師図」など、二つの様式が融合した、堅固でありながらも優美な表現を実現している。


狩野元信の孫にあたる狩野永徳は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、安土桃山時代を代表する画家である。
この時代は、空前の黄銀ラッシュの時代であり、絵画にも多くの金が使われた。
永徳の「唐獅子図」や「洛中洛外図」はそうした時代を代表する作品の一つである。


その一方で、永徳は水墨画の構図に従った障壁画も描いている。

彼と同じように、一人の画家が、和漢の様式を描き分けていることも、二つの様式の融合の印だと考えられる。
長谷川等伯の水墨画「松林図屏風」は、日本水墨画の最高傑作とされる。

同じ長谷川等伯の金碧障絵画。漢画的な構図に壮麗な色彩が施されている。


海北友松も、水墨画と彩色画の二つの系列を描き分けている。


こうした過程を経て、飾りの美と質素な美が融合し、時代時代によって、どちらかが強くなったり弱くなったりしながら、日本的な美の源流を形作ってきた。