ラ・フォンテーヌ 「樫と葦」 La Fontaine « Le Chêne et le Roseau » 自信と知恵

ラ・フォンテーヌの寓話の中でも、「樫と葦(Le Chêne et le Roseau)」は最高傑作の一つと言われている。
樫は、その姿通り、堂々とした話し方をし、自信に満ちあふれている。
それに対して、葦は、柔軟な考え方を、慎ましやかだけれど、少し皮肉を込めた話し方で表現する。


ラ・フォンテーヌと同じ17世紀の思想家パスカルは、「人間は葦である。自然の中で最も弱い存在だ。しかし、考える葦である。(L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature; mais c’est un roseau pensant.)」と言った。
自分の弱さを知ることが人間の偉大さだと、パスカルは考えたのである。

では、ラ・フォンテーヌは、葦を主人公にしたイソップ寓話を語り直しながら、何を伝えているのだろうか。

「樫と葦」は、全部で32行の詩句から出来ている。
詩句は、一行が12音節のもの(アレクサンドラン)と、8行のもの(オクトシラブ)のものがあり、巧みに組み合わされている。
韻は、一般的な4行(ABBA, AABB, ABAB)で構成されるものが多いが、ABABAなど5行で構成されるものもある。
それ以外にも音による工夫が駆使され、内容だけではなく、形態的な面でも、工夫が凝らされている。

まず、樫の言葉を読んでみよう。

Le Chêne un jour dit au Roseau :
Vous avez bien sujet d’accuser la Nature ;
Un Roitelet pour vous est un pesant fardeau.
Le moindre vent, qui d’aventure
Fait rider la face de l’eau,
Vous oblige à baisser la tête :
Cependant que mon front, au Caucase pareil,
Non content d’arrêter les rayons du soleil,
Brave l’effort de la tempête.
Tout vous est aquilon, tout me semble zéphyr.
Encor si vous naissiez à l’abri du feuillage
Dont je couvre le voisinage,
Vous n’auriez pas tant à souffrir :
Je vous défendrais de l’orage ;
Mais vous naissez le plus souvent
Sur les humides bords des Royaumes du vent.
La Nature envers vous me semble bien injuste.

樫がある日、葦に言った。
そなたが「自然」を非難するのはもっともだ。
ほんの小さな鳥でさえ、そなたには重くのしかかる重荷だ。
僅かな風が、偶然、
水面に皺を付けただけで、
そなたは頭を下に向けなければならない。
その一方で、わしの額は、コーカサス山脈に似て、
太陽の光を遮るだけで満足することなく、
嵐がどんなに激しくても、堂々と立ち向かう。
全てがお前には北風だ。全てが私には春風に思われる。
せめて、そなたが草むらに隠れたところに生まれていたら、
そう、わしが辺りを覆っている草むらだ、
そんなに苦しむこともなかっただろう。
わしがそなたを嵐から守ってやれるのだ。
しかし、そなたときたら、いつもいつも、
風の王国の湿った岸辺に生まれてくる。
「自然」は、そなたには不当であるように、わしには思われる。

樫の言葉からは、大きなプライドと自信が伝わってくる。
額はコーカサス山脈のように高く大きいと言うし、嵐に対して「勇敢に立ち向かう(braver)」と言う。

それと同時に、葦のことを揶揄して、小さな鳥や僅かな波にも揺らぐ、弱い存在だと指摘する。そして、自分の庇護の下で生まれていれば、保護してやれたと、君主が家臣に向かうような言葉遣いをしている。

こうした樫と葦の対比が、10行目の詩句で見事に表現されている。

Tout vous est aquilon, tout me semble zéphyr.

12音節が6/6と二つに分かれ、両方の部分で、「全て(tout)」という言葉が主語として使われる。
vous(そなた)に対してはaquilon(北風)が、me(わし)に対してはzéphyre(春風)が置かれ、樫と葦の差異が際立つ配置がされる。
さらに、最初の部分ではêtre(である)が使われ、それが事実であるという認識が示される。他方、後ろの部分では、sembler(ように思われる)という動詞が使われる。そのことによって、樫の言葉にニュアンスが付けられ、全てが春風という樫の認識が、樫の思い込みかもしれないという含みがなされている。
« Tout vous est aquilon »と« tout me semble zéphyr »
この対句は口調も素晴らしく、見事としか言いようがない。

次に葦の言葉を聞いてみよう。

Votre compassion, lui répondit l’Arbuste,
Part d’un bon naturel ; mais quittez ce souci.
Les vents me sont moins qu’à vous redoutables.
Je plie, et ne romps pas. Vous avez jusqu’ici
Contre leurs coups épouvantables
Résisté sans courber le dos ;

あなた様のお心遣いは、と、ちっぽけな草が応えた。
善きご気性からのもの。でも、ご心配には及びません。
風は、私には、あなた様にとってよりも、恐ろしいものではありません。
私は曲がりますが、折れはしません。あなた様はこれまで、
恐ろしい風が吹くと、
背中を曲げずに、抵抗していらっしゃいました。

お心遣いと訳した単語は、« compassion ». 辞書には同情とか哀れみという訳が記されている。
葦は、その気持ちが、樫の善良な性質から発していると口では言うが、すぐに心配は無用と付け加えることで、« compassion »という言葉に皮肉な気持ちを込めていることがわかる。

そして、作者ラ・フォンテーヌは、その言葉を詩の音節の規則を利用して、強調している。
最初の一行は10音節の詩句。
vo-tre-com-pa-ssion (5) / lui-ré-pon-dit l’Ar-buste (6)
普通に数えると、前半は5音節しかない。
そこで、詩の規則では、母音が二つ重なっているところで、二つに分ける。
com-pa-ssi-on
こうすると、votre compassionで6音節になる。
そして、一音節余分に発音することで、compassionという語が強調され、ここでは、皮肉な気持ちが読者に伝わりやすいようにしているのである。

この言外の皮肉の後で、葦は、風は樫にとっての方が恐ろしいはずだといいながら、自分の長所を伝える。
「私は曲がりますが、折れはしません。」 Je plie, et ne romps pas.

この言葉は、最初の樫の言葉を受けている。
樫は、葦に向かって、ほんのわずかな風でも「そなたは頭を下げることを強いられる。(Le moindre vent […] / vous oblige à baisser la tête.)」と言った。
風になびくことは、樫にとっては頭を下げることなのだ。
葦はその言葉を前提にしながら、頭を下げるのではなく、曲がるのだと言い、同じ行為に対する視点を変える。
曲がるからこそ、折れないのだ。

葦は樫とは違い、自分を大きく見せようとはしないために言葉に出すことはないが、曲がることで折れるのを防ぐことが、智恵(la sagesse)なのだ。

逆に言えば、風に無理に抵抗することは、智恵を欠くことだということになる。しかし、葦は、樫を直接非難する言葉は使わない。
事実を述べるだけである。

この樫と葦の会話の後に、語り手のナレーションが続く。
その時、ラ・フォンテーヌの語りの巧みさが最大限に発揮される。

Mais attendons la fin. Comme il disait ces mots,
Du bout de l’horizon accourt avec furie
Le plus terrible des enfants
Que le Nord eût porté jusque-là dans ses flancs.
L’Arbre tient bon ; le Roseau plie.
Le vent redouble ses efforts,
Et fait si bien qu’il déracine
Celui de qui la tête au ciel était voisine
Et dont les pieds touchaient à l’empire des morts.

でも、最後まで待ちましょう。葦がこう言っている間に、
地平線の彼方から、怒ったかのように、
恐ろしい風が吹いてきた。それは、
北の国がこれまでずっとお腹に入れてきた子供たちだった。
木はしっかりと持ちこたえる。葦は曲がる。
風がますます強く吹き、
最後には、根こそぎ引っこ抜くのに成功する、
頭は天の近くまで届き、
根は、死者の王国に触れていた木を。

ラ・フォンテーヌの語りの巧みさは、最初の行の冒頭では、まだ葦の言葉を繋げているところにある。
そして、その6音節の言葉が終わると、同じ行で語り手のナレーションが始まる。
同じ一行に葦の言葉と語り手の言葉があることで、植物が口をきく寓話の世界と、語り手のいる現実の世界が連結するのである。

その語り手、ラ・フォンテーヌは、神話や伝説を物語るときの語彙を多用する。
北風のことを北の国の恐ろしい子供と言い、樫の木の大きさを強調するために、頭は天に届き、根は地獄に届くと誇張する表現を使う。
そのことによってこの寓話が、動物や植物が言葉を話す空想的なお伽話ではなく、価値の高い神話であるかのような印象を与えることになる。

詩的表現の工夫は、樫と葦を対比する詩句で、目立つようにされている。
樫の言葉の中で、二つの植物の対比は、12音節で、6/6のバランスが見事だった。
Tout vous est aquilon, tout me semble zéphyr.
語り手のナレーションでは、8音節の詩句で、4/4に分けられる。

L’Ar-bre-tient-bon (4) ; le-Ro-seau-plie.(4)

音節数的には、両者の力関係は同じ。4音節づつ配分されている。
樫はふんばり、葦は曲がる。
この詩句からは、二つの植物が強い風に吹かれ、それぞれの性質に応じて対応しているようすが、生々しく感じられる。

そして、待たれていた最後(la fin)が訪れる。
風がますます強く吹き、樫の木を根こそぎ倒してしまう(déraciner)。
その風の音が、母音 [ i ]の反復(アソナンス)と子音 [ s ]の音の反復(アリテラシオン)、そしてその二つが続く[ si ]によって、8音節と12音節の詩句の音として聞こえてくる。

Et fait si bien qu’il déracine
Celui de qui la tête au ciel était voisine

この二つの詩句から、風がヒューヒューと吹く音(sifflement)が聞こえ、樫の木は倒れてしまう。

「自然(la Nature)」に素直に身を任せる葦は風の動きに従い、抵抗する樫の木は根こそぎ倒れてしまう。
詩句が発する風の音は、読者に「自然」を感じさせる。
そして、樫ではなく、葦でいいという思いに導く役割を果たす。

最後にもう一度、寓話の詩句の音楽性や音色を聴いてみよう。
今度はセルジュ・レジアニの朗読で。

嵐に立ち向かい(braver)、雷雨(orage)から葦を守ってやれると豪語していた樫の木は、根を抜かれて(déraciner)終わる(la fin)。
それに対して、風に身を委ねて曲がる(plier)性質を持つ葦は、決して折れない(ne pas rompre)。
この物語の展開は、イソップ寓話そのままである。

樫と葦が頑丈さを競い合った。
大風が吹いた時、足は体を曲げ突風に身を任せて、根こそぎにされるのを免かれたが、樫は、抵抗して根っこから覆されてしまった。 
強い者には争ったり抵抗すべきでない、ということをこの話は解き明かしている。 

ラ・フォンテーヌは、この物語に基づいて樫と葦の会話を組み立てているが、しかし、強いものには逆らうな、という教訓を付け足してはいない。

韻文詩としての言葉の美しさや音楽性を大切にし、読む人を楽しませる。
そして、寓話から何を学ぶかは、読者の判断に委ねる。

パスカルが言うように、人間は考える葦であるとすると、「考える」ことが人間の価値であり、弱さを克服する知恵(sagesse)だということになる。
https://bohemegalante.com/2020/05/15/pascal-pensees-roseau-pensant/

ラ・フォンテーヌは、「樫と葦」を通して、単純な答えを提示することはせず、読者に考える余地を残し、人間が智恵を身につける助けとなる風を吹かせているのではないだろうか。



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