モンテーニュ 全ては変化する 1/2 動く「私」を吟味(エセー)する

ミッシェル・ド・モンテーニュは16世紀後半、フランスが宗教戦争によって大混乱している時代、人間のあり方について新しい視点から考察した思想家。
彼の著作『エセー』は、ルネサンスの時代精神が変化し、調和した円が楕円へと形を変え始めた時代の精神を反映している。

円から楕円に。その変形は、芸術的な次元では、ルネサンス的美からバロック的な美への移行を表す。バロックとは「歪んだ真珠」の意。

Bernini, Le Rapt de Proserpine

建築でも絵画でも、視覚は永遠を捉えた静止を理想とするのではなく、躍動感を求め始める。対比が生まれ、明暗が強調され、感情表現が強く打ち出される。
音楽でも、調和を重視したポリフォニーから、感情を込めて歌詞を歌うモノフォニーに移行した。世俗的なシャンソンやマドリガーレだけではなく、宗教的なモテットでも、同様の傾向が見られるようになる。

ルネサンスにおいて「人間の価値」が発見され、その価値は理想像として表現された。ラブレーの「テレームの僧院」に見られるユートピアがその例といえる。
バロックの時代には、刻々と過ぎ去る時間の中の人間と世界の動きに焦点が当てられる。

そうしたバロックへの移行が始まりつるある時代、モンテーニュは、彼自身を実験材料に使い、「人間の変わりやすさ」が引き起こす様々な現象を考察し、思いついたことを書き記した。『エセー』はその記録だといえる。

テーマは多岐に渡る。悲しみ、噓、恐怖、幸福、友情、想像力、節制、教育、異文化(新大陸)、運命、孤独、睡眠、言葉の虚しさ、匂い、祈り、年齢、酩酊、良心、親子の愛情、虚栄心、信仰、怒り、後悔、人相、経験、等々。

「私は存在(être)を描かない。私は移り変わり(passage)を描く。」というモンテーニュが、こうした諸問題について行った考察は、21世紀の読者にとっても大変に魅力的だ。
彼は答えを教えてくれるのではない。読者が自分で考えるように導いてくれる。

Château de Montaigne

ミッシェル・ド・モンテーニュは、1533年、ボルドー近郊にあるモンテーニュ城で生まれた。
裕福な商人だった祖父が貴族の称号を買い取り、父親はボルドー市長を努めるといった環境の中で、モンテーニュには生まれた時から人文主義的な教育が施された。とりわけ、6歳になるまで、彼の周りの人々はラテン語しか使わなかった。
その後、法律を学び、21歳から16年の間、ペリゴールやボルドーの高等法院に勤める。
1568年に父が亡くなると、1570年には仕事を止め、『エセー』の執筆に取りかかる。

しかしその後も、シャルル9世やアンリ3世の要請を受け、侍従として宮廷に出仕することがあった。その二人の王はカトリック。プロテスタントのアンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ4世)も、モンテーニュに侍従となることを要請することになる。
モンテーニュ自身の家族もカトリックとプロテスタントに分かれ、時代は宗教戦争(1562-1598)のまっただ中。そうした混沌とした時期、彼は中庸を保ち、どちらからも距離を保つ姿勢を貫いた。

1580年、『エセー』2巻を出版。その後、結石の治療のため、温泉を求めてドイツ、イタリアなどを旅行した。
しかし、1581年に、市長に選出されたためボルドーに戻り、1585年までその職に留まる。

その間もずっと『エセー』に手を加え、1588年、加筆した初版に第3巻を加え、3巻本として出版する。
常に変化することを意識しているモンテーニュは、晩年まで自書への書き込みを行い、1592年の死の時まで継続する。
1595年、その加筆に基づき、それ以前を改訂した新しい版が出版された。

垂直運動から水平移動へ

モンテーニュの最も基本的な思想は、『エセー』の最初の章「色々な方法によって、同じような結果に至る」(I, 1)に記された、ほんの短い一言に要約される。

人間というものは、驚くほど空虚で、矛盾し、揺れ動く被験者(sujet)である。

被験者と訳したsujetという言葉は、主題、人間、主観、主語など様々な意味がある。モンテーニュは自分自身を実験材料にして、人間や人間の生きる世界を様々に考察する「試み(エセー)」を行ったといえ、自分を被験者としたのだといえる。

彼の認識では、人間は一定せず、変わりやすく、常に動いている。人間だけではなく、世界も変化し、永遠に留まることはない。
こうした認識は、全てが「動き」の中にあるという時代意識の反映でもある。

ルネサンスの時代、神、天使、人間、動物、植物、鉱物という序列が考えられ、人間はその中で唯一、上昇も下降も可能な自由な存在であり、その自由こそが人間の偉大さであるという議論がなされた。
その場合、神の永遠が究極の理想であり、天使たちの天上界に響く「天球の音楽」のハーモニーが、芸術の目指すところだった。
実際、ルネサンス芸術は調和し、永遠の美を理想とした。
従って、ルネサンス精神が動きを求めるとすれば、永遠へと向かう「垂直方向」への運動だった。

バロックでは、形や明暗の対比によって動きが生み出されるが、その動きは上に向かうよりも、「水平方向」に進む。
しかも、直線はひねられ、曲線を描き、螺旋にもなる。全てが厚みを持ち、盛り上がり、力強い躍動感が生まれる。

ルネサンス芸術とバロック芸術を視覚的に比較すれば、その対照がすぐに目に飛び込んで来る。
建築で言えば、例えば、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラとローマのサン・カルロ・アレ・クアトロ・フォンタヌ。

ラファエル「ベルヴェデーレの聖母」とリューベンスの「レウキッポスの娘たちの略奪」を並べてみれば、静と動の違いが一目でわかる。

絵画史から見ると、ルネサンスの静がバロックの動へと向かう中間地帯に、マニエリスムがある。
そこでは、ルネサンス的な静止画像が今まさに動き始め、真正面から見た画面が斜めになり、円が楕円に引き伸ばされていく様子が捉えられている。
レオナルド・ダ・ヴィンチとティントレットの描いた2枚の「最後の晩餐」は、二つ時代の動きの違いをはっきりと示している。

ルネサンスにおける理想は、この世には存在しない永遠の世界であり、永遠を求めて上昇する動きの終局点では不動になる。全てが均質で、静謐な調和の世界。
それに対して、バロック的な世界では、運動は天上に向かうのではなく、地上に留まり、水平に伸びる。ぶつかれば曲がり、渦を巻き、歪む。その動きは止まることがなく、全ての存在に躍動感を与える。

全てが動き、変化すると考えるミッシェル・ド・モンテーニュは、ルネサンスからバロックへと移行する時代の思想家であり、その動きは水平方向に向かう。
彼の思考は常に現実の次元に留まり、考察の対象は天上の神ではなく、大航海時代に発見された新大陸の住民に向かう。
宗教の問題を扱うときにも、信仰を否定することはしないが、信仰を知性によって証明することはできないとする。理性は人間的な次元の出来事に適用されるのであり、水平方向の事象を解明するのに相応しい。
モンテーニュの思考は地上の事象に留まり、人間を超えた次元に位置する信仰を、理性によって証明することはできないと考える。

エセー 試み、実験し、検証する

モンテーニュが題名に選んだ『エセー(Essais)』は、「試す、試験する(essayer)」という動詞に由来し、物事を検証し、確認し、その結果について考察する過程と結果を書き記した書物だと考えることができる。

それまでの教育では、大量の知識が与えられ、それをストックすることが求められた。学ぶことは覚えることだったといってもいい。
とりわけ信仰に関して言えば、教会やソルボンヌ神学部の解釈が絶対的な権威であり、それに対して疑問を挟む余地はなかった。正しい答えを覚えるだけ。自由に聖書を読み、自分で解読することは認められなかった。
文法、修辞、倫理の3学、算術、幾何、天文、音楽の4科からなるリベラル・アーツにしても、知識の量は膨大であり、その知識を積み上げることが求められていた。
学ぶ者が自分の理性を使い、論理的に検討する余地はなかった。

それに対して、モンテーニュは、「検討すること」を彼の読書の中心に置いた。
後の時代に行われる科学の実験のように、客観的に現象を観察し、分析し、考察して、結論を引き出そうとする。
初めから結論があるのではない。前提となる事柄を検討し、様々な事例を集め、論理的に分析し、自分なりの考えをまとめる。
その意味で、モンテーニュの試み=エセーは、17世紀以降の合理的な思考の出発点になったと言うことができるだろう。

では、何を思考実験の対象とするのか?
その答えは、最初に付けられた「読者に」の中に記されている。

私が描くのは、私自身だ。私の欠点も自然な姿も、人間としての尊厳が許す限りの範囲で、ありのままに読んでもらうことになる。私がもし自然の法則の穏やかな自由の下で今でも暮らしているあの住民たちの中で生きているとしたら、喜んで、この本の中で余すところなく、裸の姿で、私の全てを描いたことだろう。このように、読者よ、私自身がこの本の材料なのだ。だから、あなたが、これほど軽薄で虚しい主題(sujet)のために時間を使うのは、理性的なこととはいえない。

実験対象は「私」。
それは、「私」がこの本の「材料(matière)」であると明記され、「主題(sujet)」であると繰り返されていることからも理解できる。

そして、「私」という実験対象=主題は「軽薄で虚しい」ものだと言う。
その虚しさには、2つの意味が込められている。

A.
人に語るに値する「私」、あるいは書物の主題となるべき「私」とは、社会的な役割を担った「私」だというのが一般的な考え方だった。モンテーニュ自身の場合であれば、王の侍従やボルドー市長という役職、あるいは、文法家、詩人、法律家。そうした役割を果たしている時の経験談であれば、公式の歴史の一部として記憶に留められる価値がある。
しかし、自然でありのままの振る舞いや感情の動きは、家族に知ってもらうくらいの意味しかない。

B.
「私」も世界も変わりやすく、今感じたことが次の瞬間には違う感情になっている。時と場所が違えば、矛盾したことを言う可能性もある。
「後悔について」(III, 2)という章の冒頭でモンテーニュは、世界や「私」について、次の様に言う。

世界は永遠のブランコにすぎない。そこにある全てのものは、絶えず動いている。大地、コーカサス山の岩、エジプトのピラミッドもだ。それらは、世界全体の動きの影響を受けると同時に、固有の動揺によっても動いている。一定と思われるものさえ、微弱な動きをしている。私は自分の研究対象(=私)を固定することができない。自然に酔っ払っているように、ふらふらとよろめいている。そうした状態にある対象を捉え、あれこれ考える。私は存在を描くのではない。私は移り変わりを描く。時代ごととか、人々が言うように七年ごとの移り変わりではなく、一日ごと、一分ごとの移り変わりだ。

ヨーロッパの文化では、恒常性や永遠に価値が置かれていた。イデアや神を絶対的な存在と見なし、時間の中で推移する現実の虚しさを嘆いた。時間の経過とともに失われるものに価値を見出すことはなかった。

モンテーニュはそうした思考を逆手に取り、あえて価値のない「私」を研究対象にすると言う。
世界が動き続け、「私」はその動きの影響を受けながら、固有の動きもする。その状態を、ちょっと冗談めかして、自然な酩酊状態と呼ぶ。

描く対象が「存在(être)」ではなく「移り変わり(passage)」という宣言は、モンテーニュの興味の対象が、天上ではなく地上にあることを示している。
実験の対象として「私」を選んだのは、自分のことを一番よく知っているからだが、それと同時に、「一人一人の人間が、自己の中に、人間の条件全ての形態を含んでいる」(III, 2)からである。

「私」という研究対象の虚しさを強調するのは、モンテーニュの興味が現実にあり、現実における人間のあり方を解明することだったからに他ならない。

歴史との対話

モンテーニュは、移り変わる「私」をどのように実験(エセー)するのか?
彼は実験方法として、対話を用いる。その中でも、最も有益なのは書物との対話。

「子供の教育について」(I, 26)の章には、世間の人々の交わりも重要だが、それ以上に、「書物の記憶の中にしか生きていない人々」と歴史を通して親しく交わることが「計り知れない果実をもたらす研究」である、と記されている。

『エセー』の最初の形は、単なる読書ノートだったと考えられる。ギリシア、ローマの詩人や作家の作品を読み、メモをする。
ただし、メモだけでは、事柄を覚えるだけになってしまう。
「暗記は知識ではない。」(I, 26)
カルタゴが滅んだ年、ハンニバルやスキピオの性格、マルケスがどこで死んだのか等といった事実を覚えることは、何かを学ぶことではない。
大切なことは、なぜかを考え、判断することだとモンテーニュは強調する。
マルケスが死んだ場所が、彼の行いに相応しくないのか? その理由を考えることが大切なのだ。
必要なのは、「史実を覚えることではなく、判断すること。」(I, 26)

モンテーニュが子供の教育として論じている内容は、彼の読書の方法に他ならない。
書かれていることをただメモするだけではなく、興味のあることについて自分なりに考え、本の余白やノートに書き付ける。そのことは、覚えるだけではなく、考え、判断することにつながる。

その際、読者である「私」は一定ではない。従って、感想や意見が変わることもある。矛盾した考えを抱くこともある。
そうした違いも「移り変わり」の現実を反映するものであり、否定的に捉えることはない。
ある時に思ったことが、別の時には違うように感じられる。人の感情も思考も、時と場所によって違うことがあって当然である。なぜなら、全ては動いているのだから。

モンテーニュの思考の柔軟性がこうして生まれてくる。
一般的には「懐疑主義」と呼ばれたりするが、疑うことは、判断を停止することではない。それぞれの状況の中で、正しいか間違っているかという判断はありうる。
モンテーニュが主張するのは、一つの判断には前提や根拠があり、その前提や根拠に基づいて判断が行われているということを自覚する必要性である。

新大陸の住民はヨーロッパから見れば野蛮な人食い人種に見える。しかし、新大陸の住民の視点に立てば、フランスの王族の豪華な衣裳は滑稽に見えるかもしれない。
立場によって判断も違ってくる。全てが動くように、何事も「相対」的なのだ。

そのような見方をすれば、絶対はない。一つの視点からの絶対があるとして、別の視点の絶対もある。根拠や立場を考慮に入れると、どちらの判断も可能になる。
宗教戦争の時代においてモンテーニュが「中庸」を主張したのは、どちらの立場も理解した上で、極端に走らないことが争いを避ける道であることを示そうとしたからだ。

こうした考察を読者をしながら続けていく。すると、徐々に、メモよりも考察の部分が多くなってくる。古典作品の引用は考察の出発点であったのが、次第に考察を証明する例になってくる。
私たちが現在読む『エセー』は、そうしたモンテーニュの読書の成果に他ならない。

そのことは、21世紀の読者、とりわけ日本の読者が『エセー』を読む際の困難さにもなっている。
モンテーニュは数多くの古典作品を引用し、歴史や哲学の人物や彼らにまつわるエピソードを紹介する。彼にとっては古典作品が最も身近な世界であり、彼の時代の読者に広く共有されていた知識だった。
しかし、現代の読者にとっては、聞いたこともない古代ギリシアやローマの固有名詞が数限りなく出てくることになる。そして、それらが出てくる度に注を参照していると読書は進まず、手にしている本を放り投げることになってしまう。モンテーニュが難しく、退屈と感じられることにもなる。

そうした時にこそ、「暗記は知識ではない。」とか「史実を覚えることではなく、判断すること。」という言葉を思い出す必要がある。
固有名詞にこだわらず、何が描かれているかを理解し、自分なりに考え、判断力を養う。
そうすることで、今から400年以上前に死んだフランス最高の知性の一人と、個人的に会話をすることができる。
それは、モンテーニュ自身が古典作家たちと対話したことを繰り返す行為であり、私たちがエセーをしていることでもある。


『エセー』は、私たちに、モンテーニュの柔軟で穏やかな人間観を伝えると同時に、優れた読書体験の方法を教えてくれる。そこからは汲み尽くせない滋養が流れ出し、読者が自分を耕し、教養という果実を実らせる栄養素を与えてくれる。

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