ベルクソン 「生」の哲学

アンリ・ベルクソンは1859年に生まれ、1889年に発表した最初の著作『意識に直接与えられたものについての試論』から出発して、「生(vie)」を中心とした哲学を展開した。

その哲学は19世紀後半における世界観の大転換の流れに沿ったものであり、ベルクソンの生の哲学を知ることは、19世紀後半以降の新しい世界観を知るために非常に有益だといえる。しかし、彼の著作やそれらの解説書はかなり細かな議論が積み重ねられ、すぐに明快な理解に達することができないことが多い。

ここでは、文学や絵画など芸術を理解するという視点に絞り、ベルクソン哲学の核心と19世紀後半の世界観の大転換について考えてみたい。

ベルクソンの生の哲学は、時間に関する考察から始まった。
私たちは普通、時間を知りたければ時計を見る。夕方の7時に誰かと会う約束をすれば、会うことができる。時間は誰にも共通で測定可能な基準だと考えられている。
その一方で、退屈な時には時間はなかなか経たず、楽しい時にはアッと言う間に過ぎてしまう。そうした内的な時間は、個人によっても、その時々によっても感じ方が違い、長くなったり短くなったりする。

Dali Persistance de la mémoire

一般的には、時計の時間が科学的に正確な時間であり、内的な時間は主観的な感じにすぎないと考えられてきたし、現在でもそのように見なされる傾向にある。
それに対して、ベルクソンは、実感する時間こそが「実在するもの(le réel)」であると主張し、「持続(durée)」と呼んだ。
それは、「生(vie)」の途切れのない流れとも考えられる。

サルバドール・ダリの「記憶の固執」(1931)は、ベルクソンの言う持続の世界を実感させてくれる。

私は、19世紀後半の世界観の大転換が、フランス文学や芸術の分野では、シャルル・ボードレールを中心として展開したのではないかと考えている。
その流れの中で、ボードレールが「束の間」と「永遠」を美の二つの側面と捉えたのと同じように、ベルクソンの「時間」と「持続」も、一つの実在を二つの視点から捉えた様相だと見なすことができるだろう。(ベルクソンの専門家からは同意されないかもしれないけれど。)

私たちは、時計によって示される時間(時刻)に合わせて予定を立てることもあるし、人と会話をしていて時間を忘れている時もある。ただし、楽しい時でも時間は過ぎていて、後で時計を見ると、それが1時間だったことがわかったりする。
そのように考えると、「時間」と「持続」は対立する二つの事項ではなく、「生」の二つの捉え方だと見なすことができる。

(2)
(1)

「時間」と「持続」を映像化すれば、以下のようになるだろう。
「時間」(1)は空間的にも三次元が保たれ、私たちの現実認識が再現されている。
「持続」(2)では空間が乱れ、事物の輪郭は曲がり、歪む。

19世紀の半ばまでであれば、機械時計によって表現される時空間が「実在」するものと考えられ、事物の正しい姿だと考えられてきた。
それに対して、歪んだ時計の世界は、狂気や幻想の作り出す幻影にすぎなかった。

サルバドール・ダリはヴェラスケスを高く評価し、彼の髭はヴェラスケスを真似たものだと言われている。
それほどの影響を受けたとしても、ヴェラスケスは17世紀スペインの画家であり、彼の表現は三次元の空間に基づき、一つ一つの事物が知性によって認識可能な姿をしている。

例えば、酒の神バッカスの絵画でも、全てが合理的で、認識可能である。みんなが酔いしれているとしても、映像に乱れはない。

Velazquez Triomphe de Bacchus

それに対して、19世紀半ば以降、一般的には実証主義的、科学主義的な思考が強まる中で、それとは対照的な思想が芸術や哲学の中で主張されるようになった。それが、「生」を人間の内的な感覚に求める動きである。
そこでは、時間は伸びることも縮むこともあり、空間は歪み、事物の輪郭がおぼろげになる。ベルクソンの「持続」は、その哲学的な考察だといえる。

1931年に制作されたダリの「記憶の固執」より以前、19世紀の終わり、ノルウェーの画家ムンクが、そうした世界像を「叫び」によって表現したことがある。

繰り返すことになるが、「時間」と「持続」に代表される二つの世界観は、対立するのではなく、一つの体験についての二つの視点だと見なすことができる。
そのように考えた方が、19世紀後半のヨーロッパの世界観に適合しているといえるだろう。


ムンクやダリの絵画を見て、理性的な分析をしても、理解には達しない。なぜなら、その映像は合理的な認識を超えた、非合理的な世界が画家によって捉えられているからである。
そして、そうした世界を捉えるためには、「直感」によるしかない。

それと同様に、ベルクソンの「持続」を捉えるのも、「直感」である。
客観的な基準に基づき、分析し、知性的な認識をしようとしても、理解ができない。
「時間」は全ての人に共通する基準だがが、「持続」は一人一人の「生」であり、他の人と直接共通するものではない。
分析を重ねることで理解されるのではなく、「直感」によって一気に感知される。
その意味で、自分だけにしか感じられない「自己」の世界であり、何の基準もない「自由」な世界だといえる。

そこを流れる「生」は、時計の秒針やデジタルの数字で示される点が連続したものではなく、切れ目なく流れ、「持続」している。
そのことは、「今」という時を考えてみるとわかりやすい。

私たちは常に「今」を生き、「今」しか生きられない。しかし、「今」という時を意識しようとすると、捉えることができない。
「今」と言った途端、その瞬間はすでに過ぎ去ってしまい、「今」ではなくなってしまう。

逆に言えば、「今」を意識化する行為は、生きている時間(持続)を分断し、時計的な捉え方に変換することだといえる。

そのことは、時計的な時間の測定としては意味がある。例えば、陸上競技で100メートルを走る速度を争う場合には、測定結果の数字が順位を決める。

その一方で、「今」を分断せずに生きている体験もある。
例えば、ドミソという音を聞くと、調和した和音の流れになり、気持ちよく感じる。

時計の時間的に考えると、一音一音は各瞬間に鳴る断絶した音である。ドはドで独立し、音が聞こえた瞬間に消え去る。
次にミの音が聞こえ、その瞬間が消え去る。そしてソが聞こえる。
ソの音が聞こえる時には、ド・ミはすでに存在しない。従って、調和した音の繋がりを感じることはないはずである。

しかし、私たちはドミソを聞いて、心地よい音の流れを感じる。その証拠に、ソではなく、ファの音が聞こえると、違和感があり、不調和な感じがする。
ということは、ソあるいはファの音を聞く「今」でも、時計の時間的には過去となったはずのド・ミが、ソあるいはファの瞬間にも「持続」していることになる。
生きた時間では、ドミソの音が区切れることなく「持続」し、ソの瞬間にドとミは「記憶」されている。そうした漠然とした塊が、「今」なのだ。

このように考えると、ベルクソンが「生」や「実在」を「持続」においた理由がわかってくる。
私たちには普通、ドミソが心地よい音の流れとして感じられる。それが自然な体験だ。
それに対して、ド・ミ・ソをばらばらに認識するためには、意識的な操作が必要になる。(ちなみに、分裂病の患者には時間がばらばらに観じられるという研究がある。)
自然な体験が「持続」であるのに対して、思想史的には知的な認識が捉える「時間」に正当性が与えられてきた。その常識をつくがえすため、「持続」に実在性を認める逆説は、一つの戦略として有効だったはずである。

結局、ベルクソンの哲学が「持続」の考察から始まったとすると、それは「生」を内的体験として解明するためだったといえる。
研究が進むにつれ、彼の探求は生命体全体や宇宙にまで広げられ、「生の躍動(élan vital)」が、ダーウィンの目的論的進化論に反対して、無目的な変化をもたらす原動力として提示されるところまで達した。

こうしたベルクソンの哲学が、19世紀後半以降の芸術と並行関係にあることは、ムンクやダリの絵画からも知ることができる。

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