ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 4/5

韻文詩「空腹(Faim)」と「狼が叫んでいた(Le loup criait)」は、空腹を歌う詩。
二つの詩とも、内容はただ「腹へった!」というだけ。
そんな空虚な内容を、軽快で、音楽性に満ち、スピード感に溢れた詩句で綴っていく。

ランボーは、意味よりも表現にアクセントを置き、これまでの詩法に違反したとしても、スタイリッシュな詩句を口から紡ぎ出す。

その詩句の魅力に引き寄せられた読者は、何らかの意味があると信じ、読者自身で意味を考え出す。
それがランボーの詩句の意味となり、意味が重層化され、ランボーの詩の中に堆積してきた。

ランボーは、『地獄の季節』の散文でも、同じ作業を行う。
二つの詩に続く散文は、とりわけ魅力的に響く。

Enfin, ô bonheur, ô raison, j’écartai du ciel l’azur, qui est du noir, et je vécus, étincelle d’or de la lumière nature. 

やっと、おお、幸福よ、おお、理性よ、ぼくは空から蒼穹を遠ざけた。黒い蒼穹を。ぼくは生きた、「自然」という光の黄金の火花となって。

なぜ幸福(bonheur)と理性(raision)に、同時に呼びかけるのか?
空から(du ciel)蒼穹(azur)、つまり青い色を遠ざける(écarter)とはどういうことか。
しかも、「蒼穹が黒い(l’azur qui est du noir)」。青が黒とはどういうことか?
「ぼく(je)」は、光の黄金の輝き(étincelle d’or de la lumière)?
並列に置かれた光(lumière)と自然(nature)の関係は? 
しかも自然はイタリック体で書かれている。その理由は?

こうした疑問が次々に湧いてくる。
そして、その答えはどこにも書かれていない。
普通の文学作品であれば、前後の文脈によって答えの範囲を狭め、一つか二つの納得のいく解釈が導き出される。
しかし、ランボーの詩にはヒントがほとんどない。

その一方で、散文は限りない魅力で輝いている。
意味が分からなくても、Ô bonheur, Ô raisonと口にし、j’écartai du ciel(空から遠ざけた)と言い、何を?と思う間もなく、l’azur(青色)が続く。しかも、その青色は、黒い(qui est du noir)と言われる。
読者は、その言葉の連なりに驚かされながら、スピード感に圧倒される。
言葉は錯乱(délires)し、眩暈(vertige)を生みだし、幻覚(hallucination)を起こさせる。
言葉の錬金術(alchimie du verbe)で生み出される素晴らしい詩句たちが、ここにはある。

こうした言葉のあり方は、この散文詩の前に置かれた韻文詩にも見られた。

「空腹」では、食べる物がなく、よほどお腹が空いているのか、ほとんどやけになり、空腹の歌を歌う。
食べたいのは土と石だけと言ってみたり、「腹ぺこ、回れ。食べろ、腹ぺこ。音(糠)の草原。(Mes faims, tournez. Paissez, faims, / Le pré des sons.)」といった言葉遊び的な詩句を、テンポよく重ねる。
(sonは音と糠の意味を持つ、同音異義語。)

「狼が叫んでいた」では、狼がニワトリを食べ、蜘蛛がスミレを食べたことを過去形で語りながら、自分が食べたものを思い出す。そして、最後は、眠りたいと歌う。

ランボーは、自分の言葉がどのようなものか、次の表現で自分なりの解釈を示している。

De joie, je prenais une expression bouffonne et égarée au possible :

おお喜びして、ぼくは、できるだけ混乱し、おどけた表現を使っていた。

ランボー自身、自らの表現(expression)が、おどけていて(bouffonne)、道に迷ったように訳がわからないもの(égarée)と見なしている。

真剣に机に向かい、顔をしかめて真面目な詩を書くのではなく、相棒(ヴェルレーヌ)とふざけ合いながら、街の中を徘徊し、野原を彷徨い、言葉遊びのような詩句をその場その場で紡ぎ出していく。
相棒は、感傷的で、音楽性に溢れた詩の名手。
それに対して、ランボーはカラッとして、屈託の欠片もない詩を口ずさむ。

この散文に続く韻文詩「永遠(L’Éternité)」でも、それは変わらない。

Elle est retrouvée !
Quoi ? l’éternité.

見つかった!
何が? 永遠が。

https://bohemegalante.com/2019/08/08/rimbaud-eternite/

「見つかった!」という冒頭の詩句は、ランボーが苦労も努力もなしで「発見(Eureka)」に達することができることを告げている。
見つかるのは、永遠。人間を超えた次元。
しかし、ランボーは、いとも容易にこう続ける。
「何が? 永遠が。」

その容易さの秘密は、「おどけた表現(expression bouffonne)」だろう。
本当に見つかったのかどうかは、どちらでもいい。
ただランボーは、おどけた調子で、「永遠が見つかった!」と言ってみる。
冗談かもしれないし、頭が混乱した調子で(égarée)言っているのかもしれない。
だからこそ、簡単にこう結論づけることができる。
「それは、太陽と混ざり合った海。(C’est la mer mêlée / Au soleil.)」
この屈託のない口調が、ランボーの詩句の潔さ、スタイリッシュさのポイントだろう。

韻文詩「永遠」の後には、再び散文詩が続く。(続く)

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