「風立ちぬ」は、「紅の豚」の延長線上にあるアニメだといえる。

主人公の堀越二郎は、飛行機の設計技師。彼の友人である本庄は、兵器としての戦闘機を制作し、彼の爆撃機は殺戮兵器として空を飛ぶ。
それに対して、二郎は、「ぼくは美しい飛行機を作りたい。」と言い、実用ではなく、美を追い求める。

そうした対比は、「紅の豚」においては、イタリア軍のエースパイロットであったマルコと、軍を離れ自由に空を飛ぶことの望むポルコの対比として表されていた。
https://bohemegalante.com/2020/03/12/porco-rosso/

そうした類似に基づきながら、「風立ちぬ」では、美にポイントが置かれ、さらに、二郎と菜穂子の恋愛物語が、もう一つの側面を形成している。
その恋愛物語は、堀辰雄の『風立ちぬ』に多くを負いながら、生と死の複雑な関係を通して、生きることの意味を問いかけている。
破壊そして死
宮崎駿監督は、戦闘機が大好きで、ジブリアニメの中には、数多くの飛行機が細部にわたり、リアルに描かれてきた。
そうしたことに対して、戦いの場面が多くて残酷だとか、戦争を賛美するといった批判も寄せられている。
しかし、宮崎監督は、戦争は大嫌いだと言う。戦闘機好きで戦争嫌い。
この矛盾が、「紅の豚」のマルコとポルコの対比に反映し、「風立ちぬ」では爆撃機と美しい飛行機という形で分化している。

爆撃機が引き起こす都市の破壊は、「風立ちぬ」の中で直接描かれない。
しかし、都市の破壊は描かれている。それは関東大震災による東京が壊滅的な被害の場面。
本庄が製造にかかわった爆撃機は、実際に爆撃に向かう。その場面は、1938年から始まる中国の重慶爆撃に対応しているが、爆撃の場面は描かれていない。
関東大震災は自然災害であり、人間の手による破壊とは全く異なる。しかし、壊滅的な都市の姿を描くことで、爆撃による破壊を象徴していると考えることもできる。
「風立ちぬ」という映画の通奏低音として、死が常に存在していることの証だといえる。
その死は、二郎と菜穂子の恋愛の通奏低音でもある。
この愛と死の物語は、堀辰雄の『風立ちぬ』を中心とした小説に多くを負っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/風立ちぬ_(小説)
アニメの題名は、堀辰雄の小説の題名そのまま。
キーワードである、「風立ちぬ いざ生きめやも。」も、堀の小説から借りたもの。
二人の愛が高原のサナトリウムで展開し、結核を患う婚約者の死が、美しい自然の中で、二人の愛を美しい物語へと昇華させるところも、ほぼ小説をなぞっている。

宮崎監督が「風立ちぬ」の中で、恋愛を強く意識し、それを明確に描こうとしたことは、ジブリ・アニメの中では本当に珍しく、主人公の二人が愛を交わす場面が描かれていることからも理解できる。
「紅の豚」の「演出覚え書き」で、監督は、「愛はたっぷりあるが、肉欲は余計だ。」と書いていた。
ネット上に溢れているジブリ映画に関するコメントには、コメントする側の思いを投影したかのような、性的な言及がかなり多くある。それに対する反証のように、二郎と菜穂子の口づけや初夜のやり取りは、性的な欲求ではなく、愛の表現であることがはっきりとわかるように描かれる。
そうした愛の美しさを際立たせるのは、死の存在である。
死は、生の現実に人間を直面させる。
私たちは普段死を意識せず、いつか死ぬと思っていても、しかし日々の生活の中では死はずっと先のことだと思い込んでいる。
菜穂子の病は、時間が限られたものであり、一瞬一瞬の生の価値を常に思い出させる。

堀辰雄の『風立ちぬ』の最も重要な一節は、死が時間を止め、一瞬一瞬を永遠に変えることを教えてくれる。
私は、私達が共にした最初の日々、私が節子の枕もとに殆んど附ききりで過したそれらの日々のことを思い浮べようとすると、それらの日々が互に似ているために、その魅力はなくはない単一さのために、殆んどどれが後だか先きだか見分けがつかなくなるような気がする。
死を目の前にした時、どの一日も単調に過ぎていく。そのために、日々の区別がつかなくなる。では、それは単調で、退屈な日々なのだろうか。
堀辰雄は、次のように続ける。
と言うよりも、私達はそれらの似たような日々を繰り返しているうちに、いつか全く時間というものからも抜け出してしまっていたような気さえする位だ。そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私達の日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異なった魅力を持ち出すのだ。
単調でどれも似通っている、つまり何も起こらない日々を過ごしているうちに、「時間というものからも抜け出して」しまうように感じる。つまり、時間のない世界、瞬間=永遠の世界が生まれる。
そうした中では、これまでつまらないと思われていたものが、魅力を持ち始める。失ってしまったもの、失うと思うものには愛しさが湧く。
私の身辺にあるこの微温(なまあたたか)い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、−−そう云ったものをもし取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一の日々だったけれども、−−我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけで私たちが満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信していられた。
死の存在こそが、平凡な日々、ありふれた事物、つまらない身振りや会話の一言一言が、実はこの上もなく貴重で大切なものだと教えてくれる。
そして、こうした瞬間=永遠の中で、私たちは美を感じる。
愛と死の物語が美しいのは、そのためである。
美を求めて
Le vent se lève. Il faut tenter de vivre.
堀辰雄は、ポール・ヴァレリーのこの詩句を、「風立ちぬ。いざ生きめやも。」と、美しい日本語に移し換えた。

この日本語の詩句に関して、「風立ちぬ」の「ぬ」は過去・完了の助動詞であり、風が立ったと理解し、フランス語の現在形とは意味が違うという議論がある。
さらに、「生きめやも」の「め」は未然形、「やも」は反語であり、「生きようか、いや生きはしない」と解釈することがある。
これは、フランス語の原文とはまったく関係がなく、日本語だけを近視眼的に読んだ解釈としかいいようがない。
堀辰雄の意図は、「いざ」という言葉を入れることで、生きる意欲を示すことにあっただろう。
そこで、宮崎アニメでは、あえて堀の訳を使わず、「風が立つ。生きようと試みなければならない」とフランス語をそのまま日本語に移すような訳が用いられている。

さらに、映画の中では、「生きる」という言葉が、「美しい」という言葉と同じくらい数多く使われている。
その中でも最も印象的なのは、映画のラストシーンで、菜穂子が夢の中に現れ、「あなた…生きて…生きて」という場面。
当初の絵コンテだと、菜穂子の言葉は「来て」だった。これだと菜穂子は二郎を自分の世界、つまり現実ではない世界に誘っているように聞こえる。
しかし、二郎の声を担当していた庵野秀明から、「生きて」にしようという提案があり、宮崎監督は受け入れたという。その理由は、「来て」ではうまくいかないから。
「風立ちぬ」のテーマの大きな柱の一つが「生きる」ことだということを、このエピソードはよく示している。
そして、生きることは、風とつながり、美を生み出す。

少年時代、二郎は夢の中で、憧れの飛行機設計者であるカプローニと出会う。その時、二人はこんな言葉を交わす。
カプローニ「まだ風は吹いているか?日本の少年よ。」
二郎「はい、大風が吹いています!」
カプローニ「では生きねばならん。」
「風立ちぬ」の中ではたくさんの風が吹いているが、二郎が作る飛行機が、そうした風の最終的な象徴だといえる。
その飛行機は、爆撃のためではなく、戦うためでもなく、美を追求したもの。

その二郎は大学時代、魚を食べながら、サバの骨を取り上げ、本庄に向かってこう言う。
美しいだろう?すばらしい曲線だと思わないか?
彼にとって魚は食べるものではなく、美を鑑賞するもの。そして、そのすばらしく美しい曲線が、後に制作する飛行機へと移植される。
そして、彼はこう言い続ける。
僕はただ美しい飛行機を作りたいんだ。
風と美の関係は、菜穂子についても同じこと。
高原で二郎が菜穂子と出会うとき、菜穂子は丘の上で風に吹かれながら、絵を描いている。

この女性像は、モネの絵画を思い出させないだろうか。

風の中に立つ女性を美として捉える感性は、モネと宮崎監督の間で共通している。
飛行機を描いても、風の中に立つ女性を描いても、その目指すところは美なのだ。
アニメの中の堀越二郎も、宮崎監督も、美を生み出すという夢に向かい、まっすぐに進んで行く。
二郎はゼロ戦と呼ばれることになる飛行機を、監督はジブリ・アニメに取り組み、毎日が同じことの繰り返しの日々を送りながら、美への到達を試みる。
堀辰雄の小説の主人公が、死を目前にした節子との時間を小説に閉じ込めたように。
実は、ポール・ヴァレリーの「風が立つ。生きなければならない。」という詩句も、「美=ポエジーの探求」への決意だと解釈することもできる。

その詩句を含む「海辺の墓地」は非常に難解な詩だが、大まかに概要を説明するとすれば、次の様に要約できる。
詩人は、墓地の一角に腰を下ろし、地中海の美しい海を眺めている。そこで、墓地の眠る死者たちと広大な海への思いから永遠を瞑想し、現実を離れる。しかし、最終的には儚く移ろう自己の存在を受けいれ、時間の流れる現世に意識を戻す。
「風が立つ」ことがきっかけとなり、永遠から現実への回帰が促され、詩人は時間の流れる「生」へと向かう決意をする。それが「生きなければならない。」という詩句の意味。
そして、その瞑想を綴った詩がポエジーを発散し、美の探求そのものとなっている。
宮崎監督の視点から見たカプローニも、ゼロ戦の設計者堀越二郎も、堀辰雄も、アニメ「風立ちぬ」の堀越二郎も、そして宮崎駿監督自身も、「力を尽くして今を全力で生きることが美の創造と繋がる」生き方をしているといえる。
「風立ちぬ」は、宮崎駿監督による、宮崎監督のための、宮崎監督を描いたアニメだとさえ言ってみたい。
そのことは、実在する飛行機メーカー・カプローニ社の制作した飛行機の名前がギブリ(Ghibli)であり、スタジオ・ジブリの名の由来となっていることからも推測できる。

「風立ちぬ」の中で描き出される風景が、ジブリ・アニメの中でもとりわけ美しく描かれていることにも注目したい。
監督は、企画書の中で、「リアルに、幻想的に、時にマンガ的に、全体には美しい映画を作ろう」と描いている。
実際、何度か描かれる農村の風景、東京の古い街並み、名古屋駅、飛行機製作所の社屋や工場、黒川夫妻の家や庭、軽井沢の景色、サナトリウムを囲む風景等々、どの場面も細密に美しく描き出されている。
作画監督の高坂希太郎は、カットの表現力こそが宮崎映画の真価であり、「風立ちぬ」は「映画というよりは画集なんだ」とさえ述べている。(『ジブリの教科書18 風立ちぬ』)


そして、数多く描かれる雲。



「風立ちぬ」のテーマが、生きること=美を生み出すことだと、こうした映像からも実感できる。
雲は、映画の最後で流れる、松任谷由実の「ひこう雲」によってもアクセントが置かれている。
松任谷由実がこの曲を作曲したのは高校生の時だったというが、彼女は、「40年前の高校生の時の自分に、いずれこの作品の曲になるんだと言ってあげたい。」と、ある対談の中で口にしている。

美を巡り、小説と歌と映像がハーモニーを奏で、観客を美の世界へと導く。
ジブリ・アニメの「風立ちぬ」から発するメッセージは、そこに集約されるだろう。
この映画ほど”死”を連想させる映画はありませんね。
すごい映画でした。
”ひこうき雲”の歌詞でもそれを連想させます。
映画館で鑑賞してラストでこの曲のイントロが流れるとき、アナログレコードの音が劇場を覆い、思わず涙があふれてきました。(不覚にも)
また泣いてしまいました。
(=^・^=)
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堀辰雄の『風立ちぬ』も、死が通奏低音として、最初から最後まで鳴り響いています。
その上で、日本的な四季の自然をふんだんに取り込み、美しい日本語で綴られた作品です。
アニメの「風立ちぬ」も、その雰囲気を十分に出しているように思います。
試写会で宮崎監督自身が泣いてしまったそうですね。
ユーミンたちとの対談で、そんな告白をしています。
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ジブリ作品は大好きで、中でも『風立ちぬ』は美しい世界観に引き込まれました。
愛と死はかけ離れているようで、どちらも日常が大切なものだと教えてくれる点では似ているようにも感じます。
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