ランボー 「おお季節よ、おお城よ」 Rimbaud « Ô saisons ô châteaux… » 永遠から時間の中へ

「おお季節よ、おお城よ」は、『地獄の季節』の中心を占める「錯乱 II 言葉の錬金術」に収録された韻文詩群の最後に置かれた詩。
その直前に位置する「永遠」の後、再び「時間」が動き始める。
そして、ランボーは、「幸福」について思いを巡らせる。

6音節のリフレイン« Ô saisons (3) ô châteaux (3) »に挟まれ、7音節2行で構成される詩節が、幸福の魔力と魅力について、多様な解釈の余地を生み出す言葉となって、連ねられていく。

Ô saisons, ô châteaux !
Quelle âme est sans défauts?

おお、季節よ、おお、城よ!
どんな魂に、欠点がないというのか?

ランボーの詩の最も大きな特色は、言葉一つ一つの意味は理解できても、それをどのように解釈していいのか、限定できないところにある。
季節(saisons)という言葉をどのように理解したらいいのか?
城(châteaux)は? 
しかも、その二つの単語は複数形になっている。
また、欠点(défauts)とは何か? なぜ複数形なのか?
それらの疑問を解明する手掛かりは、詩句のどこにも記されていない。

その特色は、意味を限定できないというジレンマに読者を陥らせる。
しかし、そのおかげで、ランボーの詩句の解釈は大きく開かれ、自由に思いを投影することができもする。

リフレインとなる6音を、小林秀雄はこう訳した。

季節が流れる、城砦が見える

季節に「流れる」という動詞を付けたのは、小林の解釈。
季節が流れるという解釈は、『地獄の季節』の最終章「さらば(Adieu)」の冒頭の一句から類推することができる。

L’automne déjà ! — Mais pourquoi regretter un éternel soleil, si nous sommes engagés à la découverte de la clarté divine, — loin des gens qui meurent sur les saisons. 

もう秋だ! ーー しかし、なぜ永遠の太陽を懐かしむのか、もし私たちが神聖な光を発見するよう定められているならば、ーー 季節の上で死んでいく人々から遠く離れて。

ここでは、永遠と季節が対比され、季節は時間の流れを象徴すると考えてもいい。とすれば、小林の「流れる」という解釈は、訳として間違ってはいない。

さらに、「言葉の錬金術」の中で、この詩は、「永遠(L’Éternité)」の後に置かれている。
https://bohemegalante.com/2019/08/08/rimbaud-eternite/
詩人は永遠を見つけた後、再び、時間が流れる季節の中に戻ってきたのだ。

そして、城。
複数形の城をどのように理解したらいいのだろう?

複数形に置かれているということは、城は複数あることになり、不動の永遠の中にある唯一の城ではない。とすれば、季節の変化に応じて、一つあるいはいくつかの城があると考えてもいいだろう。
それらは、時間の経過とともに移ろい、失われていく。
としたら、城とは、現実の次元にある様々なものや感情などと考えることができる。

そして、現実の中では何一つ理想そのものであることはなく、欠点を持ち、誰しもいくつかの失敗をし、不完全な存在であるほかない。

そのような解釈に立つと、このリフレインは、永遠を見出した詩人が、現実世界に戻ったことの宣言であると受け取ることができる。

そこで彼は何を語るのか? 
すでに完了したこと。現在の状況。未来の予測。
時間の中に戻った詩人の語ることは、時間の推移に従っている。


J’ai fait la magique étude
Du bonheur, qu’aucun n’élude.

ぼくは魔法のような研究をした、
幸福に関して。その幸福から誰も逃れることはない。

詩人はまず、すでに完了した行為について語る。その行為とは、幸福の研究。
その研究が魔法のと形容されるのは、理性を超えた、あるいは合理的には理解できない、という意味だろう。
そして、誰一人、幸福を避けることはないと言う。

幸福については、ランボーはこの詩が書き付けられる直前の散文で、彼なりの説明をする。

Le Bonheur ! Sa dent, douce à la mort, m’avertissait au chant du coq, – ad matutinum, au Christus venit, dans les plus sombres villes :

「幸福」! その歯は、死に優しく、鶏が鳴くとき、ーー朝早く、キリストは来たれる、ーー 最も暗い街々の中で、ぼくにこんな風に告げていた。

「おお、季節や、おお、城よ!」は、幸福の歯のお告げなのだ。
そのお告げがなされるのは、鶏が鳴く時。それは、キリスト教のミサの中で、「朝早く、キリストは来たれる」とラテン語で唱和される時でもある。

では、幸福の歯とは何か? また、それが死に優しいとはどういうことなのだろうか?
それを推測するためのヒントは、直前の散文にある。

  Je dus voyager, distraire les enchantements assemblés sur mon cerveau. Sur la mer, que j’aimais comme si elle eût dû me laver d’une souillure, je voyais se lever la croix consolatrice. J’avais été damné par l’arc-en-ciel. Le Bonheur était ma fatalité, mon remords, mon ver : ma vie serait toujours trop immense pour être dévouée à la force et à la beauté.
  

  旅をし、脳髄の上に集められた数々の魔法をあちこちに拡散しなければならなかった。海をぼくが好きだったのは、汚れを洗い落としてくれるような感じがしたから。その海の上に、心を慰めてくれる十字架が立ち上がるのが見えた。ぼくは虹によって罪を宣告されていたのだった。「幸福」はぼくの運命だった。ぼくの悔悟だった。ぼくのウジ虫だった。ぼくの生は、力と美に捧げられるには、あまりに巨大すぎるのだろう。

詩人は、「幸福」が彼の運命であり、悔悟であり、ウジ虫だと言う。
ランボーらしい、理屈では理解できない、意味不明に思われる断言 ! 
わからない。
しかし、それと同時に、言葉の勢いによって思わず感じてしまう快感。
« Le Bonheur était ma fatalité, mon remords, mon ver. »
ランボーを読む醍醐味といえるだろう。

では、彼にとって「幸福」とは何か?

Iris carrying the water of the River Styx

海は人間の汚れを洗い流してくれると言うが、その汚れとは、虹によって断罪されたことから来ている。その前後関係は、断罪(J’avait été damné)が大過去、十字架が見える(je voyais)が半過去であることによって示されている。
そして、その十字架が心を慰めるものであるとすると、虹と十字架は対立的な関係にあることがわかってくる。
キリスト教からすると、虹は異教(ギリシアの神々への信仰)の象徴だといえるだろう。

異教徒であった「ぼく」は「永遠」の中にあり、「幸福」だった。従って、幸福であることを運命づけられていた。
しかし、キリスト教的な「時間」の中に戻ると「永遠」には決して達することができない。そこでの「幸福」は、悔やまれるものと感じられる。だからこそ、ランボーらしく、「幸福」に毒づき、価値のないもの、ウジ虫と罵る。
「幸福」の断面である力や美よりも、彼の生の方がずっと巨大ではないかと、虚勢を張ることさえする。

このように考えると、「永遠」と「時間」の二重性が、「幸福」を考える上での鍵となることがわかってくる。人間はその二つをどちらも生きている。
「永遠」において、「幸福」は運命付けられている。美と出会い、我を忘れる瞬間(extase)、時間は消え去り、絶対的な幸福を知る。そのような体験が、誰にもあるに違いない。
しかし、我に返り、時間の意識が戻ってくると、「幸福」は思い出でしかなくなる。手が届かないものであり、人間に悔いを感じさせる。

そして、ウジ虫と毒づかなければいられない時、「幸福」は人の心に噛みつく歯だと感じられるかもしれない。それが「幸福」の歯の意味ではないか。
そして、その歯は死に優しい。死は、人を時間から引き離し、永遠へと導くのだから。

誰も避けることのない幸福の魔法的な研究とは、こうした人間の心のあり方について、理性に従った思考とは反対の仕方で考えたということだろう。

その研究を終えた今、彼は幸福に挨拶をする。


Salut à lui, chaque fois
Que chante le coq gaulois.

幸福に挨拶する、
ガリアの雄鶏が鳴き声を上げる度に。

ガリアの雄鶏はフランスの象徴。
フランスはカトリックの国であり、フランスの雄鶏はキリスト教を連想させる

その連想は、この詩が告げられる前に、鶏が鳴く時が、キリスト教のミサで復唱される「朝早く、キリストは来たれる(ad matutinum, au Christus venit)」という、ラテン語の祈りの言葉と並列に置かれていたことからも確認される。

では、キリスト教において、鶏の鳴き声は、どのような意味を持っているのだろうか。
ペテロの否認がそれを教えてくれる。エピソードは、最後の晩餐の後から始まる。

最後の晩餐の後、オリーブ山に向かう途中で、イエスは弟子たちに向かって、「皆、私につまずくであろう」と予言する。ペテロに対しては「今夜、鶏が鳴く前に、三度私を知らないと言うだろう」と伝える。
これに対しペテロは、「あなたを知らないなどと決して言いません。」と断言する。

Georges de la Tour, Le Reniement de Saint Pierre

 この後、ゲッセマネの園でイエスが捕縛された際、弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去る。ペテロも一緒に逃げ去るのだが、指導者としての責任からか、イエスが拷問を受けている屋敷の中庭へ忍び込み、人々にまじって様子をうかがう。
 その時、大祭司の女中がペテロを見、「あなたもイエスと一緒だった」と言う。
 それに対して、ペテロは、「私は知らない。あなたの言うことが何の事かわからない」と否定し、その否定を三度繰り返す。
三度目の否定の直後、鶏が雄叫びを上げる。
 その声を聞いたペトロは、イエスの言葉を思い出し、身を投げ出して号泣する。

Georges de la Tour, Saint-Pierre rependant

ゴールの鶏が鳴き、キリストの到来を告げられる。その時、「幸福」に挨拶をする。その際、ペトロの否認が前提となっているとしたら、そのエピソードをどのように考えたらいいのだろうか。

ペトロの流した涙は改悛を意味し、それを受け入れるキリストの愛の深さと共に、信仰の道を示すと考えることもできる。
実際、ペトロはキリストの復活にも立ち会い、カトリック教会では、彼を初代のローマ教皇と見做している。
バチカンの中央に立つサン・ピエトロ(聖ペトロ)大聖堂は、ペトロの墓の上に建てられている。

それに対して、シャルル・ボードレールは、「ペトロの否認(Le reniement de Saint Pierre)」の中で、イエスを暴君として描き、最後の詩句でこう結論付ける。

Saint Pierre a renié Jésus… Il a bien fait !

聖ペトロはイエスを否認した。。。 よき行いだった!

ここに改悛はない。ボードレールにとって、否認は反抗であり、桎梏からの解放になる。

ランボーも、ボードレールに従い、改悛よりも反抗を選んだのではないかと考えてみたい。

毎朝、ランボーが目覚めるとき、「幸福」に挨拶する。
その挨拶(salut)は、「こんにちは」ではなく、「さらば」ではないのか。眠りという「永遠」で出会った「幸福」に対して、目覚めて「時間」の中に戻ったとき、別れを告げる。

そして、時間の流れの中にいるからこそ、未来のことを考える。


Ah ! je n’aurai plus d’envie :
Il s’est chargé de ma vie.

ああ、これからはもう欲望を持つことはない。
幸福がぼくの人生を引き受けたのだから。

もう欲望を持つことはないだろうと詩人は言う。その時の動詞は未来形(je n’aurai plus envie.)
その理由は、過去形の動詞(il s’est chargé)によって説明される。

まず最初の理由は、「幸福」が彼の生を引き受けたことにある。
時間的に考えると、すでにチャージが完了し、今「幸福」に挨拶していて、今後何も望むことはない、ということになる。

「幸福」の充電に関しては、より詳しい説明が、次の詩節で加えられる。

Ce charme a pris âme et corps
Et dispersé les efforts.

あの魔法の魅力が魂と肉体を捉え、
様々な努力を撒き散らしてしまったのだから。

魔法の魅力(chame)とは、魔法によって人や物を変形する力であり、チャーミング(魅力的)の語源となる言葉。
その力が魂と肉体を捉えたということは、詩人の身も心も「永遠」の中で「幸福」に満たされていたという意味に理解できる。

そうした中では、個人の意識的な努力は意味を持たなかった。
忘我(extase)においては、自己は世界と一つになり、絶対的な幸福の状態にある。その時に、世界から分離した「私」は溶け去っている。

時間の中に戻るとは、世界と一体化した自己が、世界と分離し、自己が主体となり、世界を客体と見做すことである。
そのことについて、ランボーはすでに、こんな風に書いていた。

「旅をし、脳髄の上に集められた数々の魔法をあちこちに拡散しなければならなかった。」

ランボーは、時間の流れの中に再び身を任せる。

Ô saisons, ô châteaux !

L’heure de sa fuite, hélas !
Sera l’heure du trépas.

Ô saisons, ô châteaux !

おお、季節よ、おお、城よ!

あれが逃げていく時は、ああ!
死の時になるだろう。

おお、季節よ、おお、城よ!

「幸福」の充電が完了したと感じている今、自信は、将来もバッテリーは保たれ、欲望を持つことはないと感じている。毎朝「幸福」にさらばと言い、「永遠」を否認する。

しかし、将来、「幸福」が逃げ去っていくときがあれば、それが死の時になるだろう、と。

では、その死は、全ての終わりを告げる、暗黒の時なのだろうか?

その問いに、リフレインが答えてくれる。
一つ一つの季節は過ぎ去る。永遠の夏の後には、衰退の秋が続き、全てが動きを止める冬が来る。
しかし、季節は循環する。冬の後には、再生の春がやって来る。

時間は過ぎ去って行くが、季節は永遠に循環する。
こうした視点では、時間と永遠は対立するものではなく、生の二つの側面に他ならない。
「おお、季節よ、おお、城よ!」
ランボーは、束の間と永遠が美の二つの側面であるとしたボードレール的な美を踏まえ、このリフレインを口にしたのだろう。


「言葉の錬金術」では、この詩の後で、次の散文が最後を締めくくっている。

Cela s’est passé. Je sais aujourd’hui saluer la beauté.

こうしたことが起こったのだった。今、ぼくは美に挨拶することができる。

「おお、季節よ、おお、城よ!」は、ランボーが美と挨拶を交わす、最後の段階に置かれた詩なのである。

Félix Régamey, Rimbaud et Verlaine

ここまで「おお、季節よ、おお、城よ!」の一つの解釈を提示してきたが、これが正しい理解の仕方というわけではない。
ランボーの詩は、解釈を限定する要素が極端に少なく、どのようにでも読むことができる可能性を持っている。

例えば、« Salut à lui, chaque fois / Que chante le coq gaulois »に関して、この詩が書かれた時、ランボーはヴェルレーヌと一緒にいたので、ガリアの鶏をヴェルレーヌと結び付ける。そして、« Il s’est chargé de ma vie »を、二人の性的関係と考え、ヴェルレーヌがランボーを満足させたと読み説く。« Salut à lui »は、そのヴェルレーヌへの挨拶。

性的な解釈を精神分析的と言い張り、「母音」に関しても、アルファベットの文字が女性に肉体を描いているなどと読み説くこともある。

こうした解読は、決して作品の意味を豊かにする方向には向かわない。意味していることは、解読した人間の性に対する脅迫観念にすぎない。

ランボーの詩的言語を理解するためには、解釈の自由が大きいだけに、まずは彼の想像力のあり方と、その記述の仕方を理解しておく必要がある。
そのための最もよい例は、「アマランサスの花の列」。
https://bohemegalante.com/2019/07/09/rimbaud-plates-bandes-damarantes/
ランボーが現実を前にして、どのように想像力を働かせ、言葉を連ねていくのか、生々しい現場に立ち会うことができる。

ランボー 「おお季節よ、おお城よ」 Rimbaud « Ô saisons ô châteaux… » 永遠から時間の中へ」への1件のフィードバック

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