ネルヴァル 『東方紀行』 ギリシアの島々で古代の神々を夢想する Gérard de Nerval Voyage en Orient キリスト教と古代の神々の争い

ジェラール・ド・ネルヴァルは、1842年の末から1843年の末にかけての約一年間、オリエントの国々に滞在した。
マルセイユから船に乗り、ギリシアを通りエジプトに到着。その後、シリアからトルコへと向かい、イタリアを経て、マルセイユに戻る。地中海をぐるりと回る長い旅。
その体験に基づき、手始めとして、1844年にギリシアの紀行文を発表した。

後に『東方紀行(Voyage en Orient)』に収められることになるその旅行記は、古代文明の中心地ギリシアの相応しく、古代の神々への思いを強く押し出している。
そのことは、フランス革命でキリスト教に対する激しい攻撃が行われた後の社会で、新しい宗教感情を模索する動きと対応していた。

そうした宗教感情のあり方は、日本の読者には縁遠いように思われる。
しかし、複数の神々を信じるのか、神はただ1人と考えるかと問われると、ネルヴァルの試みがすっと腑に落ちてくる。

複数の神と唯一の神

日本の宗教感情の中では、神様が数多くいるのが普通である。
ジブリ・アニメ「千と千尋の神隠し」において、八百万の神がお風呂に入りに来ると言われると、何となく安らぎを感じる。
それに対して、神は唯一絶対の存在で1人だけと言われると、威圧感を感じるし、違和感がある。

他方、キリスト教では、神はただ1人であり、信仰の対象は、常に唯一神に限られる。
神—精霊—イエスは三位一体。イエスは神の子として地上に33年間存在し、人類の罪を背負って十字架にかけられた救い主。
神以外は、聖母マリアも数多くの聖人たちも、人間にすぎない。

Hans Holbein le jeune, Le Christ mort

キリスト教世界の中に生きながら、一神教の神に息苦しさを感じ、疑問を抱いたとしたら、どうするだろう?
科学的な思考に立てば、実証的に証明できない神の存在を否定し、無神論者になるかもしれない。
しかし、宗教感情自体を否定するのでなければ、日本のような神々の存在を求めることになる。
ヨーロッパの場合であれば、多数の神が信仰されていたのは、古代ギリシア。キリスト教から見ると、異教(paganisme)ということになるが、ゼウスを頂点とした八百万の神々の世界だ。

古代ギリシア、そして古代ローマでも、パンテオンの神々が信仰の対象だった。その多神教の世界であるローマ帝国に、地中海の向こう側で生まれたキリスト教が入ってくる。当初は激しい迫害の対象となり、殉教者が数多く出た。
しかし、313年にはコンスタンティヌス1世によって公認され、他の宗教と同様の扱いを受けるようになる。
380年になると、テオドシウス帝によって国教と定められ、392年、キリスト教以外の信仰が禁止され、キリスト教がローマ帝国唯一の国教となった。

こうして、簡単に歴史を辿るだけで、キリスト教が古代世界で地位を確立するためには、多神教との戦いを勝ち抜く必要があったことがわかる。
逆の視点から見れば、古代ギリシア・ローマの神々の復活は、抑圧の対象になった「異教」が、キリスト教に対して反撃を仕掛けたということにもなる。

フランスでは、1789年の革命の際にキリスト教に対する攻撃が行われた。その後は今でも残っている。
教会を訪れると、破壊された跡が残っていたり、聖人像の顔が壊されたままになっていたりする。その多くは、革命時の破壊活動の名残りである。
その後、キリスト教復活の動きもあったが、多神教の神々への信仰を見直す動きも出てくる。例えば、ずっと行われていたカーニヴァルは、実は、古代の神に対する信仰の儀式だったとして、異教を認める方向に動き出すこともあった。

ジェラール・ド・ネルヴァルのオリエント旅行は、キリスト教によって抑圧された神々の世界を巡る旅でもあった。

パンテイスム(汎神論)と自然

ネルヴァルは、オリエントに旅立つ2年前の1840年、ゲーテの『ファウスト』(第3版)の翻訳を出版し、序文の中で、その作品を「現代のパンテイスム(panthéisme moderne)」と定義した。
訳者であるネルヴァル自身、「神は全ての中にいる(Dieu est dans tout.)」という、 汎神論(パンテイスム)に親近感を示している。

別の言葉で言えば、一神教のキリスト教ではなく、全ての中に神の存在を見る「異教」的な信仰に傾いていた。
ただし、キリスト教を全面的に否定するのではなく、キリスト教の神も数多くの神々の1人であるとする、18世紀後半から続く一つの宗教思想を好んだ。
「全てを否定する」のではなく、「全てを信じる」思想。

そんな文学者がギリシアの旅行記を書けば、必然的に、過去の神々に言及することになる。
そのためには、現実を鋭く見つめるよりも、目を閉じ、夢見がちになる方がいい。

神話的な記述をする場合には抒情的な文体を使い、現実的な記述では散文的な文体を使う。
その二つの文体の間には、「ここまでが私の夢。。。そして、これからは目覚めだ!(Voilà mon rêve… et voici mon réveil !)」といった断り書きを入れ、違いを際立たせる。

シロス島

Ano Syros (colline de gauche) et Ermoupoli

ネルヴァルは、エーゲ海のキクラデス諸島にあるシロス島と、イオニア諸島のシテール島を訪れた様子をいかにも現実の紀行文のように書いている。
しかし、どちらの島も実際に訪れた形跡はなく、当時読まれていた旅行記を参考にしながら、空想の紀行文を作り上げたのだった。

その架空の旅行記の中で、キリスト教と古代の神々の戦いに言及する。
シロス島では、自分をキリスト教徒であるとし、古い神々との葛藤を思い描く。

Et l’on me guide à grands cris vers l’église de Saint-Georges, qui domine la ville et la montagne. Catholique ! Vous êtes bien bons, mes amis ; catholique, vraiment je l’avais oublié. Je tâchais de penser aux dieux immortels, qui ont inspiré tant de nobles génies, tant de hautes vertus ! J’évoquais de la mer déserte et du sol aride les fantômes riants que rêvaient vos pères, et je m’étais dit, en voyant si triste et si nu tout cet archipel des Cyclades, ces côtes dépouillées, ces baies inhospitalières, que la malédiction de Neptune avait frappé la Grèce oublieuse…

人々は大きな声を出しながら、私を聖ジョルジュ教会の方に導いて行く。教会は、街と山を見下ろしている。私はカトリック! 我が友たちよ、あなた方はとてもいい人たちだ。カトリック、本当にそのことを忘れていた。それまで、私は不死の神々のことを考えていた。あれほど多くの高貴な天才たちと、あれほど多くの高い美徳を生み出した神々のことを! 荒れ果てた海と荒涼とした地面から、あなた方の祖先が夢見た微笑ましい亡霊を呼び出していた。そして、何も残されていず、酷く悲しげなキクラデス諸島全体、全てが奪い去られた海岸、人を寄せ付けない湾を見ながら、こう呟いていた。ポセイドンの呪いが、忘恩なギリシアを襲ったのだ。

フランスから来た旅行者は、シロス島の中を散策しながら、土地の人々に囲まれ、自分がカトリック教徒であることを思い出す。

彼が目の前にしているギリシア人たちは、実を言えば、古代の神々を信じているわけではなく、キリスト教の一つの教派であるギリシア正教会の信者。しかし、ネルヴァルにとって、キクラデス諸島は古代の神々の地であり、カトリックと対比されるのは、古代ギリシアの神々だ。

彼は、そこで、不死の神々(dieux immortels)のことを考えていたという。人間は死すべき存在(mortel)なのに対して、神は不死の存在(immortel)。
その神々が姿を消し、島々は荒れ果ててしまっている。
シロス島の山の頂上には、キリスト教の教会があり、全てを見下ろし、支配している(dominer)。

Poséidon de Milos

なぜ、こんなに荒れ果ててしまったのか?
その理由は、人々が古代の神々への信仰を忘れ、キリスト教の神を信じるようになったから。忘恩なギリシアとは、そのことを指している。
そのために、海と地震の神であるポセイドン(ラテン世界ではネプチューンと呼ばれる)が呪いをかけたのだと、旅行者は推測する。

そして、彼は目に入る自然の様子を、次の様に描写する。

La verte naïade est morte épuisée dans sa grotte, les dieux des bocages ont disparu de cette terre sans ombre, et toutes ces divines animations de la matière se sont retirées peu à peu comme la vie d’un corps glacé.

緑色をした水の妖精は、洞窟の中で疲れ果て、命を落とした。小さな森の神々は、影のないこの土地から消え去った。物質の全ての聖なる生命力が、徐々に消滅していった。凍りついた体から命が引いていくように。

神々が去った後の自然は、命を失い、死に絶えたようになる。
逆に言えば、古代の神々は自然の中に住み、自然に命を与えていたことになる。

美しいフランス語で記されたこの一節は、自然への信仰がどのようなものか、逆接的に読者に伝えている。

次の一節では、大神パン(全)の死が語られる。

Oh ! n’a-t-on pas compris ce dernier cri jeté par un monde mourant, quand de pâles navigateurs s’en vinrent raconter qu’en passant, la nuit, près des côtes de Thessalie, ils avaient entendu une grande voix qui criait : « Pan est mort ! » Mort, eh quoi ! lui, le compagnon des esprits simples et joyeux, le dieu qui bénissait l’hymen fécond de l’homme et de la terre ! il est mort, lui par qui tout avait coutume de vivre ! mort sans lutte au pied de l’Olympe profané, mort comme un dieu peut seulement mourir, faute d’encens et d’hommages, et frappé au cœur comme un père par l’ingratitude et l’oubli !

おお! 息絶えようとする世界が投げかけた最後の叫びを、人々は理解しなかったのだろうか。青ざめた船乗りたちがこう語った際に。テッサリアの海岸沿いを、夜、航海している時、大きな声がこう叫ぶのが聞こえてきた。「パンが死んだ!」と。死んだ。なんということだ! 彼、飾り気のない陽気な人々の友、人間と大地の肥沃な結合を祝福した神! その神が死んだ。彼のおかげで、全てのものが生きていたのだ。戦うこともなく、冒瀆されたオリンポス山の麓で死んだ。一体の神がただたんに死んでいくように、死んだ。香もたかれず、崇められることもなく、父親が忘恩と忘却によって心を打ち抜かれるように!

Pan

ここで旅行者は、客観的な旅の記述を離れ、完全に夢想の世界に入り込んでいる。
そして、「パンが死んだ」という有名な言葉を思い出し、古代のオリンポス山に想いを馳せながら、神の死について抒情的な文を綴る。

パン(Pan)は、「全て」を意味し、自然の神(divinité de la Nature)であり、羊飼いと羊の群れの守り神。
しばしば、下半身が四足獣で、頭にも山羊のような角を持つ姿で描かれる。

帝政ローマの著述家プルタルコスによれば、キリスト教が古代の神々の信仰(異教)に勝利したとき、エーゲ海に「偉大な神パンが死んだ!」という声が鳴り響いたという。
従って、パンの死は、異教の終わりを象徴していることになる。

ネルヴァルは、シロス島の紀行文の中で、パンの死を頂点とする神々の死が、自然の生命力の消滅であると考え、荒廃したキクラデス諸島の様子に言及しながら、失われた自然の美を読者に感じさせる。

読者は、緑色をした水の妖精、小さな森の神々、物質の全ての聖なる生命力に満ちた自然を惜しみ、古代の神々への信仰を、一神教の神に対する信仰よりも、好ましいと感じ始めるかもしれない。
その点については、ヨーロッパの読者よりも、日本的な感性を持った読者の方が、理解は容易だろう。

シテール島

旅行者が訪れる二つ目の島は、シテール島。
では、なぜネルヴァルは、シロス島の次の訪問先として、シテール島を選んだのだろうか。
その鍵は、愛と再生にある。

Hypnerotomachia Poliphili, Alde Manuce de 1499

シテール島で旅行者が目的地とするのは、愛の女神ヴィーナスの神殿跡。
その行程を描きながら、ネルヴァルは、ルネサンスの時代にイタリアで書かれた神秘的な愛の物語『ポリフィロの夢(Hypnerotomachia Poliphili)』に基づいて、ポリアとポリフィルス(ポリアを愛する者という意味を持つ名前)のプラトニックな恋愛を物語る。

『ポリフィルスの夢』に関しては、1843年に、シャルル・ノディエによって、フランチェスコ・コロンナ(Franciscus Columna)を作者とする物語が発表されていた。

シテール島は、18世紀の画家アントワーヌ・ヴァトーの「シテール島の巡礼」も連想させる。
この絵画の中でもヴィーナスの像が描かれ、優雅な服の男女が愛の巡礼をする姿が見られる。

Antoine Watteau, le Pèlerinage à l’île de Cythère

ネルヴァルは、1844年1月27日になくなったばかりのノディエの名前を引きながら、シテール島の紀行文の中で、彼自身の視点からポリフィロスとポーリアの愛の物語を語っていく。

Vénus de Milo

ネルヴァルの視点というのは、2人の恋人が「純粋な愛の忠実な使徒(fidèles apôtres de l’amour pur)」というもの。
より具体的に言えば、2人の信仰する真の神々(les vrais dieux)とは、「才能としては異教的(païens par le génie」であり、「心ではキリスト教徒(chrétiens par le cœur)」だという。

Dès lors, imitant les chastes amours des croyants de Vénus-Uranie, ils se promirent de vivre séparés pendant la vie pour être unis après la mort, et, chose bizarre, ce fut sous les formes de la foi chrétienne qu’ils accomplirent ce vœu païen.

それ以来、天上のビーナスの信者たちの清い愛を模し、2人は生きている間は離れて暮らすことを誓い、死後に結ばれた。奇妙なことに見えるが、キリスト教の信仰の形の下で、異教の誓いを成し遂げたのだった。

2人の愛は、キリスト教とヴィーナス信仰の融合を秘めていることになる。

その愛を、ポリフィルスが書物に認め、後世に残すことになった。

Cependant Polyphile écrivait et léguait à l’admiration des amants futurs la noble histoire de ces combats, de ces peines, de ces délices. Il peignait les nuits enchantées où, s’échappant de notre monde plein de la loi d’un Dieu sévère, il rejoignait en esprit la douce Polia aux saintes demeures de Cythérée. L’âme fidèle ne se faisait pas attendre, et tout l’empire mythologique s’ouvrait à eux de ce moment.

ポリフィルスは、こうした戦い、苦しみ、甘美な事々の高貴な物語を執筆し、その物語は後世の恋人たちの賞賛の的となった。彼が描いたのは、魔法にかかったような夜だった。厳格な一神教の神の法に満ちたこの世を逃れ、心の中で、シテーレ(アプロディーテ)の聖なる住まいにいる優しいポリアのもとに向かった。忠実な魂が彼を待たせることはなかった。その瞬間から、神々の住む世界全体が2人の前に扉を開いた。

Aphrodite Anadyomène

地上では結ばれることのないポリアとポリフィリスは、精神の中で、シテール島に赴く。
その島は、愛の女神アプロディーテ(シテーレ)が波の泡から生まれた後、最初に向かった場所。
ヴァトーが描く愛の巡礼に相応しい島だといえる。

そこで、2人の前には、ギリシア神話に登場する神々の全世界(tout l’empire mythologique)が開かれる。
そして、その様子が、自然=神々の再生として、生き生きとした姿で描き出されることになる。

Les fontaines commençaient à sourdre dans leurs grottes, les rivières redevenaient fleuves, les sommets arides des monts se couronnaient de bois sacrés ; le Pénée inondait de nouveau ses grèves altérées, et partout s’entendait le travail sourd des Cabires et des Dactyles reconstruisant pour eux le fantôme d’un univers. L’étoile de Vénus grandissait comme un soleil magique et versait des rayons dorés sur ces plages désertes, que leurs morts allaient repeupler ; le faune s’éveillait dans son antre, la naïade dans sa fontaine, et des bocages reverdis s’échappaient les hamadryades.

洞窟の中では、泉が湧き出し始めていた。小川が大きな河となり、山々の荒れた頂には神聖な森が覆われていた。ピニオス川は、荒廃した海岸線を再び水で浸していた。至るところで農耕と豊穣の神々や魔法の力を持つ神々の作業が音もなく広がり、一つの宇宙の亡霊が彼等自身のために再建されていた。ヴィーナスの星、金星が魔法の太陽のように大きくなり、黄金の光を荒れ果てた海岸の上に投げかけていた。その海岸を死者たちが満たすのだ。牧神が洞窟で目覚め、水の精は湖の中で目を覚ました。緑色の小さな森からは、木の精たちが抜け出していた。

Émile Bin, Le Bûcheron et l’Hamadryade

泉が蘇り、水は小さな流れから大河になり、山では森が再生する。
そこでは、農耕と豊穣の神々(Cabires)や魔法の力を持つ神々(Dactyles)が活動を始め、自然と同時に神々も再び姿を現す。
空には愛の女神ヴィーナスの星である金星が輝き、金色の光で自然全体を染める。
牧神(faune)や水の精(naïade)、木の精たち(hamadryades)も、再び目を覚ます。

こうした自然の再生は、ポリフィロスとポリアが、キリスト教の形式を踏襲しながら、古代の神々への信仰を甦らせたことによる。

Ainsi la sainte aspiration de deux âmes pures rendait pour un instant au monde ses forces déchues et les esprits gardiens de son antique fécondité.

こうして、2人の純粋な魂の神聖な願いが、一度は朽ち果てた力と、古代の豊かさの守護神たちを、ひと時の間、世界に返したのだった。

Botticelli, La Naissance de Vénus

シロス島の旅行者が目撃したのは、キリスト教と異教の対立の結果、古代の神々が破れ、自然が荒廃し、神々が姿を消した姿だった。
シテール島では、『ポリフィロスの夢』を通して、ポリアとポリフィロスの愛の巡礼によって甦る自然と古代の神々の姿が描かれ、「再生(ルネサンス)」の夢が語られる。

ジェラール・ド・ネルヴァルは、1844年に発表したギリシアの紀行文を通して、キリスト教と古代の神々の葛藤の歴史に基づきながら、自然の生命と神々の生命は同一のものであることを示している。
植物にも、鉱物にも、海にも、湖にも、全てのものに生命が宿り、そこには神がいる。
全て(パン)に神が宿り、全て(パン)が信仰の対象となる。
とすれば、パンテイスム(全てへの信仰:汎神論)が自然全体を信仰の対象とすることに不思議はない。

八百万の神々を漠然と信じる日本的な感性にとっては、こうしたネルヴァルの宗教観は親しみがあり、ヨーロッパの読者よりもすんなりと理解できるのではないだろうか。

ネルヴァル 『東方紀行』 ギリシアの島々で古代の神々を夢想する Gérard de Nerval Voyage en Orient キリスト教と古代の神々の争い」への3件のフィードバック

  1. Satou Satou 2020-10-26 / 01:34

    ネルヴァルについて探していてたどり着きました。
    対訳の形で書いてくださってありがとうございます。
    そして、こんなすごいブログを作成しているあなたは何者なのでしょう。。
    主義に反しなければ、プロフィール欄を作っていただけると嬉しいです。
    単なる好奇心ですがどんな方がどのような道をたどって
    こんな素晴らしいものを書こうと思い立ったのか知りたく思いました!

    いいね: 1人

    • hiibou 2020-10-26 / 07:20

      当ブログに対して、好意的な評価をしてくださり、ありがとうございます。
      私のプロフィールですが、職場は大学で、フランス文学や美術に触れる喜びを伝えることを主眼としてやってきました。
      その準備となるノートを、文章にしてアップしています。
      フランス文学の部分では、フランス語を読み、理解していただくことを主眼にしています。日本語は、翻訳というよりも、フランス語を理解するための補助として付けています。解説を読みながら、フランス語のキーワードを覚え、自然にフランス語の文学言語に親しんでいただくこと、最終的には、文学的、美術的、音楽的な「美」を感じていただくこと。そうしたことを目指しています。

      いいね

  2. Satou Satou 2020-10-26 / 19:49

    大学の授業内容だからこんなにひとあじもふたあじも違う読み応えなのですね。

    私は原語のままの作品の美しさを感じ取る感覚が最近微弱ながらも芽生えてきたので、
    対訳と解説のある文章を探していました。
    貴ブログの、抒情に寄りすぎない文体と解説が心地よいです。
    こんなに素敵なものを公開してくださってありがとうございます。
    最近寒いのでお体にお気をつけてお過ごしください。

    いいね: 1人

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