モンテーニュ 「読者へ」 Michel de Montaigne Au lecteur 自己を語る試み

1580年、モンテーニュは、『エセー(Essais)』の最初に「読者へ(Au lecteur)」と題した前書きを付け、自分について語ることが16世紀にどのような意味を持っていたのか、私たちに垣間見させてくれる。

現在であれば、自己を語ることはごく当たり前であり、日本には私小説というジャンルさえある。
それに対して、モンテーニュは、自己を語ることの無意味さを強調する。
そして、彼が書いたことは彼自身のことなので、他人が読んでも時間の無駄だと、読者に向かって語り掛ける。

出だしから、読むなと言われれば、読者は当然読みたくなる。
次の時代のパスカルも、18世紀のルソーもモンテーニュの熱心な読者だし、現代のフランスでも読者の数は多い。

16世紀のフランス語は現在のフランス語とはかなり異なっているので、多少綴り字などを現代的にしたテクストで、「読者へ」を読んで見よう。

          Au lecteur

C’est ici un livre de bonne foi, lecteur. Il t’avertit, dès l’entrée, que je ne m’y suis proposé aucune fin, que domestique et privée. Je n’y ai eu nulle considération de ton service, ni de ma gloire. Mes forces ne sont pas capables d’un tel dessein.

          読者に

これは誠実な本である、読者よ。最初から予告しておく。私がこの本で自分に課した目的は、自分の家の中だけのプライベイトなもの。あたなの役に立つことも、私の名誉になることも考えてはいなかった。自分の力では、そう思ったにしても、実現することはできない。

モンテーニュは、最初に、『エセー』の目的が、読者の役に立つこと(ton service)でも、自分の著者としての名誉(ma gloire)を得るためでもないと明言する。
目的は、あくまでも、プライベイト(privée)なもの。

実は、そのことが、最初の「誠実な本(livre de bonne foi)」という言葉の保証となる。
社会のために役に立つ本を書こうとすれば、どうしても誠実さが失われる。噓とは言わなくても、自分の恥となるようなことは書かないだろう。
しかし、家の中で(domestique)家族にだけ読まれるだけの原稿であれば、見栄を張ったり、自分をよく見せようしても無駄。また。そんなことをしても、すぐに見破られてしまう。

プライベイトな目的(fin domestique et privée)であることが、誠実さ(de bonne foi)を保証するとは、そうした意味である。

Je l’ai voué à la commodité particulière de mes parents et amis : à ce que m’ayant perdu (ce qu’ils ont à faire bientôt) ils y puissent retrouver aucuns traits de mes conditions et humeurs, et que par ce moyen ils nourrissent, plus entière et plus vive, la connaissance qu’ils ont eue de moi.

私がこの本を捧げたのは、家族や友人への特別な便宜を考えてのことだった。彼等が私を失った後、(それはもうすぐ彼等に起こることだ)、私の生き様とか気質の特色をこの本の中に見つけ、私について持っていた知識をより全体的に、より生き生きと保ってくれたらと思う。

次に、家族用ということを、さらに細かく説明する。
自分が死んだ後、家族や友人が、モンテーニュのことを思いだすだろう。
そうした時、彼がどんな生活をしていたのか(conditions)、どんな性質・気質(humeurs)だったのか等、いくつかの特徴(aucuns traits : aucunsはいくつか、の意)を、この原稿を読んで見つけて欲しい。もっと言えば、原稿を読んで、彼についてもっと知って欲しい。
そうした願いを込めて、『エセー』の原稿を書いたのだと言う。

従って、この本は、徹底的にモンテーニュが自分自身について語ったものだということになる。

実際に『エセー』を読めば、その語りは、モンテーニュの感情生活を綴ったものではなく、彼が考えたこと、最初の章の題名でいえば、「人は色々な方法によって、同じ結果に至る」という考察を展開している。
彼が、人間について、社会について、人々の思考のあり方について等、様々なテーマについて、思考をああでもないこうでもないと試し(essayer)ながら書き綴った結果が、モンテーニュの「私」なのだ。

Si c’eût été pour rechercher la faveur du monde, je me fusse mieux paré et me présenterais en une marche étudiée. Je veux qu’on m’y voie en ma façon simple, naturelle et ordinaire, sans contention et artifice : car c’est moi que je peins. Mes défauts s’y liront au vif, et ma forme naïve, autant que la révérence publique me l’a permis. Que si j’eusse été entre ces nations qu’on dit vivre encore sous la douce liberté des premières lois de nature, je t’assure que je m’y fusse très volontiers peint tout entier, et tout nu.

もし人々から好意を得ることを期待していたら、もっと自分を飾り、しっかりと考えた足取りで自分を紹介しただろう。私が望むのは、シンプルで、自然で、ごく普通の様子をし、無理に取り繕い、わざとらしいところなく、自分を見てもらうことなのだ。なぜなら、私が描くのは、私自身だから。私の数々の欠点をそのまま読んでもらうことになるし、社会的な規範が許すかぎりで、私の飾らない姿も読んでもらうことになる。もし私が、自然の最初の法則に従い、穏やかな自由の下で生きていると言われる民族の中にいたとしたら、喜んで私の全てを、裸の姿で描いたことだろう。

モンテーニュがとりわけ強く主張するのは、自然(naturel)であり、技巧(artifice)的ではないこと。
その対比は、語彙のレベルで示される。
(1)自然(naturel):シンプル(simple )、普通(ordinaire)、飾らない(naif)、自然(nature)、全体(tout entier)、裸(tout nu)。

(2)技巧(artifice):飾る(mieux paré)、よく考えた歩み(marche étudiée)、努力(contention)。

もし自然の中で生きるとしたら、人間は自分を飾らない。
逆に言えば、社会の中で、他の人々への配慮があるので、礼儀に従い、自然な自分とは違う自分を演出する。

ここで、モンテーニュは、自然と社会を対比させ、彼は自分のことを自分の身内に向けて描く(c’est moi que je peins)のだから自然状態に近いと主張する。

彼の言葉によれば、「自然の最初の法則に従った穏やかな自由(la douce liberté des premières lois de la nature)」の中で、自分の欠点も含め、自己の裸の姿を洗いざらい、ありのままに描く。

Ainsi, lecteur, je suis moi-même la matière de mon livre : ce n’est pas raison que tu emploies ton loisir en un sujet si frivole et si vain. Adieu donc.

このように、読者よ、私自身が私の本の素材なのだ。あなたが、こんなに軽薄でこんなに虚しい主題のために時間を使うのは理屈に合わない。では、さらば。

最後に再び、読者に向かって、自分自身が本の素材(la matière de mon livre)なのだと繰り返す。
そんな素材は社会的な価値が全くない。だから、『エセー』を読むのは時間の無駄。
そう言い放って、読者に「さらば(Adieu)」と別れを告げる。

モンテーニュがこれほど自分を語ることを無意味だと言うには訳がある。
書物とは有用なものであり、ある人物が自分について語る場合でも、歴史的であり社会的に意味のあることに限られていた。
『回想録』等は、歴史のベースになるものであり、パブリックな意味合いを持っている必要があった。

言い換えれば、語るべき私とは「社会的な私」であり、私的な思いを書くことはありえなかった。
そうした中で、モンテーニュは、あえて、自分の生き様(conditions)や気質(humeurs)、さらには欠点(défauts)までも、包み隠さずに書き連ねるのだと言う。
これは、16世紀にあって、まったく新しい試み(essai)だった。

モンテーニュ城の館(書斎)

「読者に」は、「私の思い」を語ることが、社会的には全く意味がなかった時代があったのだということを教えてくれる。
言い換えれば、人間の「内面」は書物で語るだけの価値は見出されていず、もし私を語るとしても、それは歴史の証人としての社会的私だった。
モンテーニュはそうした時代にあって、「私の考え」つまり、「思想」に価値を見出したのだといえる。

しかし、彼は感情生活、人間の「内面」に価値を見出したわけではない。そこに到達するには、18世紀のジャン・ジャック・ルソーまで待たなければならないだろう。

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