第1部では、「古いパリはもはや存在しない。(町の形は/変わってしまう、ああ! 人の心よりももっと早く。)」という確認がなされた後、古いパリの姿が心の中に描き出され、「過去」に対するメランコリックな憧れが強く表出された。
第2部でも、「パリは変わりつつある!」と、時間の経過とともに過去が失われ、全てが変わってしまうという考察が最初に取り上げられる。
しかし、第1部とは違い、「私」の意識は過去に向かうのではなく、現在に留まり続ける。つまり、「私は考えている(Je pense)」という行為そのものに焦点が絞られる。
第1詩節ではその原理が開示され、続く詩節からは具体例が示されていく。
(朗読は1分45秒から)
II
Paris change ! mais rien dans ma mélancolie
N’a bougé ! palais neufs, échafaudages, blocs,
Vieux faubourgs, tout pour moi devient allégorie,
Et mes chers souvenirs sont plus lourds que des rocs.
II
パリは変わりつつある! しかし、何も、私のメランコリーの中では、
動きはしなかった! 新しい宮殿も、工事の足場も、資材の山も、
古い街並みも、全ては、私にとって、アレゴリーになる、
そして、私の大切な思い出は、岩よりも重い。
何も動くことがなかった「私のメランコリーの中(dans ma mélancolie)」とは、何を意味しているのだろうか? そして、そう言うことで、詩人は何を読者に伝えようとしたのだろう?
その答えのヒントは、「何も(rien)」動かなかった例として列挙される物の中にある。
ロマン主義的な精神は、決して到達できないもの(イデア、過去等)へのメランコリックな憧れという、プラトニスム的な思考に基づいている。
第1では、「古いパリ(le vieux Paris)」、つまり改造前のカルーゼル広場の姿が心の中に思い起こされ、白鳥の心は「故郷の美しい湖」で満たされていた。
第2部でもまた、「古い街並み(vieux faubourgs)」、つまりかつてのカルーゼル広場に言及される。
しかし、その一方で、「新しい宮殿(palais neufs)」が真っ先に挙げられ、建築現場に置かれていた違いない「足場(échafaudages)」や「資材の山(blocs)」も対象になる。
カルーゼル広場では、新しい建物が建造される一方、ボードレールが「白鳥」を書いた1859年以降になっても、例えばセーヌ河寄りのドワイヤネ(Doyenné)の方ではまだ工事が続いていた。その様子は当時撮影された写真からも見て取ることができる。



従って、メランコリーの中で思うのは、「過去」だけではなく、「現在」も含まれることになる。
そして、そこでは、「全て(tout)」が「アレゴリー(allégorie)」になる。
アレゴリーは寓意と訳されることが多いが、語源はギリシア語のallēgoria(allos他+ agoreuein話すこと)で、ある事について、それを直接話すのではなく、別の表現によって暗示的に話すことを意味する。
その意味では、「象徴(symbole)」と近いが、ボードレールがここで考えているのは、鳩は平和のシンボルといった一対一の繋がりではなく、今目の前にある「これ」が、ここにはない「それ」を暗示するという、自由な連想のシステムだといえる。

このことは今の私たちにはごく当たり前のことに思われるかもしれないが、19世紀後半から現代に続く芸術観にとっては、決定的な意義を持った。
伝統的な芸術観においては、現実の対象を再現しながら、再現された事物を通して、すでに存在する理想像を作り上げることが問題とされた。
こう言ってよければ、パラダイスはアダムとイブの楽園にあり、決して未来に新たな形で作り上げられるものではなかった。
アレゴリーの意義にしても、例えば、アルブレヒト・デューラーの「メランコリア I」であれば、膝の上に肘をついた人物のポーズは「憂鬱気質」の表現であり、手に持つコンパスや床の玉は「幾何学」を象徴することが、文化的な規範によって定められていた。
つまり、どの対象が何を意味するかはすでに決まっていて、使用者はその規定に従うしかなかった。
それに対して、全てがアレゴリーになるというボードレールの主張に従えば、どの対象を取り上げてもいいし、それが何を意味するかも決まった規則はなく、新しい繋がりをその都度作り上げていくことができることになる。
別の視点からすれば、アンドロマックも白鳥も決まった象徴性があるわけではなく、一つ一つの詩の中で、担う意味が変わったとしてもかまわない。
詩に関しても、現実を再現した場面が必ずしもモデルとなった現実の場所を対象とする必要はなく、詩の言葉が新しい場所を創造することができる、ということになる。
そのように考えると、芸術は現実の理想的な「再現」ではなく、「新しいもの」「未知なる物」を目ざすことになる。
こうした考え方に基づく芸術観が、「モデルニテ」という言葉で呼ばれるものにほかならない。
その際に、現実や日常的な言葉の使い方を無視していいというわけではなく、「白鳥」で思い描かれるカルーゼル広場のように、現実に根を下ろしていることもある。ただし、それは現実の広場を「再現」するためではなく、言葉によって描かれた詩の中のカルーゼル広場から出発して、新しい意味を生み出すことを目指している。
「愛おしい思い出(mes chers souvenirs)」が「重い(lourds)」のは、ロマン主義的な精神性によれば、愛しい過去への憧れに由来することになるが、モテルニテの精神性の中では、思い出が「今、ここ」にあり、今まさに過ぎ去っていることによる。
「パリは変わりつつある」という言葉は、第2部では、以上のように理解する必要がある。
第2−3詩節になると、目の前のルーブル宮を前にして、まず白鳥を、次にアンドロマックのことを想い描くことで、第1部と同様の存在を、順番を逆転して取り上げる。
Aussi devant ce Louvre une image m’opprime :
Je pense à mon grand cygne, avec ses gestes fous,
Comme les exilés, ridicule et sublime,
Et rongé d’un désir sans trêve ! et puis à vous,
Andromaque, des bras d’un grand époux tombée,
Vil bétail, sous la main du superbe Pyrrhus,
Auprès d’un tombeau vide en extase courbée ;
Veuve d’Hector, hélas ! et femme d’Hélénus !
そのために、このルーブル宮を目の前にして、一つの映像が私を圧迫する。
私は考えている、馬鹿げた身振りの、あの大きな白鳥のことを、
ちょうど、追放された者たちのようだ、滑稽で崇高、
そして、一つの欲望に蝕まれている、絶えることなく! その次は、あなたのことを、
アンドロマックよ、偉大な夫の腕から、墜落したのだ
賤しい家畜となり、堂々としたピリュスの両手の下に、
(そして今)空っぽの墓のそばで、恍惚として身をかがめている。
エクトールの寡婦よ、ああ! そして、ヘレヌスの妻よ!
« aussi »という言葉は、「同様に」という意味のほか、「そのために、だから」を意味する。ここでは、第1詩節で開示されたモデルニテの美学の後で、その美学の応用を示している。
そして、現在に意識を集中している印として、「このルーブル宮を前にして(devant ce louvre)」という指定がなされる。今、ここが問題なのだ。
「一つの映像が私を圧迫する(une image m’opprime)」の「一つの映像(une image)」とは、「ある一つのイメージ」という意味だが、それは一つの決まったイメージではなく、どの「一つのイメージ」でもいい。
従って、それは、「私は考えている(Je pense à )」の対象となる「白鳥」や「アンドロマック」、さらに第4詩節以降で次々に数え上げられる「黒人女性(la négresse)」以下の人々のことでもある。
それらが「私を圧迫する(m’opprime)」。
« opprimer »は、語源的には暴力や権威によって苦しめるという意味で、圧迫する、抑圧する、虐げるといった意味になる。
そして、なぜ一つの映像によって「私」の胸が締め付けられ苦しくなるかと言えば、それは「私」の考える映像がすべて「虐げられた(opprimé)」存在だからに他ならない。
白鳥は、水のない広場で不格好な姿をさらしている。しかも、「馬鹿げた身振り(gestes fous)」で地上を歩きながら、「ある一つの望み(un désir)」、つまり「今ここにないもの(例えば、故郷の美しい湖に戻ること)」を抱き続けている。
だからこそ、「滑稽(ridicule)」でありながら、「崇高(sublime)」でもある。
そして、その鳥は、祖国から追放された流刑者のアレゴリーであり、産業化されつつある近代社会の中で生きるボードレールの仮の姿でもあるだろう。
想いがアンドロマックへと移行する際には、第4詩節の最後に« et puis à vous(そして、次は、あなたのことを)»とされ、第5詩節の冒頭に« Andromaque »と続けられる。そのことは、すでに記したように、伝統的な詩法に対する違反であり、しかもアンドロマックという名前を際立たせる効果も持っている。
そのアンドロマックに関しては、心は常にヘクトールに向けられ、彼の死後も気持ちは「寡婦(veuve)」であり続ける。そして、エクトールの死後、「賤しい家畜(Vil bétail)」のようにしてピリュスに与えられ、次にはヘレヌスの妻とさせられながら、異国の地で、エクトールの遺体が入っていない「空っぽの墓(tombeau vide)」の前で、「恍惚となって(en extase)」、祈りを捧げる。
アンドロマックもまた流刑者のアレゴリーであり、「無=永遠」を夢見て「恍惚」となる詩人の仮象でもある。
第2−3詩節で、白鳥とアンドロマックを再び取り上げたことは、第1部のテーマに基づきながら、そのテーマに対する視点を変更する試みだと考えることができる。
つまり、「今ここにないものへのメランコリックな憧れ」から、「今ここの焦点化」への移行。
第4−5詩節では、「私は考えている」対象がさらに拡大されていく。
Je pense à la négresse, amaigrie et phtisique,
Piétinant dans la boue, et cherchant, l’œil hagard,
Les cocotiers absents de la superbe Afrique
Derrière la muraille immense du brouillard ;
A quiconque a perdu ce qui ne se retrouve
Jamais, jamais ! à ceux qui s’abreuvent de pleurs
Et tètent la douleur comme une bonne louve !
Aux maigres orphelins séchant comme des fleurs !
私はあの黒人女性のことを考えている、(彼女は)痩せ細り、肺結核を患い、
泥の中で足踏みし、そして、探している、虚ろな目で、
堂々としたアフリカには存在しないヤシの木を、
霧が作り出す巨大な壁の後ろに。
(私は考えている)再び見つけられないものを失った人のことを、
決して、決して(再び見つけられないものを)! 涙をたっぷり飲み、
善良な雌狼の乳を吸うように、苦痛を吸う人々のことを!
花のように乾燥する、痩せ細った孤児たちのことを!
「黒人女性(la négresse)」には定冠詞が付けられ、どの女性か最初から限定されている。彼女はもしかするとボードレールが1840年に発表した詩「あるマラバール島の女へ(À une malabaraise)」で歌われたインド南部の島で出会った女性かもしれないし、あるいはボードレールのミューズであったジャンヌ・デュヴァルを指しているのかもしれない。
ジャンヌ・デュバルに関しては、ボードレールのスケッチや、エドワール・マネの描いた「ボードレールの愛人」の中に、面影が残されている。


しかし、「全ては、私にとって、アレゴリーになる(tout pour moi devient allégorie)」であることを考えれば、黒人女性のモデルを探すのではなく、「黒人女性」という言葉がどのような存在を作り出すのかが問題になる。
彼女は「泥(boue)」の中で「足踏みし、なかなか進まず(piétiner)」にいる。
そして、「ヤシの木(cocotiers)」を探しているのだが、その木はアフリカには「存在しない(absents)」。それでも探し続けるのは、「霧が作り出す巨大な壁(muraille immense du brouillard)」に包まれて、存在しないものが存在すると思い込んでいるから。
そのために、彼女は「痩せ細り、肺結核を患い(amaigrie et phtisique)」、もしかすると死を目前にしているほど弱っているかもしれない。
彼女がもし存在しないヤシの木を探さないのであれば、健康に生きられるのかもしれない。しかし、それでは彼女から崇高さは失われてしまう。
第5詩節になると、数多くの人々(quiconque, ceux, orphelins)が次々に列挙される。
「決して再び見つけられないものを失った人(quiconque a perdu ce qui ne se retrouve)」に関しては、« jamais »が次の詩行に送られる手法(ルジェ)によって、「決して」が強調される。

苦痛のために涙を流す人々に関して注目しなければならないのは、彼らが「苦痛(douleur)」を母乳のように飲むこと。
苦痛が彼らを養うのであり、涙はその証となる。
もし苦痛を感じなければ、今ここから過ぎ去っていく瞬間を捉えようとはしないだろう。
「善良な雌狼(une bonne louve)」が善良なのは、苦痛が美の精神を養う滋養となるからに他ならない。
「孤児(orphelin)」は、両親から引き離された存在であり、祖国を失った「追放者」と見なすこともできる。
その存在が、ここでは、「花のように乾燥する(séchant comme des fleurs)」のだと言われる。
一般には、花は咲き誇る美しい姿が思い浮かべられるが、その美しい姿も時間の経過とともに失われていく。「乾燥」は、美が移り変わるものであることを、開花とは逆の方向から示すことになる。
以上のように、第2−5詩節では、白鳥、アンドロマック、黒人女性、再び見つけられないものを失った人、苦痛を飲む人々、孤児たちがアレゴリーとなり、ブルジョワ的な価値観が支配する社会の中で、「美」を追究する精神のあり方を様々な角度から浮き上がらせたのだった。
続く第6詩節は「白鳥」全体の結論であり、「思い出(Souvenir)」が過去にではなく、現在において音楽を奏でることが歌われる。
Ainsi dans la forêt où mon esprit s’exile
Un vieux Souvenir sonne à plein souffle du cor !
Je pense aux matelots oubliés dans une île,
Aux captifs, aux vaincus !… à bien d’autres encor !
そんな風に、私の心が亡命する森の中で
一つの古い「思い出」が鳴っている、角笛を力一杯吹きながら!
私は考えている、島の中に忘れられた船乗りたちのことを、
捕らえられた者たちのことを、打ち負かされた者たちのことを!・・・さらに多くの別の人々のことを!
「そんな風に(Ainsi)」は、それまでのことを総括し、結論へと導く言葉。
その結論は最初の2行の詩句に集約され、最後の2行は、« Je pense à »という詩句の残響を読者に伝えるために付け加えられている。
「私の心(mon esprit)」は、「自らを追放=亡命している(s’exile)」。
そのことは、ここまで多くのアレゴリーによって暗示されてきたように、詩人=美を求める者がブルジョワ社会を行き、疎外感を感じていることを意味している。彼は今ここで「抑圧され(opprimé)」、「苦痛(douleur)」の中に生きている。
しかし、その状態は受動的なものではなく、「自らを追放する(s’exile)」、つまり他の力によって強いられたものではないという認識が示される。
そして、私の心が亡命者として存在する森の中で、「一つの古い「思い出」が鳴り響く(Un vieux Souvenir sonne)」。
ここで重要なことは、「鳴り響く( sonne)」のが現在であること。
「思い出」は過去にあり、その過去に戻りたい、あるいはその過去を取り戻したいと強く願うのではなく、今まさに通り過ぎているものが「思い出」として鳴り響く。
こう言ってよければ、「美」をめぐる「思い出」の意味が変化し、「今」が「思い出」の場所になる。
「角笛(cor)」が「力一杯吹かれる(à plein souffle)」のは、「今」なのだ。
そこで捉えられる「美(beauté)」は、「束の間(fusitif)」でありながら「永遠(éternel)」でもある。
その美を最も的確に捉えたのは、「通り過ぎた女(ひと)へ(À une passante)」と題された詩。「白鳥」と並んで、ボードレールの最も美しい詩の一つに数えられる。

Un éclair… puis la nuit ! — Fugitive beauté
Dont le regard m’a fait soudainement renaître,
Ne te verrai-je plus que dans l’éternité ?
一瞬の閃光・・・ 次に、夜!ーー逃げ去る美よ、
その視線が、突然、私を甦らせた。
私はもうあなたを、永遠の中でしか見ないのだろうか?
https://bohemegalante.com/2019/12/14/baudelaire-a-une-passante/
閃光のように通り過ぎる女こそ、モデルニテの美のアレゴリーとして最も相応しいと言ってもいいだろう。そして、この詩句はこの上もなく美しい。
しかし、ボードレールは全てがアレゴリーになると考えた。つまり、表現と内容が一体一の対応をし、それが固定化されるのではなく、私を圧迫する「ある一つのイメージ(une image)」は、アンドロマックでも、白鳥でも、黒人女性でも、他の様々なものでもいい。
その多用性と自由が、「白鳥」の最後の二行の詩句によって暗示される。「島の中に忘れられた船乗りたち(matelots oubliés dans une île)」「捕らえられた者たち(captifs)」「打ち負かされた者たち(vaincus)」と列挙され、「さらに多くの別の人々(bien d’autres encor(e))」と締めくくられる。
全てが美のアレゴリーになる実例が、ここで示されるのである。
新しい美を求めて「苦痛」の中にいる「私」が、「あなたのことを考えている(Je pense à vous)」と呼びかければ、「あなた」と呼ばれたすべてが美のアレゴリーになる。
ボードレールは、「白鳥」を二つの部分に分割することで、ロマン主義的な美意識からモデルニテの美学への移行を、アレゴリーとして描き出した。
そのように理解すると、なぜボードレールがこの詩をヴィクトル・ユゴーに捧げたのか、その理由が垣間見えてくる。
ユゴーは1820年代からロマン主義を先導し、1852年にナポレオン3世に反対して英仏海峡に位置する島に亡命している間も、ロマン主義精神の具現者だった。
ボードレールの出発点もロマン主義であり、その意味でユゴーの後に続く詩人として自分を位置づけ、第1部ではロマン主義精神を歌ってみせた。
その上で、第2部に至り、ロマン主義の巨匠に向かい、新しい詩の可能性を示してみせたのだった。そこでは、「美」は、すでに存在する永遠の理想を反映するものではなくなり、「新たなもの(nouveau)」「未知なるもの(inconnu)」、そして、過去の基準からすれば「奇妙なもの(bizarre)」「人を驚かせるもの(étonnant)」となる。
その意味で、「白鳥」は、「現代生活(la vie moderne)」の詩人ボードレールの美学を描く詩だと言うことができる。
