
「永遠が見つかった!」と韻文詩の中で叫んだ後の散文詩は、日常的な言語感覚では意味不明なものにますます傾いていく。
構文は単純であり、初級文法さえ知っていれば理解可能な文が続く。
理解を妨げるのは、単語と単語の繋がり。
例えば、冒頭の「ぼくは空想的なオペラになった。」という一文。
人間がオペラになる?
空想的な(fabuleux)オペラとは何か?
ランボーはその答えを導くヒントをどこにも残していない。
読者は、自分の持つ知識と感性に従って、何らかの思いを抱き、次の文に進むしかない。
しかし、前の文と次の文の意味的な連関もよくわからない。
Je devins un opéra fabuleux : je vis que tous les êtres ont une fatalité de bonheur : l’action n’est pas la vie, mais une façon de gâcher quelque force, un énervement. La morale est la faiblesse de la cervelle.
ぼくは空想的なオペラになった。ぼくにはわかった。全ての存在は、幸福な宿命を持っている。行動は生ではない。なんらかの力を害する様式であり、苛立ちだ。道徳は脳髄の弱さだ。
ランボーが何を言いたいのか、これが正解と言うことはできない。
読者は言葉の作り出す幻覚(hallucination des mots)についていくしかない。
1)「ぼく」はオペラ(opéra)になった。そのオペラは空想的(fabuleux)。
2)全ての存在(tous les êtres)は幸福な宿命(fatalité de bonheur)を持っている。
3)行動(action)は生(vie)ではない。
行動することは、何らかの力(quelque force)を害する(gâcher)一つのやり方(une façon)であり、苛立ち(énervement)である。
4)道徳(morale)は、脳(cervelle)の機能の低下(faiblesse)である。
この4つの文に論理的な関連はない。ただランボーがこう綴っているにすぎない。
しかし、ランボー的なやり方を垣間見ることはできる。
ぼくがオペラになったという文は、日常のレベルでは意味不明であり、読者を強く驚かせる。わからないだけに、強い印象を与える。しかも、構文はいたって簡単であり、だからこそ誰にもその不可思議さは理解できる。
この一節では、それ以降、徐々に理解可能な意味の文へと進んで行く。
全ての存在が幸福の運命を持つという内容に納得するかどうかは、読者による。しかし、意味は理解できる。
次の、行動することは生きるということではなく、何らかの力を害することであり、苛立ちの表現だという文は、若者の行動を思えば、それなりに理解可能。
そして、納得するにしろしないにしろ、道徳なんてものは、頭の働きが弱っていることの印だとランボーに言われれば、そういう考え方もあるだろうと、それなりに納得する。
こんな風に、簡潔な文を連続させ、勢いよく言いたいことを書き連ねていくところに、ランボーの散文詩の特色がある。
読者の理解を求めない主張、それらを連ねるスピード感と勢いのよさ、脈絡のなさから来る意外さが、散文の魅力の源泉になっている。
À chaque être, plusieurs autres vies me semblaient dues. Ce monsieur ne sait ce qu’il fait : il est un ange. Cette famille est une nichée de chiens. Devant plusieurs hommes, je causai tout haut avec un moment d’une de leurs autres vies. — Ainsi, j’ai aimé un porc.
一つ一つの存在に、複数の異なる生が属していると、僕には思われた。この人は、自分のしていることが何かわかっていない。彼は天使だ。この一家は犬の同族だ。大勢の人を前にして、ぼくは大きな声で、彼等の別の生の一つの一瞬と話をした。ーー こんな風にして、ぼくは一頭の豚を愛した。
この一節でも、書かれていることはわかるが、何を言っているのかわからない文が、脈絡なく続く。
そうした文を読みながら、合理的な論理を求めなければ、ランボーの言いたい放題にだんだん気持ちよくなってくる。
1)それぞれの人間(chaque être)には色々な生(plusieurs autres vies)、つまり色々な人格があると言われれば、そうかなあと思う。
2)自分のしていること(ce qu’il fait)がわかっていない人がいると言われれば、頷く。
いきなり、その人が天使(ange)だと言われるとびっくりするが、天使のような行いをする人はいるだろう。
3)ある一家が、一つのお腹から生まれた犬たち(une nichée de chiens)だと言われると、その乱暴さにびっくりするが、それくらい嫌な一家もいるだろう。
4)たくさんの人の前で(Devant plusieurs hommes)、大声で(tout haut)話をするというのはわかるが、話した相手が時間(=彼等の別の生の一つの一瞬)というのは意味不明。
5)そうした文の結末で、一頭の豚を愛した(j’ai aimé un porc.)と言われると、読者は混乱するしかない。
しかし、この突然の言葉、しかもほとんど意味のない言葉が、不思議な快感を生み出す力を持っている。
Aucun des sophismes de la folie, — la folie qu’on enferme, — n’a été oublié par moi : je pourrais les redire tous, je tiens le système.
狂気の詭弁のどれ一つ、ーー 狂気は監禁されているのだが、−− ぼくから忘れられてはいなかった。全てをもう一度言うことさえできる。だって、ぼくはそのシステムを把握しているんだ。
ここでランボーは理性の側に立ち、自分の言葉と詩作を説明する。
理性的に見れば、上に書いてきたことは、意味不明であり、狂人の言葉のように思われる。狂気の詭弁(sophisme de la folie)だ。
そして、狂人が精神病院という監獄に閉じ込められるように、狂気の言説も、理性ある人間は自分の中に閉じ込め、口には出さない。
その一方で、「ぼく」はそれを一つたりとも忘れず、もう一度言えと言われれば、全て反復することができる。
というのも、狂気の詭弁を作り出すシステムを把握しているからだと、ランボーは記す。
この一節から明らかになることがある。
ランボーは決して熱に浮かされて、意味不明の言葉を吐き出しているわけではない。彼は理性に基づき、計算の上で「狂気の詭弁」を連ねている。
彼の詩作は、狂気に犯され、無意識的に行われるのではなく、意識的に言葉の意味を混乱させ、錯乱を作り出している。
そのことは、「見者の手紙(lettre du voyant)」でもはっきりと意識されていた。彼は、そこで、このように記していた。
« un long, immense et raisonné dérèglement de tous les sens »
全ての感覚を、長い間、限りなく大きく、しかも「理性的に」混乱させること。
ランボーは、感覚の混乱を理性的に行っていることが、この有名な表現からも理解できる。
また、同じ手紙の中で、ランボーは次のように書いていた。
J’ai l’archet en main.
ぼくは手に楽弓を持っている。
つまり、彼が弓を音楽を奏でるのであり、弓が自由に動くのではない。
Ma santé fut menacée. La terreur venait. Je tombais dans des sommeils de plusieurs jours, et, levé, je continuais les rêves les plus tristes. J’étais mûr pour le trépas, et par une route de dangers ma faiblesse me menait aux confins du monde et de la Cimmérie, patrie de l’ombre et des tourbillons.
ぼくの健康は脅かされた。恐怖が来ていた。ぼくは数日間眠りの中に落ちていた。起きてからも、ひどく悲しい夢を続けていた。ぼくは、死に向かうのに十分熟していた。危険に満ちた道を通り、衰弱したぼくは、世界の果て、影と竜巻の祖国キンメリアの果てへと導かれていた。
この一節では、前の節に出てくる語る主体としての「ぼく」ではなく、語られる対象としての「ぼく」に戻り、再び告白を続ける。
健康が冒され、何日間も眠り、目覚めてからも、夢を見ている状態にいた。
そして、死を覚悟し、すでにこの世の果てにいるような感覚に襲われたと告白する。
シンメリア(Cimmérie)とは、古代ギリシアの神話に出てくる地名で、世界に西の果てにあり、死者の国と接しているとされた。
前の節では狂気とされたものが、ここでは夢や死と重ねられている。
その際には、文と文の関連の非論理性は減少し、眠り、夢、死と続く論理が見られる。
Je dus voyager, distraire les enchantements assemblés sur mon cerveau. Sur la mer, que j’aimais comme si elle eût dû me laver d’une souillure, je voyais se lever la croix consolatrice. J’avais été damné par l’arc-en-ciel. Le Bonheur était ma fatalité, mon remords, mon ver : ma vie serait toujours trop immense pour être dévouée à la force et à la beauté.
ぼくは旅をし、脳の上に集まった魔法を拡散させないといけなかった。海の上、海はぼくの汚れを洗い流してくれるように感じられるので、大好きなのだが、その海の上に、慰めの十字架が立ち上がるのが見えていた。ぼくはかつて虹に断罪されたことがあった。「幸福」がぼくの運命であり、ぼくの後悔であり、ぼくのうじ虫だった。ぼくの生は常に巨大すぎ、力や美に捧げられることはなかった。
旅をするという言葉から、再び意味連関のない文が連なり始める。
ぼくの脳の上に集まった魔法(enchantements)とは、理性を超えた様々な言葉が呼び起こす数々のイメージだと考えることができる。
旅行をして、意味不明な想念を追い払うところまでは、それなりに理解可能だろう。
その後で、海に言及され、海が「ぼく」から汚れ(souillure)を洗い落とすということも、禊ぎなどを思えば、理解できる。
その海に、十字架が立ち上がる(se lever la croix)というのは、キリスト教的なイメージ。その十字架が慰めをもたらしてくれる(consolatrice)というのであれば、ランボーは、キリスト教に救いを求めたと考えることも可能。
しかし、虹(arc-en-ciel)に断罪されたことがあった(damné)とはどういう意味なのか?
その上、大文字で書かれた「幸福(Bonheur)」が、ぼくの宿命(ma fatalité)であり、ぼくの後悔(mon remords)であり、さらには、ぼくのウジ虫(mon ver)であるというに至っては、言葉の錯乱としか言いようがない。
しかも、その理由として、ぼくの人生(ma vie)は、力(force)や美(beauté)に捧げられるには巨大すぎると言われる。
こうしたほとんど意味不明の文が次々に繰り出されると、論理を求める読者は困惑するしかなくなる。
しかし、ランボーの散文は、明確な短い構文で構成され、読むことを妨げるものではない。
短文が速射砲によって打ち出され、そのリズムのよさが読者を心地よく前に進ませる。
意味を求めるとしたら勝手に後で考えてくれ、とランボーは読者を突き放し、その乱暴さが読者を魅了する。
「おお季節よ、おお城よ!」の直前に置かれる次の散文は、そうしたランボー的姿勢の典型だろう。
Le Bonheur ! Sa dent, douce à la mort, m’avertissait au chant du coq, — ad matutinum, au Christus venit, — dans les plus sombres villes :
「幸福」! その歯は、死に優しく、雄鶏の歌で、ーー 「早朝ニ、キリストハ来給エリ」ーー 暗い街の中、ぼくに告げた。
「ぼく」に告げられるのは、韻文詩「おお季節よ、おお城よ!」。
https://bohemegalante.com/2019/12/08/rimbaud-o-saisons-o-chateaux/
その詩の中で、「ぼくは幸福に関して魔法の研究をした(J’ai fait la magique étude / Du bonheur)」とあり、幸福というテーマが散文によって予告されていることはわかる。
しかし、この散文の言葉も錯乱している。
幸福の歯とは何か?
その歯が、死に優しいとはどういうことか?
なぜその歯が、ぼくに韻文詩を告げるのか?
なぜカトリックのミサで使われる言葉がラテン語で引用されるのか?
なぜ雄鶏が鳴き声をあげる朝なのか?
複数形に置かれた暗い街とはどこで、何を意味しているのか?
この散文詩と韻文詩はどのような関係にあるのか?
等々、疑問は尽きない。
そうした疑問を抱いたまま、読者は韻文詩を読み始めるしかない。
そして、「おお季節よ、おお城よ!」を読み終わると、「言葉の錬金術」の最後の一文に行き着くことになる。
Cela s’est passé. Je sais aujourd’hui saluer la beauté.
こうしたことが起こったのだった。ぼくは今、美に挨拶することができる。
こういうことが起こった(Cela s’est passé)という言葉で、「言葉の錬金術」が終わったことが示される。
そこでは、「詩的常套句(la vieillerie poétique)」である二つの韻文詩の例が挙げられた。
その後、「単純な幻覚(hallucination simple)」から「言葉の幻覚(hallucination des mots)」へと進み、「魔術的でヘンテコな論理(sophismes magiques)」の実例も数多く生み出された。
韻文詩だけではなく、「狂気の詭弁(sophismes de la folie)」と呼ぶことができる散文も、韻文と同じポエジーを発している。
例えば、「宿屋の便器に酔いしれる小さなハエよ(le moucheron enivré à la pissotière de l’auberge)」とか、「ぼくは空想的なオペラになった(Je devins un opéra fabuleux )。」等。
「言葉の錬金術」の散文自体が、錬金術によって精錬された黄金=ポエジーに他ならない。
そして最後に、「ぼくは美に挨拶できる(je sais saluer la beauté)」と書き記すことで、ランボーの生み出す詩の目指すものが、「美(la beauté)」であることが明かされる。
その美は、言葉が現実を参照したり、現実の代用となって何かを表現することから発するのではなく、言葉が自立的に発光することで生まれる幻覚から発せられる。
「言葉の錬金術」は、そうしたランボーの詩的言語を創造する秘儀なのだ。

最後にもう一度、「言葉の錬金術」の音声を確かめておこう。