ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」 Paul Valéry « Le Cimetière marin » 1/4

ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地(Le Cimetière marin)」は、詩人が、生まれ故郷である南フランスのセットにある墓地に腰を下ろし、地中海の美しい海を眺め、瞑想にふけるところから始まる。そして、様々な思索を繰り広げた後、堀辰雄の訳で有名な「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句をきっかけにし、現実へと意識を移すところで、終わりを迎える。

10音節の詩句が6行で一つの詩節を構成し、それが24続く長い詩を、4回に分けて読んでいこう。

「海辺の墓地」には、古代ギリシアの詩人ピンダロスから取られたエピグラフ(献辞)が、ギリシア語で記されている。

LE CIMETIÈRE MARIN

Μή, φίλα ψυχά, βίον ἀθάνατον σπεῦδε, τὰν δ’ ἔμπρακτον ἄντλεῖ μαχανάν.
                      Pindare, Pythiques, III.

海辺の墓地

わが魂(プシケ)よ,不死を求めず,汝の限界を汲み尽くせ
ピンダロス『ピュティァ祝勝歌 III』

詩人が魂に呼びかけることは、まず、不死を求めないこと。
肉体は時間の中で必ず滅びる。それに対して、魂は物質ではなく、永遠に属すると考えるのが普通である。
しかし、ピンダロスは、魂に向かい、不滅を求めるのではなく、己の限界を探れと命じる。その限界は、時間が流れる現実に身を置くからこそ、存在する。

従って、ピンダロスの詩句からヴァレリーが暗示するのは、「生」を限界まで思索し生きるということ。

そのように詩全体の方向性を定めた後、詩人は、正午の太陽に照らされた地中海の美しい海の眺めを、自己の思索と重ねていく。

自分が座る墓地から眼下に広がる海は、神殿の屋根。
海にうかぶ小舟の動きは、鳩。
波の動きが、永遠に続くかのように繰り返される。

Ce toit tranquille, où marchent des colombes,
Entre les pins palpite, entre les tombes ;
Midi le juste y compose de feux
La mer, la mer, toujours recommencée!
Ô récompense après une pensée
Qu’un long regard sur le calme des dieux !

鳩の動き回る、この静かな屋根が、
松の木の間で、どきどきと鼓動する、墓の間で。
正確に正午が、太陽の炎で構成するのは、
海、常に新しく始まる海!
おお、思考の後で報いとなるのは、
神々の静けさを、長く見ることだ!

詩人が腰を下ろしている墓地には、松が植わっている。そして、墓石と松の間から、海が見える。

第2詩行で、松の間(Entre les pins)と墓の間(entre les tombes)が、「・・・の間に(entre les)」と3つの音で繰り返される。そのことで、音としても松と墓に囲まれている状況が感じられる。
そしてその間に、どきどきと鼓動する(palpiter)という動詞が置かれ、詩句の中には登場しない「私」の存在が強く感じられる。
つまり、屋根(=海)が鼓動するという詩句から、私の鼓動が聞こえてくるのである。

Dieudonné Jacobs, Rivage méditerranéen

正午、太陽が海に照りつけ、さざ波に反射して、キラキラと輝いている。
その波は、終わることなく反復し、詩人をまどろませ、夢想に誘う。

« La mer (2), la mer (2), toujours (2) recommencée (4) »は、2音節が3度続き、最後に4音節になる。この反復するリズムは、まさに海が寄せては引いていく様子に他ならない。

ところで、ヴァレリーの場合、夢想はおぼろげなものではない。
彼の思考は「正確という病」(「テスト氏」)に由来し、数学的な整合性を持ち、論理的で哲学的。
正午(Midi)の「正確さ(le jsute)」が、そのことを示している。

海を神殿の屋根と見なせば、そこで繰り広げられる思考=哲学的夢想は、静かに神々を見ることと同じになる。

とすれば、最初に鳩と見立てられたさざ波は、神々であるとも考えられる。
その神殿は、死を思わせる不動の中にあるのではなく、細やかに、そして静かに動き、どきどきと鼓動する(palpiter)。

私はその鼓動を感じ、神々が行動する様を瞑想する。それこそ、思考(pensée)の最高のご褒美(récompense)になる。
ここでは、pensという音が反復され、思考と報いが音的にも繋がっていることが、詩句の中で示されている。

思考(夢想)の開始として、これほど美しい光景はない!

Quel pur travail de fins éclairs consume
Maint diamant d’imperceptible écume,
Et quelle paix semble se concevoir !
Quand sur l’abîme un soleil se repose,
Ouvrages purs d’une éternelle cause,
Le Temps scintille et le Songe est savoir.

何という純粋な働きが、繊細な光線で、焼き尽くすことか、
微少な泡でできた、数多くのダイヤモンドを。
何という静けさが、自らを受胎するように思われることか。
一つの太陽が深淵の上で身を休める時、
永遠なる原因の、純粋な作品である
「時間」はきらきらと輝き、「夢」は知として存在する。

正午の太陽に照らされた海の上では、繊細な光線(de fins éclairs)と知覚できないほど小さな波の泡(d’imperceptible écume)が混ざり合う。
そこでは、太陽と海が調和し、天と地の対応(コレスポンダンス)の中で、ダイアモンドができあがる。

そうした働き(travail)の純粋さ(pur)は、「時間」と「夢」という作品(ouvrages)の純粋さと対応する。

とすれば、永遠なる原因(une éternelle cause)とは、太陽(un soleil)と深淵(l’abîme)の照応だと考えてもいいだろう。
それは、ボードレールの詩「コレスポンダンス(Correspondances)」で歌われた、全てが一つの統一体(unité)である状態。
https://bohemegalante.com/2019/02/25/baudelaire-correspondances/
ボードレールは、「自然は一つの神殿(La nature est un temple )」であるとし、そこに「命ある柱(de vivants piliers)」を見出した。

ヴァレリーがそこで見出すのは、「時間」と「夢」。
時間は現実に属し、夢はイデア界(純粋な思考)に属すと考えてもいいだろう。
統一体(unité)は、光線と泡、太陽と深淵が交わる海全体。

Stable trésor, temple simple à Minerve,
Masse de calme et visible réserve,
Eau sourcilleuse, Œil qui gardes en toi
Tant de sommeil sous un voile de flamme,
Ô mon silence!… Édifice dans l’âme,
Mais comble d’or aux mille tuiles, Toit !

どっしりとした宝物、女神ミネルヴァに捧げられた簡素な神殿。
静けさの塊、目に見える貯蔵庫。
そそり立つ水、そして「目」。その目が保っているのは、
炎のヴェールに覆われた、数多くの眠り。
おお、我が沈黙よ!。。。魂の中の建造物よ、
千の瓦の葺かれた黄金の塊よ、「屋根」よ!

第3詩節で、ヴァレリーは、全ての統一体(unité)である海を様々な側面から捉え、その見え方に従って呼びかける。

最初の3つの詩行では、一行に2つの名詞が置かれ、1)宝、神殿、2)塊、貯蔵庫、3)水、目と、6つのものに見立てる。

最初に注目したいのは、神殿が女神ミネルヴァに捧げられていること。
ミネルヴァはしばしば智恵の女神と見なされることから、この神殿が前の詩節で歌われた「夢=知」と深く関係していることが暗示される。

Goerges Braque, Le Port de l’Estaque

最後の「目(Œil)」に関しては、最初の文字が大文字にされ、一般名詞ではなく、固有名詞としての扱いがなされる。
空と交わる海が一つの「目」とされ、太陽の下で世界がまどろんでいる様が想起される。

第5、第6詩行では、沈黙、建造物、黄金の塊と次々に呼びかけ、最後に、第一詩節の最初と同じように、再び「屋根」に戻る。

主動詞がなく、名詞だけで構成されるこれらの詩句は、詩人の思考の中で次々に湧き上がってくるイメージの連なり。それらは、物理的な事物が詩人の精神の中に映し出された姿でもある。

神殿はミネルヴァ(MinERVE)に捧げられ、所蔵庫(résERVE)と韻を踏むことで、目に見える建造物であることの確認がなされる。
そして、「目」によって、視覚で捉えられる光景であることが強調される。
しかし、そこには眠りが潜み、沈黙の中で、魂の中の建造物へと移行し、黄金になる。
その金は、色彩を意味するのではなく、錬金術によって生み出される偉大な作品と考えてもいいだろう。

それら全てを含めて、詩人は目の前に広がり、かつ精神を満たす海を、一言で「屋根(Toit)」と名指す。

Temple du Temps, qu’un seul soupir résume,
À ce point pur je monte et m’accoutume,
Tout entouré de mon regard marin ;
Et comme aux dieux mon offrande suprême,
La scintillation sereine sème
Sur l’altitude un dédain souverain.

一つのため息が要約する、「時間」の神殿、
それほど純粋な点に、私は上りつめ、慣れていく、
海に投げかける私の視線にすっぽりと取り囲まれた、その点に。
そして、神々に向けられる、私の崇高な捧げ物のように、
静かな煌めきが、撒き散らすのだ、
あの高みの上に、至高の軽蔑を。

第4詩節で、詩人は、これまでに描いてきた、外的でもあり心象でもある風景を要約し、24詩節の詩の最初に区切りをつける。

神殿(Temp/le)と時間(temp/s)は、神殿のleの音だけが、二つの単語を区別するだけで、ほとんど同じ音だとさえ言える。
そして、その時間は、たった一つのため息の中に含まれる一瞬であり、すでに第1詩節で、正午ちょうど(Midi le juste)だと指定されていた。

永遠がイデア界に属するのに対し、時間は現実に属する。
現実の中で、全ては時間とともに流れ去っていく。
しかし、今、その時間が純化され、一瞬に凝縮される。
それは、あたかも私が見つめる海が、広大な空間でありながら、純粋な一点に凝縮しているように感じられることと並行関係にある。

この地上で、現実の中で、この純粋な点(ce point pur)に到達できるのであれば、高み(l’altitude)に「時間の神殿」を求める必要はない。
私の目に映る海の煌めきは、目に見える存在でありながら、目に見えない次元も内包している。
そこで、詩人にとって、その煌めきは、「高み」を蔑む印のように感じられる。

このようにして、詩人は、イデア界に向かうのではなく、海辺の墓地に留まり、現実の時間の中で静かに思索を続ける。

ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」 Paul Valéry « Le Cimetière marin » 1/4」への4件のフィードバック

  1. gumehituzi 2020年3月25日 / 7:56 午前

    ネルヴァルの幻想世界が描かれた作品とは対照的だと感じました。美とされるイデア界に向かうのではなく、現実を意識させるのがイデア界があるからこそ現実が存在し、現実が存在するからこそイデア界が存在することの証明であるように感じました。

    いいね: 1人

    • hiibou 2020年3月25日 / 7:39 午後

      コメント、ありがとうございます。
      確かにネルヴァル はロマン主義の時代の作家で、イデアに代表される不在のものを求めます。
      そして、到達できない理想へのメランコリックな思いが、彼の詩・作品の美を生み出します。
      ヴァレリーは、そうした二元論ではなく、現実(身体)とイデア(精神)を統一体として捉えようとします。
      その二つの思考の展開店にいるのが、ボードレールでしょう。

      いいね

  2. dalichoko 2020年3月23日 / 3:43 午後

    素晴らしい記事でした。とても勉強になりました。
    時間の概念が常につきまといますね。
    (=^・^=)

    いいね: 1人

    • hiibou 2020年3月23日 / 5:20 午後

      コメント、ありがとうございます。
      この詩は、とても難しいと私は感じます。
      24詩節を全てを読み切るのはなかなか大変ですが、少しずつ理解を深めていければと思います。

      いいね

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