
第5詩節から第9詩節において、「私(Je)」が「魂(âme)」に語り掛けるという行為を通して、変化=動きが生まれる瞬間が捉えられている。
その変化とは、「私」の中で魂と肉体が分裂すること。
それはまだ完全には起こっていず、今起こりつつあるか、未来(futur)に起こりうる出来事として提示される。
その意味で、5つの詩節で描かれる事象は、思考の冒険に他ならない。
第5詩節では、変化=動きに焦点が当たる。
Comme le fruit se fond en jouissance,
Comme en délice il change son absence
Dans une bouche où sa forme se meurt,
Je hume ici ma future fumée,
Et le ciel chante à l’âme consumée
Le changement des rives en rumeurs.
果実が喜びに溶けていくように、
果実がその不在を甘美に変えるように、
口の中で、形象が死なんとするまさにその時、
私はここで我が未来の煙を吸い込む。
空は、憔悴した魂に向かい、
岸辺が呟きへと変わる様を歌う。
フランス語の書き言葉は日本語に比べて、とりわけ抽象性が高い。
そのために、日本語を母語とする読者は、抽象的な言葉を具体的な言葉にほぐして理解する努力が要求される。
この詩節もその例の一つ。
果実(fruift)、喜び(jouissance)、不在(absence)、甘美さ(délice)、形象(forme)、未来の煙(future fumée)の連なりが何を言いたいのか、そのままではまったく分からない。
最初に出てくる果実(fruit)に定冠詞(le)が先立っているが、最初にいきなりその果物と言われても、読者には何のことか分からない。
そこで、この定冠詞が示すのは、具体的な一つの果実ではなく、果実という概念を提示していると考えられる。
ヴァレリーはここで具体的な出来事を描こうとしているのではなく、「果実というもの」を通して、思索を繰り広げようとしているのだ。
しかし、抽象的な言語を通して、そうした思考を辿っていくのは難しい。
そこで、具体的な状況に即して考えてみよう。

「私」は今、一つの果物、例えば、オレンジを口の中に入れ、今まさに食べようとしている。
美味しいオレンジを食べれば、幸せな気持ち(jouissance)になる。(果実が喜びになる。)
食べると、オレンジはなくなり(absence)、美味しさ(délice)に変わる。
口の中で、形(forme)はなくなる(se mourir)が、香り(=煙 fumée)を吸い込むことになる。
それが今まさに今起ころうとしているのだということは、煙についた「未来の(futur)」という形容詞で示される。
こうした具体的な状況が発端にあり、そこから思考の冒険が始まる。
すると、物質的な世界も、「私」の内的な世界に反映し、非物質化していく。
海辺の墓地の上には大きな空が広がり、岸辺には風が吹いている。
「私」は憔悴した魂(âme consumée)を抱きかかえて、その場に佇んでいる。
そうした具体的な状況の中で、思考=夢想に身を委ねていると、目に見える岸辺(rives)が、目に見えないざわめき(rumeurs)へと変わっていく。
第五詩節は、こうしたヴァレリー的思考の発端を描き出す。
第6詩節では、「私」の「変化」に焦点が置かれる。
Beau ciel, vrai ciel, regarde-moi qui change !
Après tant d’orgueil, après tant d’étrange
Oisiveté, mais pleine de pouvoir,
Je m’abandonne à ce brillant espace,
Sur les maisons des morts mon ombre passe
Qui m’apprivoise à son frêle mouvoir.
美しい空よ、真実の空よ、私を見てくれ、変わりつつある私を!
あれほどの自負の後、あれほどの奇妙な
無為、しかも権力に満ちた無為の後、
私はこの輝かしい空間に身を投げ出す。
死者たちの住まいの上を、私の影が通りすぎる、
その弱々しい動きに私を慣らしながら。
岸が呟きに変わると歌う空に向かい、私は命令する。変わりつつある自分を見てくれ、と。
では、何から何へと変わるのか。
「私」はそれまで物質世界に身を置き、主体として客体である世界、他者と対してきた。
主体であることの自負は大きく、実際には何もできないにもかかわらず、世界に対して、他者に対して、力を及ぼしているように考えてきた。
その「私」が、墓地と空と海の空間に身を委ね、その一部となる。
すると、実体ではなく、影であるかのように感じられる。
弱々しい動き(frêle mouvoir)は、権力(pouvoir)と韻を踏み、二つの対比が音としても強調される。
「私」は、不動の存在の実体ではなく、常に動きを続ける影へと変化する。
その一方で、魂は真夏の太陽に晒される。(第7詩節)
L’âme exposée aux torches du solstice,
Je te soutiens, admirable justice
De la lumière aux armes sans pitié !
Je te rends pure à ta place première:
Regarde-toi!… Mais rendre la lumière
suppose d’ombre une morne moitié.
魂を夏至の松明に晒し、
私は君を支える、賞賛すべき正確さよ、
情け容赦のなく紋章に投げかけられる光線の。
私は君を純粋なままで返す、最初に君がいた場所に。
君自身を見ろ!。。。光を返すことが
前提とするのは、影の暗い半身。
solsticeは夏であれば夏至、冬であれば冬至。
「海辺の墓地」は地中海の海の日差しを燦々と浴びているイメージの中で展開するので、ここでは夏至と考えていい。

時は、第1詩節で記されたように、正午ジャスト(Mid le juste)。
太陽は真上にあり、墓地にある墓石や木々の影は短い。
そうした中で、真夏の正午の太陽に照らされている「私」は、魂(âme)そのものが松明(torches)に晒されている(exposée)ように感じる。

私の影が墓地の中を動くと、墓石を飾る紋章(armes)が目に入る。
そこには、夏の強い日差しが情け容赦なく(sans pitié)照りつけている。しかも非常に正確に。
その正確さ(justice)は、正午ちょうどの正確さ(le juste)とつながる。
( justiceは正確さというよりも、正当性、正義の意味で理解されることが普通であり、正確さという意味ならjustesseの方が相応しい。しかし、ここではあえてjusteと関連付けて理解したい。)
そして、ヴェレリーが追い求める精神の作業の「厳密さ」と対応する。
従って、「私」がその賞賛すべき正確さ(admirable justice)を支持するのは当然だろう。
さらに、光に照らされた精神の作業(動き)は、第2詩節で繊細な光の「純粋な働き(travail pur)」とされていた。
第4詩節では、たった一つのため息の中に凝縮される時間を、詩人は「純粋な点(point pur)」と見なした。
この第7詩節になると、正確さに対して「私」が、「汝を純粋に(pure)する」と宣言する。最初の場所であれば、最も根源的な純粋さに戻すことになるだろう。
しかし、この上もなくきっちりと紋章に当たっている光も、よく見れば、闇を含んでいる。
光は光だけであるのではなく、闇がその半身(moitié)なのだ。つまり、ベター・ハーフ。
そこで、「私」は正確さ(justice)に向かい、自らを見るように命令する。
すると、光と影は二つの一つであることがわかるようになる。
その発見あるいは再認識の後で、私の注目は再び私自身に向かう。(第8詩節)
Ô pour moi seul, à moi seul, en moi-même,
Auprès d’un cœur, aux sources du poème,
Entre le vide et l’événement pur,
J’attends l’écho de ma grandeur interne,
Amère, sombre et sonore citerne,
Sonnant dans l’âme un creux toujours futur !
おお、私のためだけに、私にだけ、私自身の内部で、
一つの心のそば、詩の泉で、
空虚と純粋な出来事の間で、
私はエコーを待つ、自己の内部の巨大さの、
苦く、暗く、響きのいい貯水池、
魂の中で、虚ろに響く、常に未来の虚ろな響きだ!

「私」はすでに個体ではなく、海、外部の世界と融合し、一つのものとして捉えられている。あるいは、対応(コレスポンダンス)している。
そこで、「私」が自己の内部を見つめれば、そこにある巨大さ(grandeur)に気づく。別の言葉で言えば、貯水池(citerne)。
そして、「私」と「私(の海)」の間には、エコー(écho)が響き合う。
そのエコーは、響きのいい(sonore)という聴覚だけではなく、苦い(amère)という味覚、暗い(sombre)という視覚も伴っている。
詩句の中で言及されない触覚や臭覚も含め、五つの感覚が対応し、共感覚の世界がそこには感じられる。

「私」がエコーを待つのは、コレスポンダンスのもう一方が、今まさに発生しつつある瞬間であることを暗示する。正午ジャストの時。
その瞬間は、まだ何もない虚無(le vide)でありながら、最初のエコーが発生するという事件(événement)の間にある。だからこそ、その事件には、純粋な(pur)という形容詞が付けられる。
ヴァレリーは、自分が自分を意識する(=自意識)の瞬間こそが、詩の源泉(sources du poème)であると考えているのだろう。
従って、私たちが今読みつつある詩句の一つ一つの言葉が、新鮮な泉から湧き出すポエムだといえる。
続いて、私の意識は再び外へと向かう。木々の葉、海岸線、そして身体が意識される。(第9詩節)
Sais-tu, fausse captive des feuillages,
Golfe mangeur de ses maigres rivages,
Sur mes yeux clos, secrets éblouissants,
Quel corps me traîne à sa fin paresseuse,
Quel front l’attire à cette terre osseuse?
Une étincelle y pense à mes absents.
お前は知っているのか、木々の葉に捉えられた偽りの女よ、
痩せ細った岸辺を食べる入江よ、
光輝く秘密である、私の閉ざされた目の上で、
どんな肉体が、私を、怠惰な終わりに引きずっていくのか、
どんな額が、肉体を、骨張った大地へ引き寄せるのか。
一条のきらめきが、そこで、不在のものたちに考えを巡らせる。
外の世界も、もはや、物質的で、非人称的な世界ではなくなっている。
「私」と対応し、生命を宿し、主体的な振る舞いをする。
第9詩節では、あたかも擬人化表現のように、入り江や光が主体的な振る舞いをする。しかし決して無生物に対し、比喩的に人間の行動を投影しているのではない。「私」と同じ資格で、世界全体が生きているのだ。
詩人がここで「お前」と呼びかけるのは、誰、何だろう。

入り江は、わかりやすい。
取り囲む岸辺は貧弱で、入り江が岸を飲み尽くしていると感じられる。
その前に呼びかけられる、偽りの囚われた女性(fausse captive)が具体的に何をイメージさせるのか、はっきりしない。
とにかく、それは木々の葉によって自由を奪われている。
その光景は、ヴァレリーの故郷であるセットの墓地を思わせるが、しかしそれと同時に、目を閉じると見えてくる、意識の中の風景でもある。
実際、ここで、目は閉じている(les yeux clos)。しかし、その目は秘密を宿す。その秘密とは、目を閉じても眩しい光の存在。

その「目」に見えてくるのは、肉体の動き。
精神の働きを追求するとしても、身体を忘れることはできない。身体と精神は対応関係(コレスポンダンス)し、身体に関する意識が精神を限定し、限界となる。
そこで、詩人は、肉体が「私」を終わり(fin)に至らせると考え、どのような身体が?と問いかける。
次に、額に部位を絞り、肉体の対応物である大地と肉体の繋がりを問う。
最後に、一瞬の煌めきがあり、「私」は不在の者たちのことに意識を向ける。
その際にも、主語は「煌めき」とし、それが不在の者(死者たち)を考えるとすることで、具体的な体験としてではなく、精神の冒険を辿る詩句であることを、自らの言葉で伝える。
それが「海辺の墓地」を構成する詩句の分かり難さ、難しいさだが、ヴァレリーの詩を読む楽しさは、その困難が精神の冒険そのものだと認識することにある。
第5説から第9詩節まで、こうして精神の冒険が繰り広げられた。
第10詩節から第19詩節になると、私の不在の者達(mes absents)に関する思考が繰り広げられる。