プラトン 美を愛する者 L’Amoureux du Beau chez Platon 

プラトンは肉体を魂の牢獄と考えた。
魂は天上のイデア界にあり、誕生とは、魂が地上に落ちて肉体に閉じ込められることだとされる。
この魂と肉体の関係が、プラトンによる人間理解の基本になる。

それを前提とした上で、プラトンにおける美について考えてみよう。

天上の世界にいる時に美のイデアを見た魂があり、その記憶は誕生後も保持される。
地上において美しい人や物を目にすると、天上での記憶が「想起」され、それを強く欲する。
その際、感性によって捉えられる地上の美は、天上で見た美のイデアを呼び起こすためのきっかけとして働くことになる。

従って、プラトン的に考えると、ある人や物を見て美しいと感じるとしたら、それはすでに「美」とは何かを知っているからだ。逆に言えば、「美のイデア」を見たことがなければ、地上において美を求め、美を愛することはないということになる。


魂について、プラトンは「馬車の比喩」を用いて説明する。(『パイドロス』)

魂には3つの部分があり、御者と二頭の馬に分けられる。
その馬には翼が生えている。

神々の馬車の馬は二頭とも高貴であり善良。天空を自由に駆け回ることができる。
人間の馬車に関しては、一頭の馬は姿形もよく、善良で、御者の言うことを忠実に実行する。
もう一頭の馬は姿が歪み、両目は血走り、気性は粗野で、御者の命令を聞かない。

天上世界で、神々の馬車は、天球の外に位置する「真理の野」にある様々なイデアを楽しむために、天球の頂上へと昇る。
その後を追い、人間の馬車も「真理の野」を目指す。
しかし、悪しき馬が御者の命令に従わず、頂上までなかなか達することができない。
その中で、ある馬車は、何とか悪い馬を御し、天球の外に首を出し、イデアを垣間見ることができる。
別の馬車は、他の馬車と衝突し、翼を傷つけたり折ったりしながら落下し、イデアを見ることができずに終わる。

ここでわかることは、人間の中でも、生まれる前、つまり肉体に閉じ込められる前に、美のイデアを見た魂もあれば、見たこともない魂もあることになる。
「真理の野」で美のイデアを見た魂は、白い馬だけではなく、黒い馬も御者の言うことを聞き、神々の列の後をついて行くことができた馬車。
イデアを見ることが出来なかった魂は、黒い馬の力が強く、御者のコントロールが利かず、神々の隊列から落後してしまった馬車。
この二つの馬車の違いが、地上における人間の行動に大きな違いを生み出す。


美のイデアを見たことのある魂を持つ人間の中で、地上においてもその記憶をしっかりと留めている人々がいる。
そうした人々は、地上の美しい人や物を見ると、美のイデアを「想起」し、天上の美に憧れる。

愛する人の美しさを目にし、最初は畏敬の念を感じ、異常なほどの汗をかき、熱が出てくる。視覚を通して受け入れた「美のうるおい」が、魂の翼を固めていた蝋を溶かす。
その翼を使い、地上を離れ、天上に羽ばたきたいという激しい欲望に捉えられる。
そのような状態で常に美を求め、地上のことをなおざりにして暮らす。

地上のことにしか関心を持たない多くの人々は、愛する対象が目に入った時、その対象に近づき、肉体的な快楽を得ようと願うが、美そのものを求めることはしない。
彼らは「真理の野」で美のイデアを見たことのない魂の持ち主であり、粗野な馬を制御することができない。

そして、彼らの目からすると、地上のことをなおざりにして、美のイデアを探す人間は、頭がおかしいように見え、嘲笑の的になる。ボードレールの詩で歌われるアホウドリのように。
https://bohemegalante.com/2020/11/20/baudelaire-albatros-portrait-poete/
プラトンはそうした状態を、「狂気の4番目の形」と呼び、最も優れた狂気だと考えた。
その狂気とは、美のイデアへの愛であり、常に美を求める心持ちに他ならない。


日常生活の中で小さな美を見出し、好みの絵画と出会い、音楽の美しさに心を打たれ、文学作品の何らかの言葉の連なりを美しいと感じることがあるとしたら、私たちはプラトン的な「狂気」に捉えられているのかもしれない。
とすれば、私たちの魂の馬車は、「真理の野」で美のイデアを見たことになる。

プラトン的な「美を愛する者」は、一般的な社会の中ではたとえ異邦人だとしても、幸福を知る者といえるだろう。