
ポール・クローデルは、1923年、日光で、日本の学生達に向けた講演を行った。その記録が、「日本の魂を一瞥する(Un regard sur l’âme japonaise. Discours aux étudiants de Nikkô)」として、『朝日の中の黒い鳥(L’Oiseau noir dans la soleil levant)』に収められている。
彼の日本に対する観察眼は大変に優れたもので、日本人として教えられることが多い。その中でも、日本的な美として二つの流れを感じ取り、ヨーロッパ人にはわかりにくい美を具体的に解説している部分はとりわけ興味深い。
一つの流れは、浮世絵に代表されるもの。
もう一つは、高価な掛け軸としてクローデルが分析の対象としているもの。



クローデルが日本の事物に興味を持ったのは、姉で、ロダンの弟子(であり愛人)であったカミーユ・クローデルの影響で、浮世絵を中心としたジャポニスムを通してだった。
浮世絵に代表される美は、激しく、豪華で、劇的。色彩に富み、精神的で、絵画的。限りなく多彩で、日々の生活の情景が息づいている。
そうした身近で、日常的な活動の中心に位置するのは、人間。
これが、クローデルの感じる一つの美のあり方。
フランスやヨーロッパで評価されるのも、こうした美だと彼は考える。
ここで彼が言及している日本の美は、優美な平安朝の美、安土桃山時代の「かざり」の美、江戸の元禄文化に象徴される華やかな美の系列だといえる。





これらの建築や絵画を見ると、日本における一つの美の姿を感知することができる。壮麗で多彩であり、装飾性に富んでいる。
19世紀後半のヨーロッパで、新しい芸術観が模索されていたとき、別の美学に基づいて生み出された美として、日本のこうした美意識が受け入れられたことは、容易に理解できる。
ポール・クローデルも、「かつての熱狂を保っている」という表現で、華やかな日本の美に対する愛好を素直に告白している。
しかし、それと同時に、日本での滞在の中でもう一つの美に気づき、その説明により多くの言葉を費やす。
もう一つの美について、クローデルはこのように始める。
Votre goût au contraire va vers les images anciennes, où l’homme a presque disparu ou n’est plus représenté que par quelques effigies monastiques qui participent presque de l’immobilité des arbres et des pierre.
反対に、あなたがた(日本人)の好みは、古びた絵の方に向かいます。そこでは人間がほどんど消え去っているか、あるいは、数人のお坊さんだけです。そのお坊さんたちの姿も、木や石のようにほとんど動きがありません。
一方の美の中の中心に「人間」がいると考えるクローデルは、もう一つの美に人間の不在を感じている。
この不在というのは、全く人がいないということではなく、人間が木や石と同等の位置にいるということだろう。
そのことは、日本人の自然観と一致している。人間は自然と対立する存在ではなく、自然の中の一員であり、特別な存在ではない。
自然界における人間のあり方にクローデルが気づいたことは、彼がいかに日本の文化や自然観を理解したかを示している。
Une carpe, un singe suspendu à une branche, des fleurs, un paysage dont un pinceau magistral a établi en quelques indications aussi décisives que de l’écriture les étages superposés, voilà ce que nous montrent la plupart du temps ces kakémonos sans prix que leurs heureux possesseurs vont chercher au fond des siècles et déroulent devant nous avec des précautions infinies.
一匹の鯉、枝にぶら下がる猿、花々、大胆な筆遣いで描かれた風景。その風景は、大切な所だけ文字で書くのと同じ位明確に描かれ、何段かの層が重ねられています。そうしたものが、多くの高価な掛け軸の上に描かれたものです。そして、掛け軸の所有者たちは古くからあるものを探し、私たちに見せてくれるときには、この上もない慎重さで巻かれたものを広げます。
ここでクローデルが話題にしている掛け軸に描かれている絵は、元をたどると、鎌倉時代から室町時代にかけて禅宗とともに日本にもたらされた宋の水墨画だろう。


こうした南宋画について、鈴木大拙は、『禅と日本文化』の中で、次のように述べている。
日本人の芸術的才能のいちじるしい特色の一つとして、南宋大画家の一人馬遠に源を発した「 一角 」様式を挙げることができる。この「 一角 」様式は、心理的にみれば、日本の画家が「 減筆体 」といって、絹本や紙本にできるだけ少ない描線や筆触で物の形を表すという伝統と結びついている。
牧谿の後を受け、日本人画家たちも誕生した。



クローデルによれば、こうした絵画を見るとき、ヨーロッパ人の最初の反応は失望だという。たしかに、画面の中に物が充満している絵画を見慣れた目には、枯山水のような絵は何も描かれていないように見えるだろう。
しかし、見る目を持つと、微妙な筆の動きから、魂の湿気(humidité de l’âme)を感じ取り、辛抱強くじっと眺めることで、生命そのもの(la vie elle-même)を感じるようになると言う。
そして、次のように締めくくる。
Et de même que vos grands seigneurs d’autrefois préféraient aux vases d’or et de cristal une simple écuelle de terre mais à quoi le potier avait su communiquer le moelleux de la chair et l’éclat de la rosée, ainsi pour exprimer l’éternel ces grands artistes, qui souvent étaient des prêtres, n’ont pas peint seulement des symboles et des dieux, mais précisément ce qu’il y a de plus fragile et de plus éphémère, de plus frais encore du frisson de la source ineffable, un oiseau, un papillon, moins : une fleur qui va s’ouvrir, une feuille qui va se détacher. C’est tout cela à quoi par un seul point de leur pinceau magique ils ont prescrit de subsister. La chose est là devant nous, vivante et immortelle, indestructible désormais dans son existence passagère.
昔の大名たちは、黄金やクリスタルの花瓶よりも粘土の茶碗を好んだ。それはシンプルだけれど、陶工が肉体の精髄と朝露の輝きを込めたものだ。このように、永遠を表現するために、偉大な芸術家達、彼等はしばしば僧侶だったが、彼等は、単にシンボルや神を描くだけではなく、心地よい泉の震えのうちでも最もか弱いもの、最もはかないもの、最も新鮮なものを描いたのだった。1羽の鳥とか、一匹の蝶。もっと小さなもの、例えば、今まさに開花しようとする花、落ちようとする葉。それら全てを、魔法のひと筆で、そこに留まるように命じたのだ。事物は私たちの前にある。生きていて、不死であり、束の間の存在の中で破壊されることもない。
クローデルがここで「永遠」や「不死」に言及していることに注目したい。
一般的に言えば、その属性を持つのは神である。
しかし、日本の偉大な芸術家達は、はかないもの、束の間の存在、弱くて小さなものを描くことで、永遠に達する。
クローデルのこの直感は、禅の精神に貫かれた室町時代に誕生した日本的美の本質を言い当てている。というのも、日本における永遠は、同じ物が永続することではなく、事物が次々に続いていくことだからである。
世阿弥の『風姿花伝』を論じる際に、馬場あき子は次のように記している。
花は四季それぞれに咲く季を得て「珍しく」そして「面白い」ものだが、もう一歩踏み込んで考察すれば、〈花〉はじつに「散る故によりて、咲く頃あれば、珍しきなり」なのである。「まことの花」は永遠のものであるはずだが、その〈永遠〉とは、咲いたままでもはや咲く期待感もなく、散るという惜しさもない、そういう類のものではないのである。咲くゆえに花なのであり、散るゆえに花なのであって、人を目放(めはな)しがたく思わせる変化そのものこそ、不変の花の真理であることを、世阿弥は停滞することのない芸道上の問題として説こうとしているのだ。
『古典を読む 風姿花伝』
変化することこそが永遠という思想は、無の美学を基礎付けていると考えてもいいだろう。
プラトン的なイデア界の永遠は、不動であり、地上の時間とは相容れない。
それに対して、日本的永遠は、今年咲いた桜がまた来年も咲くと感じる、移ろいの永続性である。
能の愛好者でもあったクローデルは、こうした日本的美の真理を直感し、日光の学生たちに伝えたのだった。
クローデルは、「日本文学散歩」の冒頭で、ヴェルレーヌの「カエルのように重く、鳥のように軽い(Lourd comme un crapaud, léger comme un oiseau)」を、日本的な感性を示す代表例として引用している。
https://bohemegalante.com/2019/08/28/verlaine-ourd-comme-un-crapaud-leger-comme-un-oiseau/
その詩の中で、ヴェルレーヌは、蛙のように重いと鳥のように軽いという二つの側面を指摘した上で、軽みを好むと結論づける。
クローデルは、ヴェルレーヌの言う「軽さ」に禅宗に基づく無の美学を感じ、浮世絵系列の壮麗な美に「重み」を感じたのだろうか。
とすれば、日本を訪れたことのないヴェルレーヌは、日本的美の2つの側面を直感的に感知していたことになる。
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