
イヴ・ボンヌフォワ(1923-2016)は、現代フランス最高の詩人。
フィリップ ・ジャコテ(1925- )とともに、俳句を高く評価し、俳句の精神をフランス詩の中に取り入れた詩人でもある。
幸い、ボンヌフォワが松山市で俳句について行った講演記録の日本語訳を、ネット上で読むことが出来る。
http://haikusphere.sakura.ne.jp/tra/2000/bonnefoy%20lecture-j.html
詩集『曲がる板(Les Planches courbes)』の冒頭に置かれた「雨蛙、夕方(Les rainettes, le soir)」は、芭蕉の古池に飛び込む蛙たちの声をフランスの詩人が耳で捉えた証なのかもしれない。

第一詩節は雨蛙たちの声から始まる。
I
Rauques étaient les voix
Des rainettes le soir,
Là où l’eau du bassin, coulant sans bruit,
Brillait dans l’herbe.
しゃがれていた、雨蛙たちの
声が、夕方に。
池の水が、音もなく流れ、
草の間で輝いていた。

何も説明することがないシンプルな詩句。
もし、ボンヌフォワが、「古池や/蛙飛び込む/水の音」を下敷きにして、蛙たちの鳴き声を想像し、蛙たちが家に飛び込む映像として、フランス語の詩句を用いて描いているとしたら、何と魅力的なことだろう。
Et rouge était le ciel
Dans les verres vides,
Tout un fleuve la lune
Sur la table terrestre.
赤かった、空、
空っぽのグラスの中で、
大きな川の流れ全体、月、
地上のテーブルの上で。
空の赤は、夕日が空を染めている様子だろう。
その空の色が、空っぽになったグラスに写っている。
次に出てくる、大河全体(tout un fleuve)は、読者が自由に想像するしかない。
とにかく、巨大な水の流れが、空と、次に言及される地上のテーブル(la table terrestre)の間に横たわる。
その光景に月が付け加えられ、空のグラスが載っているテーブルの上にぽっかりと浮かぶ。
こうした断続的なイメージの連鎖は、ボンヌフォワが俳句の精神を習得した成果かもしれない。
Prenaient ou non nos mains,
La même abondance.
Ouverts ou clos nos yeux,
La même lumière.
捉えたのか、捉えなかったのか、私たちの手が、
同じ豊かさを。
開いていようと、閉じていようと、私たちの目には
同じ光。
目が光を捉えるように、手は豊穣を掴もうとする。
たとえ、目が光を見ず、手が豊穣を捉えなくても、光は存在し、豊穣の存在する。
そして、その光、その豊穣が、人間を否応なくそこに向かわせる。
詩句の中で反復される「同じ(même)」という語が、現象世界を超えた「普遍」の存在を暗示している。
第3詩節は、古池のイメージを離れ、ヨーロッパの詩らしく、抽象的な思考が作動する。
しかし、詩句はシンプルであり、限られた字数の中で、読者の想像力が最大限に動く仕掛けが施されている。
これも、俳句的といっていいのではないだろうか。
