ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」 Paul Valéry « Le Cimetière marin » 2/4

第5詩節から第9詩節において、「私(Je)」が「魂(âme)」に語り掛けるという行為を通して、変化=動きが生まれる瞬間が捉えられている。

その変化とは、「私」の中で魂と肉体が分裂すること。
それはまだ完全には起こっていず、今起こりつつあるか、未来(futur)に起こりうる出来事として提示される。
その意味で、5つの詩節で描かれる事象は、思考の冒険に他ならない。

第5詩節では、変化=動きに焦点が当たる。

Comme le fruit se fond en jouissance,
Comme en délice il change son absence
Dans une bouche où sa forme se meurt,
Je hume ici ma future fumée,
Et le ciel chante à l’âme consumée
Le changement des rives en rumeurs.

果実が喜びに溶けていくように、
果実がその不在を甘美に変えるように、
口の中で、形象が死なんとするまさにその時、
私はここで我が未来の煙を吸い込む。
空は、憔悴した魂に向かい、
岸辺が呟きへと変わる様を歌う。

フランス語の書き言葉は日本語に比べて、とりわけ抽象性が高い。
そのために、日本語を母語とする読者は、抽象的な言葉を具体的な言葉にほぐして理解する努力が要求される。

この詩節もその例の一つ。
果実(fruift)、喜び(jouissance)、不在(absence)、甘美さ(délice)、形象(forme)、未来の煙(future fumée)の連なりが何を言いたいのか、そのままではまったく分からない。

最初に出てくる果実(fruit)に定冠詞(le)が先立っているが、最初にいきなりその果物と言われても、読者には何のことか分からない。
そこで、この定冠詞が示すのは、具体的な一つの果実ではなく、果実という概念を提示していると考えられる。
ヴァレリーはここで具体的な出来事を描こうとしているのではなく、「果実というもの」を通して、思索を繰り広げようとしているのだ。

しかし、抽象的な言語を通して、そうした思考を辿っていくのは難しい。
そこで、具体的な状況に即して考えてみよう。

「私」は今、一つの果物、例えば、オレンジを口の中に入れ、今まさに食べようとしている。

美味しいオレンジを食べれば、幸せな気持ち(jouissance)になる。(果実が喜びになる。)
食べると、オレンジはなくなり(absence)、美味しさ(délice)に変わる。
口の中で、形(forme)はなくなる(se mourir)が、香り(=煙 fumée)を吸い込むことになる。
それが今まさに今起ころうとしているのだということは、煙についた「未来の(futur)」という形容詞で示される。

こうした具体的な状況が発端にあり、そこから思考の冒険が始まる。
すると、物質的な世界も、「私」の内的な世界に反映し、非物質化していく。
海辺の墓地の上には大きな空が広がり、岸辺には風が吹いている。
「私」は憔悴した魂(âme consumée)を抱きかかえて、その場に佇んでいる。
そうした具体的な状況の中で、思考=夢想に身を委ねていると、目に見える岸辺(rives)が、目に見えないざわめき(rumeurs)へと変わっていく。

第五詩節は、こうしたヴァレリー的思考の発端を描き出す。

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